
カツ、カツ、カツ。香奈のハイヒールが、夕暮れの公園の石畳を虚しく叩く。
その音は、まるで今の彼女の心臓の鼓動みたいに、硬くて、冷たくて、どこかちぐはぐだった。
香奈、36歳。外資系コンサルタント。
我ながら、そこそこ頑張ってきた人生だと思っていた。仕事だって手を抜いたことなんてないし、美容だって、それなりに気を遣ってきたつもり。
そして、誰もが羨むハイスペックな彼、悟(さとる)との婚約も間近だった――そう、つい一週間前までは。
「香奈とは、結婚に対する価値観が違うみたいだ」
悟は、いつもの涼やかな顔で、まるで天気の話でもするようにそう言った。
青天の霹靂? いいえ、そんな生易しいものじゃない。それは、香奈の築き上げてきた自信とプライドを粉々にする、巨大な鉄槌の一撃だった。
価値観の違い、ですって? 半年後には式場を予約しようって話までしていたのに?
あまりの衝撃と屈辱に、香奈は反論する言葉さえ見つけられなかった。ただ、目の前が真っ暗になるのを感じた。
あれから一週間、仕事はミスの連続。
食欲もなくて、鏡を見れば、目の下にどす黒いクマを飼っている自分がいる。お気に入りのワンピースも、なんだか色褪せて見える。
これがあの、キラキラした毎日を送っていたはずの私? まるで別人のようだわ。

今日も、仕事帰りに気づけば足が向いていたのは、オフィス街の喧騒を少し離れた、この古びた公園だった。
ベンチに深く腰を下ろすと、堰を切ったように涙が溢れて止まらない。
子供みたいに声を上げて泣きたいけれど、通行人の目が気になって、必死に嗚咽を噛み殺す。惨めだ。
36にもなって、失恋ごときでこんなになるなんて。でも、ごときなんかじゃない。私の全てだった。そう信じていたかったのよ。
「……うぅ……ひっく……」
どれくらいそうしていただろう。ふと、足元に何かの気配を感じた。恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは、一匹の大きな猫だった。
(え……猫?)
思わず涙が引っ込む。その猫は、お世辞にも可愛いとは言えなかった。
薄汚れた茶トラ柄で、顔のあちこちに喧嘩の勲章だろう生々しい傷跡があり、片方の目は白く濁って、まるで歴戦の勇士か、あるいは裏社会のボスのような風格を漂わせている。
香奈はどちらかというと、ふわふわの毛並みで、つぶらな瞳の子猫が好きだったから、その威圧感に一瞬怯んだ。
(こわ……もしかして、噛みつかれたりするのかしら?)
身じろぎもできずに固まっていると、そのボス猫は、香奈の足元に、本当に静かに、どっかりと腰を下ろした。
まるで、「ま、座らせてもらうぜ」とでも言うように。そして、何をするともなく、じっと前を見据えている。
香奈のことなど気にも留めていない、という風情で。
不思議と、怖さは薄れていた。ただ、その大きな背中が、やけに頼もしく見えた。
それから毎日のように、香奈は仕事帰りにその公園に立ち寄るようになった。
おかしな話だけれど、あのボス猫に会うために。

ボス猫はいつも、夕暮れ時の公園の、決まったあたりの縄張りをパトロールしているか、あるいは例のベンチの近くで悠然と座っているのだった。
香奈が近づいても、もう逃げたり威嚇したりはしない。ただ、黙って香奈の存在を受け入れているようだった。
香奈は、誰にも言えなかった心の内の澱を、ボス猫に向かって吐き出すようになった。
もちろん、ボス猫が人間の言葉を理解するわけはない。それでも、香奈にとっては大切な時間だった。
「ねえ、ボス。悟ったらひどいのよ。価値観の違いって、もっと早く言ってくれればいいじゃない! 私の3年間を返してほしいわ!」
「あのね、私だって、別に結婚がゴールだなんて思ってない。でも、でもね……やっぱりショックだったのよ。プライドも何もかも、ズタズタよ」
ボス猫は、時折「フン」とでも言うように短く鼻を鳴らしたり、香奈の話が長すぎると、ふいっと顔を背けて毛繕いを始めたりもした。
でも、決して香奈のそばを離れようとはしなかった。
その傷だらけの顔、少し濁った片目。厳しい自然の中で、たった一人で生き抜いてきたであろうその姿が、なぜか香奈に無言の励ましを与えてくれるようだった。
(この子だって、きっとたくさん痛い思いをしてきたんだわ。それでも、こうして堂々と生きている)
そう思うと、自分の失恋の傷なんて、なんだかちっぽけなものに思えてくるから不思議だった。
ある日、香奈はボス猫の左前足に新しい傷ができているのに気づいた。赤く腫れて、痛々しい。
「ボス! 大丈夫なの、それ?」

思わず手を伸ばそうとしたが、ボス猫はサッと身をかわし、低い唸り声をあげた。人間を完全に信用しているわけではないのだ。
その警戒心に、少しだけ胸がチクリとしたけれど、無理強いはできない。
(どうしよう。放っておいたら化膿しちゃうかもしれないのに)
香奈は薬局で消毒薬とガーゼを買い、こっそり鶏肉のササミを買って、細かく裂いてボス猫の前に置いた。
もちろん、薬を直接塗らせてくれるはずもない。でも、栄養のあるものを食べれば、少しは治りも早くなるかもしれない。
ボス猫は最初、訝しげに香奈とササミを交互に見ていたが、やがておずおずと口をつけ始めた。その姿を見ながら、香奈は思った。
(私、何してるんだろう。元彼のことでメソメソして、仕事も手につかなくて。でも、この子にご飯をあげてる時は、少しだけ心が落ち着くわ)
ボス猫は、媚びない。甘えない。自分の力だけで、この厳しい都会を生き抜いている。その潔さが、香奈には眩しく見えた。
失恋相手を見返すために綺麗になるとか、もっといい男を捕まえるとか、そんな矮小なことじゃない。
もっと、こう、自分の足でしっかりと立って、自分のために生きたい。ボス猫のように、強く、しなやかに。
香奈の中で、何かが確実に変わり始めていた。
数週間後、香奈は新しいスーツに身を包み、以前よりも少しだけタイトなスカートを選んで、鏡の前に立っていた。
目の下のクマはすっかり消え、肌には艶が戻っている。何より、目の輝きが違っていた。失恋の痛みが完全に消えたわけではない。
でも、それはもう、彼女を打ちのめすものではなくなっていた。
「よしっ」
小さく気合を入れて、香奈は新しいプロジェクトのリーダーとして、颯爽とオフィスに向かった。
仕事で正当に評価されたい。
自分自身の力で、未来を切り開きたい。そんな清々しい気持ちでいっぱいだった。
週末、香奈は久しぶりに公園を訪れた。ボス猫は、いつものように縄張りを悠然と歩いていた。
香奈を見つけると、一瞬動きを止め、じっとこちらを見つめる。
その濁った片目が、ほんの少しだけ優しく細められたように見えたのは、香奈の気のせいだろうか。
「ボス、元気だった?」

香奈が声をかけると、ボス猫はゆっくりと近づいてきて、香奈の足元にゴロリと横になった。
そして、お腹を見せるわけではないけれど、少しだけ喉をゴロゴロと鳴らした。
それは、ボスなりの最大限の親愛の情を示しているようだった。
香奈はしゃがみこんで、そっとボス猫の頭を撫でた。今度は、ボス猫も逃げなかった。
傷だらけだけれど、どこか温かいその感触が、香奈の心にじんわりと広がっていく。
(ありがとう、ボス。あなたがいたから、私、立ち直れたんだと思う)
言葉にはしなかったけれど、その感謝の気持ちは、きっとボス猫に伝わったはずだ。
香奈は、もう大丈夫。新しい恋だって、いつか自然と訪れるかもしれない。
でも、今は焦らない。自分の人生を、自分の足でしっかりと歩んでいく。
ボス猫が教えてくれた、その強さと優しさを胸に。
公園の緑が、夕日に照らされてキラキラと輝いていた。
それはまるで、香奈の新しい未来を祝福しているかのようだった。
香奈は深呼吸を一つして、軽やかな足取りで公園を後にした。
彼女の背中にはもう、迷いはなかった。
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