三毛猫大家さんと、ときどき私

三毛猫大家さんと、ときどき私

「はぁ……」

新しい革の椅子の感触も、窓から見える都心のきらびやかな夜景も、今の沙織にとっては重たい溜息の燃料にしかならない。

沙織、38歳。IT企業に勤めるプロジェクトマネージャー。先日、長年の努力が実り昇進した。

それはもちろん喜ばしいことだったけれど、新しい部署はまるで戦場。古株の男性社員たちからの見えない壁、若手からは遠慮なのか戸惑いなのか、微妙な距離感。そして、のしかかるプロジェクトの重圧。気づけば、胃薬が手放せない毎日だった。

「やっぱり、環境を変えよう」

そう思い立ったのは、月のきれいな夜だった。もう少し、肩の力を抜いて暮らせる場所へ。

都心へのアクセスはそこそこ良く、でも緑があって、静かで、猫がいれば最高だな……なんて夢みたいな条件で探し当てたのが、今の住まい。

築年数はそれなりにいっているけれど、丁寧に手入れされた木造アパート「ひだまり荘」。

大家さんは、品の良いおばあちゃんだと不動産屋さんから聞いていた。

引っ越し当日。

汗だくで段ボールと格闘していると、開け放した窓の網戸に、ちょこんと何かが乗った気配がした。

「……ん?」

顔を上げると、そこには一匹の三毛猫がいた。くりくりとした大きな瞳で、じっと沙織を見つめている。

首輪はしていないけれど、毛並みは艶やかで、いかにも「この辺りの事情はすべてお見通しよ」と言いたげな堂々たる佇まい。

「あら、お客さん? かわいい……」

沙織がそっと手を伸ばそうとすると、猫はふいっと顔をそむけ、網戸を器用に前足で少し開け、するりと部屋に入ってきた。

そして、まだ荷物も片付いていない部屋をぐるりと一周パトロールすると、日当たりの良い窓辺にごろんと横になり、満足そうに喉を鳴らし始めた。

「えっと……どちら様?」

あまりの自然な振る舞いに、沙織は呆気にとられるばかり。そこへ、ひょっこり顔を出したのは、大家の鈴木さんだった。

腰の曲がった、優しそうなおばあちゃんだ。

「あらあら、沙織さん、ごめんなさいねえ。

ミーコったら、もう新しい店子にご挨拶に来たのかしら」 「ミーコ……この子の名前ですか?」 「ええ。もうずっと、このアパートの守り神みたいなものだから。気にしないでやってちょうだい」

そう言って微笑む鈴木さんの言葉に、沙織は「守り神、ねえ……」と、窓辺で優雅にくつろぐミーコを見つめた。

なんだか、このアパート、不思議なことが起こりそうな予感がする。

新しい生活が始まったけれど、沙織の心はまだ晴れなかった。通勤時間は少し長くなったものの、満員電車のストレスは変わらない。

会社に行けば相変わらず気の抜けない毎日。週末は疲れ果てて、部屋に籠りがちになった。

そんな時、決まってふらりと現れるのがミーコだった。最初は遠慮がちに窓の外から様子をうかがっていたけれど、すぐに慣れたのか、沙織がいてもお構いなし。

勝手に部屋に入ってきては、沙織の膝の上で丸くなって昼寝を始めたり、パソコンに向かう沙織のキーボードの上を悠然と横切ったり。

三毛猫大家さんと、ときどき私

時には、オンライン会議中の沙織の足元で、おもちゃのネズミと激しい格闘を繰り広げ、画面の向こうの上司に「……何か、賑やかだね?」と苦笑いされたこともあった。

その自由奔放で、予測不能なミーコの行動が、いつしか沙織の凝り固まった心を少しずつ解きほぐしていった。

「完璧じゃなくてもいいか」「まあ、なんとかなるか」そんなふうに思える瞬間が、少しずつ増えていったのだ。

ミーコの柔らかな毛を撫でていると、不思議と肩の力が抜けていくのを感じた。

ある金曜日の夜。週明けに控えた大事なプレゼンテーションの最終準備をしていた沙織は、真っ青になった。最終版の資料を入れたUSBメモリが見当たらないのだ。

「うそ……どこ? さっきまでここに……!」

机の上も、カバンの中も、思い当たる場所をすべて探したけれど、ない。冷や汗が背中を伝う。

このプレゼンが失敗したら、今度こそ本当にまずい。パニックで頭が真っ白になりかけた沙織の足元に、ふと影が差した。

「……ミーコ?」

見ると、ミーコが何かを咥えて、得意げな顔で沙織を見上げている。その口元には……。

「それっ! 私のUSB!」

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ミーコは「にゃうん」と小さく鳴くと、沙織の足元にぽとりとUSBメモリを落とした。

どうやら、きらきら光るそれに興味を持って、どこかへ隠して遊んでいたらしい。

「もー! 心臓が止まるかと思ったじゃない!」

沙織はUSBメモリを拾い上げ、安堵と同時に、なんだか可笑しくなってミーコを抱き上げた。

ミーコは迷惑そうにしながらも、沙織の腕の中でゴロゴロと喉を鳴らす。この小さな「影の大家さん」に、またしても救われた。

そして、この一件で、沙織のミーコへの愛着は、もう誰にも止められないくらい大きなものになっていた。

「ありがとう、ミーコ。あなた、本当に私の守り神かもね」

ミーコとの日々は、沙織にたくさんの気づきを与えてくれた。

完璧でなければ、と常に自分を追い詰めていたけれど、ミーコを見ていると、そんなことはどうでもよくなる。

「お腹が空いたら鳴くし、眠たければどこでも寝る。それでいいじゃない」と、ミーコが全身で教えてくれているようだった。

それは仕事にも良い影響を与えた。以前なら一人で抱え込んでいた仕事も、「ちょっと手伝ってもらえませんか?」と素直に同僚に頼めるようになった。

弱さを見せることは、決して悪いことではない。むしろ、それがチームの結束を強めることだってあるのだと、新しい部署のメンバーとの関係を通して学んだ。

ミーコは、沙織だけでなく、他の住人たちにとっても特別な存在だった。

隣の部屋の陽気な絵本作家のおばあさんは、ミーコをモデルに絵本を描いているらしかったし、上の階に住む無口な大学院生の青年は、いつもこっそりミーコに高級な猫用おやつをあげているのを沙織は知っていた。

ミーコがいるだけで、ひだまり荘にはいつも穏やかで、温かい空気が流れている。

ある日曜日の午後、沙織はふと思い立って、クッキーを焼いた。

そして、大家の鈴木さんと、隣のおばあさん、上の階の青年を誘って、アパートの中庭でささやかなお茶会を開くことにした。

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もちろん、主役はミーコだ。

「沙織さんのお菓子、美味しいわねえ」 「本当。ミーコもそう思うだろ?」

青年が膝の上のミーコに話しかけると、ミーコは「にゃあ」と返事をした。

まるで、「当然でしょ」とでも言いたげに。

柔らかな日差しの中、ハーブティーの香りと、みんなの笑い声が優しく響く。

昇進のプレッシャーも、人間関係の悩みも、今はもう遠い昔のことのようだ。

もちろん、完全に消えたわけではないけれど、今の沙織には、それらと上手に向き合っていく心のゆとりがあった。

「このアパートの本当の大家さんは、やっぱりミーコなのかもしれないわね」

鈴木さんが優しく微笑むと、みんなが頷いた。

ミーコは、そんな会話などどこ吹く風で、沙織の足元にすり寄ると、小さくあくびをした。

気まぐれで、自由奔放で、そして最高に愛おしい「影の大家さん」。

ミーコが運んできたのは、USBメモリだけじゃなかった。

人との温かい繋がりと、ありのままの自分を受け入れる勇気、そして何より、日常の中にある小さな幸せを見つける心。

沙織は、ひだまり荘での新しい生活を、これからもミーコと一緒に、前向きに楽しんでいこうと心から思った。

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窓辺で丸くなるミーコの背中を撫でながら、沙織の口元には、自然と柔らかな笑みが浮かんでいた。

この小さな三毛猫が、これからもきっと、たくさんの素敵な「縁」を運んできてくれるに違いない。

そんな確信にも似た温かい気持ちで、沙織の胸はいっぱいだった。

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