
楓(かえで)、三十七歳、独身。都心に程近いマンションで、一人と一匹、気ままな暮らし。いや、正確には、一匹が加わったのは、ほんの数ヶ月前のこと。
彼女の日常に、柔らかな陽だまりと、時折の小さなため息、そしてくすりと笑える瞬間を運んできたのは、月夜(つきよ)と名付けた保護猫だった。
広告代理店で働く楓は、やりがいを感じつつも、どこか満たされない日々を送っていた。
華やかな世界の片隅で、締め切りに追われ、プレゼン資料に頭を悩ませる毎日。ふと気づけば、カレンダーだけが忙しなくめくられ、季節の移ろいさえ他人事のように感じられた。
週末は溜まった家事をこなし、あとはソファで海外ドラマを一気見するか、近所のカフェで読書をするくらい。
もちろん、それなりに楽しいけれど、心のどこかにぽっかりと空いた穴は、なかなか埋まらなかった。
「猫でも飼おうかな…」
そんな言葉が口をついて出たのは、ある秋晴れの土曜日のことだった。特に深い意味があったわけではない。
ただ、幼い頃、実家で飼っていた三毛猫の温もりを、ふと思い出しただけ。

その猫は、楓が学校から帰ると、いつも玄関で出迎えてくれ、悲しいことがあった日には、そっと膝の上で喉を鳴らして慰めてくれた。
軽い気持ちでスマホをタップし、「保護猫カフェ」と検索してみる。
思ったよりもたくさんのカフェがヒットし、その中の一つ、駅から少し離れた隠れ家のような店のホームページに目が留まった。
木漏れ日が差し込む店内で、猫たちが思い思いにくつろいでいる写真。そこに写る一匹の猫に、なぜか強く惹かれた。黒に近い、深い藍色の毛並み。
そして、大きなアーモンド形の瞳は、どこか寂しげで、それでいて強い意志を秘めているように見えた。
「行ってみようかな」
その足で、楓は保護猫カフェ「ひだまり荘」へと向かった。
ドアを開けると、カランコロンと可愛らしいベルの音が鳴り、珈琲と、ほんのり甘い焼き菓子の香りに包まれた。
店内は、写真で見た通り、温かな日差しがたっぷりと注ぎ込み、あちこちで猫たちが昼寝をしたり、おもちゃでじゃれ合ったりしている。
「いらっしゃいませ」
奥から出てきたのは、優しそうな笑顔の女性スタッフだった。簡単な説明を受け、手を消毒し、スリッパに履き替えて中へ。
「あの子は…」
楓が探していたのは、ホームページで見た、あの藍色の猫。
部屋の隅、キャットタワーの一番上で、小さな毛布にくるまるようにして眠っている姿を見つけた。他の猫たちのように人懐っこく寄ってくるわけでもなく、どこか警戒しているような雰囲気。
「あの子は月夜ちゃん。推定一歳くらいの女の子です。少し臆病なところがあって、なかなか人に慣れないんですけれど…」
スタッフがそっと教えてくれた。
楓は、月夜の邪魔にならないよう、少し離れた場所に腰を下ろし、他の猫たちと遊びながら、そっと様子を窺った。
時折、月夜が薄目を開けてこちらを見ているような気がしたが、すぐにまた眠りについてしまう。
一時間ほど経った頃だろうか。ふと視線を感じて顔を上げると、月夜がキャットタワーから降りてきて、一定の距離を保ったまま、じっと楓を見つめていた。
その瞳は、何かを問いかけているようにも、何かを訴えかけているようにも見えた。
楓は、ゆっくりと手を差し伸べた。
「怖くないよ」
月夜は、ピクリと耳を動かしたが、逃げようとはしなかった。ほんの少しだけ、鼻先を近づけて、くんくんと匂いを嗅ぐ。
そして、また元の場所に戻ってしまったけれど、楓の心には、確かな温もりが灯っていた。
その日以来、楓は週末になると「ひだまり荘」に通った。
月夜は相変わらず臆病で、なかなか触らせてはくれなかったけれど、少しずつ、本当に少しずつ、距離が縮まっていくのを感じていた。
楓が持参したおもちゃに、遠巻きながらも興味を示したり、楓が帰ろうとすると、寂しそうな声で鳴いたりすることもあった。
そして、一ヶ月が過ぎた頃。いつものように月夜のそばに座っていると、月夜がおもむろに立ち上がり、おそるおそる楓の膝に前足を乗せた。
そして、次の瞬間、小さな頭をこてん、と楓の太ももに預けてきたのだ。
「月夜…!」
驚きと喜びで、声が震えた。そっと手を伸ばし、月夜の背中を撫でる。
ゴロゴロゴロ…と、小さなエンジンがかかったような音が聞こえてきて、楓の目から、ぽろぽろと涙が溢れた。
それは、寂しさからくる涙ではなく、温かくて、優しい涙だった。

スタッフと相談し、トライアル期間を経て、月夜は正式に楓の家族の一員となった。「お迎え記念日」と名付けたその日は、楓にとって、新しい人生の始まりを意味していた。
最初は、新しい環境に戸惑い、ソファの下やカーテンの裏に隠れてばかりいた月夜。楓は焦らず、月夜のペースを尊重した。
美味しいご飯を用意し、静かに声をかけ、月夜が安心できる空間を作ることに心を砕いた。
ある雨の日の夜。残業で疲れ果てて帰宅すると、玄関で月夜が待っていた。そして、初めて、楓の足にスリスリと体を擦り付けてきたのだ。
「おかえりなさい」と言っているかのように。その瞬間、楓の心を満たしていた疲労感が、すーっと溶けていくのを感じた。
それからの毎日は、小さな発見と喜びに満ちていた。
朝、顔を舐められて起こされること。パソコン仕事をしていると、キーボードの上に乗って邪魔をしてくること。
夜、一緒にベッドで眠り、月夜の寝息を聞きながら眠りにつくこと。何気ない日常の風景が、月夜がいるだけで、こんなにも彩り豊かになるなんて。
月夜は、楓にとってただのペットではない。かけがえのない家族であり、心の支えであり、そして、新しい世界への扉を開いてくれた存在だった。
臆病だった月夜が、少しずつ心を開き、甘え、時にはやんちゃな姿を見せてくれるたびに、楓自身の心も解き放たれていくのを感じた。
一人で抱え込んでいた寂しさや不安は、月夜の柔らかな毛並みに触れるたびに、少しずつ癒されていった。
休日の朝は、月夜と一緒に窓辺で日向ぼっこをするのがお決まりになった。
コーヒーを片手に、膝の上で丸くなる月夜の温もりを感じながら、未来への漠然とした不安ではなく、ささやかな幸せを噛みしめる。
「大丈夫、きっとうまくいく」
そう思えるようになったのは、間違いなく月夜のおかげだ。
ある晴れた日曜日。楓は、月夜を動物病院へ連れて行った。定期検診とワクチン接種のためだ。
キャリーケースの中で不安そうに鳴く月夜を、「大丈夫だよ」と優しく撫でる。
診察台の上で、少し緊張気味の月夜。でも、楓がそばにいると分かると、少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。獣医さんがテキパキと診察を進めていく。
「うん、健康状態は良好ですね。毛艶もいいし、体重も適正。大切にされているのがよく分かりますよ」
獣医さんの言葉に、楓は胸が熱くなった。
帰り道、キャリーケースの中で眠る月夜の寝顔を見ながら、楓はそっと呟いた。
「うちに来てくれて、ありがとうね、月夜」
それは、心からの感謝の言葉だった。
これからも、たくさんの「初めて」を月夜と一緒に経験していくのだろう。
時には悩んだり、困ったりすることもあるかもしれない。でも、この小さな温もりと、確かな信頼関係があれば、きっと乗り越えていける。
楓は、月夜との出会いが運んでくれた、ささやかだけれど確かな幸せを胸に、未来へと歩き出す。
窓辺には、今日も優しい月明かりが差し込んでいる。それはまるで、楓と月夜の新しい日々を、そっと祝福してくれているかのようだった。
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