「商店街の幸運猫ミケと、私のほころぶ日々」
私、陽莉(ひかり)、32歳。システムエンジニアとして、数字とコードが飛び交う無機質な世界で働いている。日々に追われ、気づけば季節は巡り、今年も夏が顔を出す頃になった。一人暮らしの小さな部屋と、職場の往復。刺激があるわけでもなく、かといって大きな不満があるわけでもない。ただ、時々、心の真ん中あたりが、ほんの少しだけ冷えるような感覚に襲われることがある。
そんな私の、最近の「心の栄養剤」になっているのが、会社の最寄り駅の隣にある、古くて小さな商店街だ。
「ひだまり通り商店街」。その名の通り、晴れた日にはアーケードの隙間から光が差し込み、石畳の一部を明るく照らす。八百屋さん、お肉屋さん、お惣菜屋さん、そして、ひっそりと佇むカフェを併設した古本屋さん。チェーン店はほとんどなく、店主さんの顔が見えるお店ばかりだ。
そして、この商店街には、いつからか住み着いている、この通りの「顔」ともいうべき存在がいる。
三毛猫の「ミケ」だ。
これがまた見事な三毛で、白地に茶と黒のぶち模様が、まるで絵の具を気まぐれに置いたみたいに散っている。尻尾はカギ尻尾で、これがまた愛嬌たっぷりなのだ。体はちょっぴり大きめで、貫禄がある。
ミケは、商店街のあちこちに自分の「定位置」を持っている。八百屋さんの店先の、みかん箱の上。お肉屋さんのショーケースの前の、日当たりのいい場所。古本屋さんの店内の、窓際の一番日当たりのいいソファの端っこ。まるで、商店街全体の看板猫みたいに、ゆったりと、それでいて堂々と過ごしている。
商店街の人たちは、みんなミケを可愛がっている。八百屋のおじさんは、ミケを見つけると「おお、ミケ。今日もいい天気だなあ」と話しかけながら、店の隅に置いてある水入れに水を足してやる。お肉屋のおばちゃんは、忙しい合間にミケの頭を撫でて、「あらあら、気持ちよさそうだねぇ」と目を細める。古本屋の奥さんは、ミケが店内にいるときは、お客さんに「あの子はここで寝るのが好きなのよ」と優しく説明する。
そして、商店街のお客さんたちもまた、ミケを見つけると、誰もが顔をほころばせるのだ。小さく手を振る人、そっと写真を撮る人、そして、勇気を出して声をかけ、そっと撫でてみる人。
私もその一人だ。
最初は、遠巻きに見ているだけだった。都会の真ん中の小さな商店街に、こんなに堂々とした猫がいるなんて、なんだか不思議で。でも、何度か通ううちに、ミケの警戒心のなさ、人懐っこさに惹かれていった。ゴロゴロと喉を鳴らしながら、撫でられるがままになっている姿を見ていると、こちらまで心が緩んでくるのだ。
いつからか、商店街ではこんな噂が囁かれるようになった。
「ミケを撫でると、良いことがあるらしいよ」
小さな子供が転びそうになった時、偶然ミケが近くを通りかかって、子供がミケに気を取られている間に事なきを得たとか。商店街の福引きで、ミケを撫でた直後にお米が当たった人がいるとか。探し物が見つかった、仕事で褒められた、ささやかな良いことが、ミケを撫でた後に起こるというのだ。
もちろん、科学的な根拠なんてない。たぶん、単なる偶然だろう。でも、この商店街の人たちは、みんなその話を面白がっている。そして、私も、密かにその「幸運を呼ぶミケ伝説」にあやかろうとしていた。
ある日の仕事帰り、疲れて肩を落としながら商店街を歩いていた。企画が一つ通らず、ちょっぴり落ち込んでいたのだ。ひだまり通り商店街に入ると、いつもの活気のある声や匂いに、少しだけ心が軽くなるのを感じる。八百屋さんの店先のみかん箱の上に、ミケがいた。気持ちよさそうに、丸くなって眠っている。
「ミケ…」
そっと、声をかけてみる。ミケはぴくりともしない。でも、そっと近寄って、背中に手を伸ばした。ふかふかとした温かい毛並み。ゆっくりと、背中から尻尾にかけて撫でる。
すると、ミケがもぞもぞと動き出し、大きく伸びをした。そして、くるりと振り向いて、じっと私を見つめた。その、どこか悟ったような、でも優しい瞳に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「ふふ、起こしちゃったかな。ありがとうね、ミケ」
そう言って、もう一度だけ優しく撫でて、私はその場を離れた。
その日、帰宅してポストを開けると、小さな荷物が届いていた。差出人は、大学時代の友人だ。誕生日でもないのに?不思議に思って開けてみると、探していた限定版のコーヒー豆だった。以前、軽い気持ちで「これ、美味しいらしいけど、もう手に入らないんだよね」と話したのを、友人が覚えていて、たまたま見つけたからと送ってくれたのだ。
それは、本当に小さな出来事だった。でも、落ち込んでいた私には、まるで暗闇に灯りが灯ったような、嬉しいサプライズだった。
「これって…もしかして、ミケ効果?」
思わず、笑みがこぼれた。もちろん、単なる偶然だろう。でも、そう思うことで、心がぱっと明るくなるのを感じた。
別の日。私は古本屋兼カフェ「ほんのひととき」に立ち寄った。店主の山田さんは、いつも物静かで、優しい笑顔を浮かべている。店内は、コーヒーの香りと、古い紙の匂いが混ざり合って、何とも落ち着く空間だ。
ミケは、大抵この店の、窓際のソファで寝ているか、山田さんの膝の上にいるかだ。今日は、窓辺で日向ぼっこをしていた。私もいつもの席につき、カフェオレと、山田さんお手製のスコーンを注文する。
「あら、陽莉さん。いらっしゃい」
山田さんが、静かに声をかけてくれた。
「こんにちは、山田さん。ミケ、今日も気持ちよさそうですね」
「ええ、あの子はここがお気に入りなの。陽莉さんも、疲れていたらあの子に癒してもらってね」
山田さんはそう言って、そっとミケの頭を撫でた。
しばらくすると、ミケが目を覚まし、大きくあくびをした後、私のテーブルへとやってきた。そして、何の躊躇もなく、私の膝の上に飛び乗ってきたのだ。
「わっ…!」
突然の出来事に驚いたが、ミケは慣れた様子で私の膝の上で丸まり、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。その振動が、太ももを通して全身に伝わってくる。温かくて、少し重くて、そして何よりも、その無防備な姿が、私の心を溶かしていくようだった。
「ふふ、気に入られたみたいね」
山田さんが、奥から優しく声をかけた。
私は、膝の上のミケの背中を、ゆっくりと撫でた。柔らかくて、温かくて、命のぬくもりを感じる。仕事の悩みや、将来への漠然とした不安が、ミケのゴロゴロ音と一緒に、遠ざかっていくような気がした。
膝の上で猫が寝るなんて、いつぶりだろう。実家で飼っていた猫が、もうずいぶん前に亡くなってから、こんな温かい感触は忘れていたかもしれない。
「ミケ、ありがとうね」
自然と、そう呟いていた。
その日、「ほんのひととき」を出る頃には、私の心はすっかり軽くなっていた。山田さんとミケとの時間、そして美味しいカフェオレとスコーン。それは、私の日常に差し込んだ、ささやかな、でも確かな光だった。
また別の日。夕食のおかずにお肉を買おうと、お肉屋さんへ。佐藤さん夫婦が営むこのお店は、いつも活気があって賑やかだ。
「いらっしゃい! 今日はコロッケが揚げたてだよ!」
威勢のいい佐藤さんの声が響く。ショーケースの前には、揚げ物や新鮮なお肉が並んでいる。
「佐藤さん、こんばんは。今日は豚こまをお願いします」
「あいよ! あ、そうそう、さっきミケが店の前で寝てたからさ、端っこの肉片をちょっとだけ分けてやったんだ。美味そうに食ってたぜ!」
佐藤さんは屈託のない笑顔でそう教えてくれた。店の軒先を見ると、確かにミケが気持ちよさそうにお腹を出して寝ている。
「ミケも、ここで家族みたいに過ごしてるんですね」
私が言うと、佐藤さんのおばちゃんが笑って頷いた。
「そうなんだよ。もう何年になるかねぇ。最初に来た時は、もっと小さかったんだけどね。今じゃすっかり、この商店街のヌシだよ。あの子が来てから、なんだか商店街全体が明るくなった気がするんだ」
「そうですね…」
確かに、ミケがいるだけで、人々の間に会話が生まれ、笑顔が増える。知らない人同士でも、「あ、ミケいますね」とか「今日はどこにいるかな?」なんて、自然と声かけあっている光景をよく目にする。
「ミケがいると、みんな優しい気持ちになるのかな。幸運を呼ぶっていうのも、あながち嘘じゃないかもですね」
私が冗談めかして言うと、佐藤さん夫婦は楽しそうに笑った。
「そうかもな! でもよ、陽莉ちゃんも、いい顔するようになったぜ? 最初は、もっとこう、疲れてるって顔してたけどな」
佐藤さんの言葉に、ハッとした。
そうかもしれない。商店街に通うようになって、ミケに会うようになって、心がほころぶ瞬間が増えた。些細な良いことを見つけやすくなったのは、きっと心が明るくなったからだ。
ミケが運んできたのは、「幸運」という形のないものだけじゃなかった。商店街の人々との、温かい繋がり。見守られている安心感。そして何より、日々の暮らしの中に、自分を癒し、心を明るくしてくれる存在があるという実感。
仕事で疲れても、一人で心細くても、この商店街に来れば、ミケがいてくれる。そして、ミケを通して、優しい人たちと繋がれる。
私が探していたのは、もしかしたら、大成功や劇的な出会いじゃなくて、こんなふうに、心を温めてくれる小さな場所だったのかもしれない。
豚こま肉を受け取り、佐藤さん夫婦にお礼を言って、私は店の軒先へ。ミケはまだ、ぐっすりと眠っている。
「おやすみ、ミケ。今日もありがとう」
そっと、心の中で呟いた。ミケの背中を、優しく一度だけ撫でる。温かい毛並みの感触が、指先からじんわりと伝わってきた。
ひだまり通り商店街を出て、夕暮れの空を見上げる。今日の空は、なんだかいつもより高く、そして優しいオレンジ色に染まっている気がした。
ミケは、きっとこれからもこの商店街で、人々に癒しと、そして小さな「幸運」を運び続けるのだろう。
私も、この商店街と、そしてミケとの繋がりを大切にしていこう。私の「ほころぶ日々」は、まだ始まったばかりなのだから。