陽だまりのアルバム ~あの日の猫、今の猫、私を育ててくれた小さな家族の記憶~

「にゃーん……ごろごろ」

陽だまりのアルバム ~あの日の猫、今の猫、私を育ててくれた小さな家族の記憶~

柔らかな日差しが差し込むリビングの窓辺。私の愛猫であるソイが、満足げな声を漏らしながら日向ぼっこをしている。

そのクリーム色の毛並みは陽光を浴びてキラキラと輝き、見ているだけで心がふわりと軽くなる。

ソイは保護猫だったけれど、今ではすっかり我が家の小さな女王様だ。私がパソコンに向かって仕事をしていると、そっと足元に寄り添ってきたり、キーボードの上に大胆にも香箱座りをして「撫でなさい」と無言の圧力をかけてきたりする。そんな気まぐれさも、たまらなく愛おしい。

先日、実家の押し入れを整理していたら、古いアルバムがひょっこり顔を出した。表紙には少し色褪せた文字で「ミーコとの思い出」と書かれていて、懐かしさで胸がいっぱいになった。ミーコ。それは私が小学校低学年の頃、初めて家族として迎えた三毛猫の名前だ。

アルバムをめくると、そこにいたのは小さな小さな私と、同じくらい小さなミーコだった。

拾われてきた当初は手のひらに乗るほどで、ミルクを飲むのもおぼつかないくらいだったミーコ。母と一緒にスポイトで一生懸命ミルクをあげたこと、初めて「にゃあ」と鳴いた時の感動、よちよち歩きで私の後をついてきた愛らしい姿……。

一枚一枚の写真が、鮮やかな記憶の扉を開いていく。

陽だまりのアルバム ~あの日の猫、今の猫、私を育ててくれた小さな家族の記憶~

ミーコは、それはもう賢くて、そして少しおてんばな猫だった。私が学校から帰ると、玄関まで出迎えてくれるのが日課だったし、私が泣いていると心配そうに顔を舐めてくれた。

宿題をしている私の隣で丸くなって眠るミーコを見ていると、なんだかとても心強かったのを覚えている。

ミーコは私にとって、妹のような、親友のような、かけがえのない存在だった。

でも、出会いがあれば、いつか必ず別れがやってくる。ミーコが15歳になった頃、少しずつ元気がなくなり、大好きだった鰹節にもあまり口をつけなくなった。

動物病院の先生は「老衰ですね」と静かに告げた。家族みんなで、ミーコが最期まで穏やかに過ごせるようにと、精一杯お世話をした。

そして、ある秋晴れの朝、ミーコは私の腕の中で、本当に眠るように静かに息を引き取った。

子供心に、「死」というものを初めて間近で感じた瞬間だった。

あんなに温かかったミーコが、冷たくなって動かない。その事実を受け止めるのが辛くて、何日も泣き続けた。

食欲もわかず、大好きだったアニメも見る気がしなかった。「もう二度と動物なんて飼いたくない」とさえ思った。ミーコのいない家は、まるで灯りが消えたように寂しかった。

母は、そんな私をそっと抱きしめてこう言った。「ミーコはね、あなたがたくさん愛情をくれたから、とっても幸せだったのよ。だから、ありがとうって言ってるわ。命には限りがあるけれど、一緒に過ごした大切な時間は、心の中でずっと生き続けるのよ」

その言葉が、当時の私にどれほど響いたかは正直覚えていない。でも、時間が経つにつれて、母の言葉の意味が少しずつわかるようになってきた。

ミーコとの思い出は、悲しいだけじゃなく、温かくて、キラキラしたものばかりだったから。ミーコは、私にたくさんの「初めて」を教えてくれた。

陽だまりのアルバム ~あの日の猫、今の猫、私を育ててくれた小さな家族の記憶~

初めての責任感、初めての深い愛情、そして、初めての大きな喪失感と、そこから立ち直る力。

命の尊さ、儚さ、そして、だからこそ今この瞬間がどれほど大切かということを、小さな体で教えてくれたのだ。

それから長い年月が経ち、私は大人になった。

実家を出て一人暮らしを始め、日々の忙しさに追われる中で、心のどこかでずっと、あの温かい毛並みの感触を求めていたのかもしれない。そんな時、近所の動物愛護団体の譲渡会で出会ったのが、ソイだった。

初めてソイを見た時、なぜだかミーコの面影が重なった。

もちろん、毛の色も模様も全然違うのだけれど、その澄んだ瞳の奥に、ミーコと同じような賢さと、少し臆病な優しさを感じたのだ。

ソイとの生活は、毎日が新しい発見と喜びに満ちている。朝はソイの「ごはんまだ?」という可愛い催促で目覚め、夜は私の布団にもぐりこんできて、ゴロゴロという心地よい振動で眠りにつく。

ソイが私の足にスリスリして甘えてくるとき、その温もりを感じるたびに、ああ、またこの幸せを感じることができて良かった、と心から思う。

ミーコを失った悲しみは、完全に消えたわけじゃない。

今でもふとした瞬間に、ミーコの鳴き声や仕草を思い出して、胸がキュンとなることがある。でもそれは、辛いだけの感情ではなくなった。ミーコがいたから、今の私がいて、そしてソイと出会えたのだと思えるようになったから。

ペットロスという言葉があるけれど、私は、失った悲しみを無理に乗り越えようとしなくてもいいんじゃないかと思う。

だって、それだけ深く愛した証なのだから。大切なのは、その悲しみと共に、愛した記憶を抱きしめて生きていくこと。

陽だまりのアルバム ~あの日の猫、今の猫、私を育ててくれた小さな家族の記憶~

そして、もしまた新しい命と巡り合う機会があるのなら、その子にもめいっぱいの愛情を注いであげること。それが、旅立っていった子たちへの一番の供養になるんじゃないかな。

先日、久しぶりに実家に帰り、母と一緒にミーコのアルバムを眺めた。

母は言った。「ミーコもソイちゃんも、あなたを選んでやって来てくれたのね。動物って不思議よね、言葉は通じなくても、ちゃーんと心が通じ合えるんだから」

本当にその通りだと思う。猫たちは、言葉以上に豊かな感情で、私たちにたくさんのことを教えてくれる。無償の愛、日々の小さな喜び、そして、何があっても「まあ、いいじゃない、一緒に日向ぼっこでもしましょうよ」とでも言うような、おおらかでマイペースな生き方。

窓辺で気持ちよさそうに眠るソイの頭をそっと撫でる。柔らかな毛の下に、確かな命の温かさを感じる。ミーコが繋いでくれた命のバトンは、確かにソイに、そして私の中に受け継がれている。

「ソイ、いつもありがとうね。これからもずっと一緒だよ」

小さな寝息を立てるソイに囁きかけると、まるで返事をするかのように、ソイの尻尾が小さく揺れた。

押し入れから出てきた古いアルバムは、私にとって、単なる思い出の記録ではない。

それは、世代を超えて繋がる猫との深い絆と、そこから得た人生の宝物が詰まった、

陽だまりのようなタイムカプセルなのだ。そして、この温かな記憶を胸に、私はこれからも、ソイとの毎日を大切に、愛情いっぱいに過ごしていこうと思う。

だって、それが、私を育ててくれた小さな家族への、一番の恩返しなのだから。



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