時を超える猫と忘れられた約束

時を超える猫と忘れられた約束

風が運ぶ金木犀の香りに、ふと足を止めた帰り道。私の名前はリン、この春で高校二年生になった。隣には、ちょっと太めの三毛猫、コテツがのんびりと歩いている。リードをつけているわけじゃないのに、コテツはいつも私の少し後ろをついてくる。まるで忠犬…いや、忠猫?みたいで、その姿がなんだかおかしくて、愛おしい。

「コテツ、早くしないと置いてっちゃうよー」
私が少し意地悪く言うと、コテツは「にゃーん」と短く鳴いて、少しだけペースを上げた。その仕草が可愛くて、思わず駆け寄って柔らかな毛並みを撫でる。ゴロゴロと喉を鳴らすコテツは、どこにでもいる普通の猫。…のはずなのに、時々、妙に人間くさいというか、古風な仕草を見せることがあるのだ。

例えば、私が畳の部屋で正座してお茶を飲んでいると、コテツもちょこんと隣に座り、前足をきちんと揃えて、じっと一点を見つめていることがある。まるで、昔の人がお茶を嗜むみたいに。あるいは、私が古い着物の生地を眺めていると、どこからともなくやってきて、そっと鼻先で生地に触れる。その眼差しは、懐かしむような、切ないような、不思議な色を帯びているのだ。

我が家には、母の実家から受け継いだ古い蔵がある。ひんやりとした空気と、埃っぽい木の匂いがするその場所は、私にとって子供の頃からの秘密基地だった。最近、コテツがその蔵の前に座り込んでいることが増えた。中に入りたそうに、扉をカリカリと引っ掻いたり、切なげな声で鳴いたりする。

「コテツ、そんなに入りたいの?」
ある日の放課後、私はコテツと一緒に蔵の重い扉を開けてみた。中は薄暗く、古い家具や道具が所狭しと置かれている。壁際には、年季の入った桐箪笥がいくつも並んでいた。コテツはまっすぐにその箪笥の一つに向かい、くんくんと匂いを嗅ぎ始めた。そして、一番下の引き出しの前で、また「にゃーん」と鳴いた。

「なあに?この中になんかあるの?」
好奇心に駆られて引き出しを開けてみると、古い着物や反物がぎっしりと詰まっていた。その奥に、古びた和綴じの日記帳が埋もれているのを見つけた。表紙には何も書かれていない。そっと手に取ると、和紙のざらりとした感触が指に伝わってきた。

コテツは私の足元で、期待するようにキラキラした目で見上げている。まるで、「早く読んでみて」と言っているみたいに。私は日記帳を抱え、蔵の入り口近くの古い長椅子に腰掛けた。

日記帳を開くと、墨で書かれた流麗な文字が目に飛び込んできた。それは、私の曽祖母にあたる「ハル」という女性の日記だった。時代は明治の終わり頃。ハイカラな文化が入り混じり始めた、活気と、どこか物悲しさが漂う時代。

『今日、我が家に新しい家族が加わった。手のひらに乗るほど小さな三毛の子猫。雨の日に、軒下で震えているところを拾ったのだ。まだ目もろくに開いていない。夫はあまり乗り気ではないようだったけれど、この小さな命を見捨てることなんて、私にはできなかった。名前は「タマ」と名付けた。丸くて、愛らしいから。』

日記は、ハルさんとタマの穏やかで幸せな日常を綴っていた。刺繍を習い始めたこと、初めて洋食屋さんに行ったこと、そしていつも傍らにはタマがいたこと。ハルさんの優しい眼差しが、文字を通して伝わってくるようだった。タマはとても賢く、ハルさんの言葉をよく理解する猫だったらしい。ハルさんが悲しい顔をしていると、そっと寄り添って慰め、嬉しいことがあると一緒に日向ぼっこをして喜んだ。

読み進めるうちに、私はある記述に心を奪われた。

『タマは、私の古い着物が好きらしい。特に、母が嫁入りの時に持たせてくれた、桜の柄の友禅がお気に入り。私がその着物を箪笥から出すと、どこからともなくやってきて、うっとりとした顔で眺めている。まるで、その着物に特別な想いでもあるかのように。いつか、この着物を私の娘にも着せてあげたい。そして、その隣には、きっとタマもいるのだろう。』

桜の柄の友禅…。私はハッとして、さっきコテツが気にしていた箪笥の引き出しをもう一度開けた。着物を取り出してみると、一番上に、鮮やかな桜の柄が描かれた友禅の着物があった。長い年月を経ているはずなのに、色褪せることなく、美しい光沢を保っている。

その時、コテツが私の膝に飛び乗り、その桜の着物にそっと顔を寄せた。そして、目を細めて、くんくんと匂いを嗅いでいる。その仕草は、日記に書かれていたタマの姿と、あまりにもそっくりだった。

まさか…コテツは、タマの生まれ変わりなの?

心臓がドキドキと高鳴るのを感じながら、私は日記の続きを読む。幸せな日々は、長くは続かなかった。時代は移り変わり、戦争の足音が近づいてくる。ハルさんの夫は戦地へ赴き、そして帰らぬ人となった。日記には、悲しみと不安、そしてそれでも前を向こうとするハルさんの健気な想いが綴られていた。

『タマだけが、私の支え。この子がそばにいてくれるだけで、心が少し安らぐ。けれど、この子にもいつか、私との別れが来るのだろう。考えたくはないけれど、命には限りがあるのだから。』

時を超える猫と忘れられた約束

そして、日記の最後の方に、衝撃的な記述を見つけた。

『タマに、約束をした。もし、私が先にいなくなってしまったら…。いつか、私の血を引く娘が、この桜の着物を着る日が来るはず。その時、どうかあの子の傍にいて、幸せを見届けてほしい、と。馬鹿げた願いだとわかっている。猫にそんなことができるはずがない。でも、タマは賢い子だから、きっと私の想いを分かってくれたはず。じっと私の目を見て、「にゃあ」と鳴いた。まるで、「約束するよ」とでも言うように。』

その数ページ後、日記は途絶えていた。最後のページには、ただ一言、『タマ、ごめんね。約束、守れそうにない。』とだけ、震えるような文字で書かれていた。

私は言葉を失った。ハルさんは、タマとの約束を果たせないまま、この世を去ってしまったのだろうか。そして、タマは…?

隣を見ると、コテツがじっと私の顔を見上げていた。その深い緑色の瞳は、いつものんびりとしたコテツのものではなく、まるで遠い昔を知る賢者のような、切なく、そして強い意志を宿した光を放っていた。

「コテツ…あなた、もしかして、ずっとハルさんとの約束を…?」

問いかけに、コテツは「にゃーん」と、長く、そして優しい声で鳴いた。それは肯定のようにも、あるいはただの猫の鳴き声のようにも聞こえたけれど、私には、コテツがハルさんの想いを、そしてタマの約束を、時を超えて運んできたのだと、確信に近いものを感じていた。

それからの日々、私はコテツを見る目が変わった。ただの可愛い飼い猫ではなく、長い時間を旅してきた、大切な魂を持った存在として。コテツの古風な仕草の一つ一つが、ハルさんとタマが生きた時代の風景と重なって見えるようになった。

そして、私はある決意をした。ハルさんが果たせなかった約束を、私が代わりに果たそう、と。

時を超える猫と忘れられた約束

数ヶ月後、親戚の結婚式に出席する機会があった。私は母に頼み込み、蔵にあったあの桜の友禅を着せてもらうことにした。着付け師さんに手伝ってもらいながら、袖に手を通す。絹の滑らかな感触が肌に心地よい。帯を締め、鏡の前に立つと、そこにいたのは、いつもとは違う、少し大人びた自分だった。桜の柄が、まるで祝福するように、私の周りを華やかに彩っている。

準備を終えて部屋を出ると、廊下の隅でコテツがちょこんと座って待っていた。私の姿を見ると、ゆっくりと近づいてきて、着物の裾にそっと鼻先を寄せた。そして、満足そうに、小さく「にゃっ」と鳴いた。その瞳は、穏やかで、どこか誇らしげに見えた。

結婚式の間、私は少し緊張しながらも、背筋を伸ばして過ごした。ハルさんの想い、そしてタマ(コテツ)の長い旅路に思いを馳せながら。この着物には、たくさんの人の、そして一匹の猫の、切なくて温かい記憶が詰まっているのだ。

式が終わり、家に帰って着物を脱ぐと、どっと心地よい疲労感が押し寄せた。縁側に座って夜風にあたっていると、コテツがそっと隣にやってきて、私の膝に顎を乗せた。

「コテツ、見ててくれた?ハルさんの約束、少しは果たせたかな」
私が囁くと、コテツはゴロゴロと喉を鳴らし始めた。それは、いつもの、私の知っているコテツの甘えた音。でも、その音は、長い長い時間を超えて届けられた、安堵のため息のようにも聞こえた。

空には、まんまるい月が浮かんでいた。月明かりに照らされたコテツの毛並みは、銀色に輝いて見える。私たちはしばらくの間、言葉もなく、ただ静かに夜空を見上げていた。

コテツが本当にタマの生まれ変わりなのか、それとも、ただの偶然が重なっただけなのか、本当のことは分からない。でも、そんなことは、もうどうでもいいのかもしれない。

大切なのは、目に見えない絆が、確かに存在しているということ。時代を超えて受け継がれる想いがあるということ。そして、私の傍らには、温かくて、賢くて、ちょっと古風なこの愛しい猫がいてくれるということ。

「これからもよろしくね、コテツ」
私はコテツをそっと抱きしめた。腕の中の確かな温もりが、私の心にじんわりと広がっていく。古い蔵から始まった不思議な物語は、これからも、この温かい日常の中で、ゆっくりと続いていくのだろう。金木犀の甘い香りが、夜風に乗って、優しく私たちを包み込んでいた。

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