「初めまして、だね。ハル」
小さなケージの奥、丸まった茶色い毛玉に向かって、私はできるだけ優しい声で語りかけた。その子は、保護シェルターから我が家にやってきたばかりの、推定1歳の男の子。名前は「ハル」。春のように温かい日々を過ごしてほしい、そんな願いを込めて名付けたけれど、当の本猫は、世界の終わりのような顔で私を睨みつけている。いや、睨むというよりは、怯えきって固まっている、という方が正しいか。
私、早川美咲、35歳。都内のデザイン事務所で働く、ごく普通の独身女性だ。長年、猫との暮らしに憧れていたけれど、仕事の忙しさや責任の重さを考えるとなかなか踏み切れずにいた。そんな私の背中を押したのは、偶然立ち寄った保護猫カフェでの、ハルとの出会いだった。
スタッフさん曰く、ハルは人間による酷い扱いを受けた経験があるらしい。詳細は教えてもらえなかったけれど、そのせいで極度の人間不信に陥っているとのこと。「この子が心を開くには、相当な時間と覚悟が必要だと思います」。そう言われたけれど、ケージの隅で小さくなっているハルの、ガラス玉のように透き通った瞳の奥に、私は微かな光を見た気がしたのだ。「大丈夫、私が必ず幸せにするから」。そう決意して、ハルを家族として迎えることにした。
とはいえ、現実は想像以上に手強かった。 リビングの一角に設置したハルのケージ。扉は開けてあるのに、ハルは用意した隠れ家の中から微動だにしない。ご飯も、水も、私が寝静まった深夜にこっそり口をつけているようだった。トイレも同様。姿を見ることすら叶わない日々が続いた。
「ねぇ、ハル。出ておいでよ。何も怖いことなんてないよ」 毎日、ケージの前で語りかける。返事はない。時折、隠れ家の隙間から、警戒心マックスの黄色い瞳がこちらを窺っているのが分かるだけ。
正直、心が折れそうになる瞬間もあった。「本当に、この子は私に慣れてくれるのだろうか」「私には無理だったんじゃないか」。そんな弱音が、夜中に一人でため息をつくたびに、胸の奥から湧き上がってくる。 でも、そのたびに思い出すのだ。シェルターで見た、ハルの瞳の奥の小さな光を。そして、自分に言い聞かせる。「焦らない、焦らない。ハルのペースでいこう」
作戦、というほどではないけれど、いくつか試してみた。 まずは「無視作戦」。ハルの存在を意識しないふりをして、リビングで普通に過ごす。テレビを見たり、本を読んだり、時には鼻歌なんか歌っちゃったりして。「私はあなたに何の危害も加えない、ただここにいるだけですよ」というアピールだ。 それから、「美味しいもの作戦」。猫用のおやつをケージの近くに置いてみる。最初は見向きもしなかったけれど、ある日、気づいたらなくなっていた。ほんの小さな変化だけど、飛び上がるほど嬉しかった。
季節が巡り、最初の夏が来た頃。ほんの少しだけ、変化の兆しが見え始めた。 私がソファでうたた寝していると、ハルがケージから出て、リビングを探検するようになったのだ。もちろん、私が起きている気配を察すると、脱兎のごとく隠れ家へ逃げ帰ってしまうのだけど。それでも、彼が自分のテリトリーを広げ始めたことは確かだった。
「ハル、すごいじゃん!偉いねぇ」 誰もいない部屋で、私はこっそりガッツポーズをした。
秋が深まる頃には、私が部屋にいても、ケージの外に出てくることが増えた。まだ距離は遠い。ソファの端っこや、テーブルの下など、すぐに隠れられる場所をキープしている。でも、確実に、ハルは私という存在がいる空間に慣れてきていた。
ある夜のこと。残業でクタクタになって帰宅すると、玄関のたたきに、ちょこんとハルが座っていた。いつもなら、私がドアを開けた瞬間に姿を消すはずなのに。 「…ハル?」 驚いて声をかけると、ハルは小さな声で「にゃぁ」と鳴いた。それは、私が初めて聞く、彼のちゃんとした鳴き声だった。ご飯の催促だったのかもしれない。でも、私には、彼が初めて私に何かを伝えようとしてくれたように思えて、胸がいっぱいになった。
その日から、ハルとの距離はゆっくりと、でも確実に縮まっていった。 最初は指先の匂いを嗅がせてくれるだけだったのが、そっと顎の下を撫でさせてくれるようになり、やがて、背中を撫でると気持ちよさそうに目を細めるようになった。ゴロゴロと喉を鳴らす音を聞いた時は、感動して涙がこぼれた。初めて聞いた、ハルの「幸せだよ」のサイン。
冬になり、ハルを迎えて一年が経とうとしていた。 あんなに人間を怖がっていたハルは、今ではすっかり「私の猫」になっていた。私がソファに座ると、ためらいなく膝の上に飛び乗ってくる。そのまま丸くなって、安心しきった顔で眠ってしまう。その温かさと重みが、たまらなく愛おしい。
「ハル、重いんだけどなぁ」 なんて言いながら、その柔らかな毛並みを撫でる時間は、私にとって何よりの癒やしだ。 時には、お腹を見せて「撫でて」と催促することもある。無防備なお腹は、最大の信頼の証。初めてそれを見た時は、「ついにここまで来たか!」と、一人で祝杯をあげたものだ。
もちろん、今でも大きな物音にはビックリして隠れてしまうし、知らない人が来ると、やっぱりまだ少し警戒する。過去の傷が完全に消えることはないのかもしれない。 でも、それでいいのだと思う。
ハルはハルのペースで、少しずつ世界への信頼を取り戻している。そして私は、そんなハルのペースに寄り添いながら、彼が安心して甘えられる「安全基地」であり続けたいと思っている。
窓辺の暖かい日差しの中で、私の膝の上でうとうとしているハルを見る。規則正しい寝息と、ゴロゴロという微かな振動が伝わってくる。 一年。長いようで、あっという間だった365日。 臆病な保護猫ハルと、ちょっと不器用な私。二人で紡いだ時間は、決して平坦ではなかったけれど、たくさんの小さな喜びと、大きな感動に満ちていた。
「ハル、うちに来てくれてありがとうね」 そっと囁くと、ハルは眠ったまま、小さく「にゃ」と返事をしたような気がした。
保護猫を迎えるということは、時に忍耐がいる。すぐに心を開いてくれる子ばかりではない。でも、時間をかけて、愛情を注いで築き上げた信頼関係は、何物にも代えがたい宝物になる。 もし、あなたが新しい家族を迎えようと考えているなら、選択肢の一つとして、保護猫たちのことを思い出してみてほしいな、なんて。
今日も、ひだまりの中で、ハルと私の穏やかな時間は流れていく。 この幸せが、ずっと続きますように。
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