公女様と、お喋りな黒猫の話

アウレリア公女は、まもなく三十一歳の誕生日を迎えようとしていた。 陽光あふれるエメラルドの瞳に、蜂蜜色の柔らかな髪。父である国王譲りの聡明さと、母である王妃譲りの優雅さを兼ね備え、臣下からの信頼も厚い。けれど、彼女には悩みがあった。

それは、未だ良き縁に恵まれず、独り身であること。そして、周囲からの無言の圧力だった。

「アウレリア、お前ももう三十なのだ。そろそろ身を固めねば、国の将来も……」 国王である父は、ことあるごとにそう口にする。優しい父だが、世継ぎを望む声には逆らえないのだろう。隣国からの縁談もいくつかあったけれど、どうにも心が動かなかった。政略結婚に興味はないし、何より、心から「この人と人生を共にしたい」と思える相手に出会えていなかったのだ。

公女の唯一の慰めは、離宮で気ままに暮らす猫たちだった。

ふわふわの長毛種から、やんちゃな短毛種まで、色とりどりの猫たちが、彼女の足元にまとわりつき、膝の上で喉を鳴らす。猫たちの気まぐれで自由な生き方は、窮屈な城での暮らしを送るアウレリアにとって、眩しく、そして愛おしいものだった。

「あなたたちはいいわねぇ。好きな時に寝て、好きな時に甘えて。誰にも遠慮なんてしないんだから」 日当たりの良い窓辺で、丸くなって眠る三毛猫の背中を撫でながら、アウレリアはため息をついた。

そんなある日のこと。城下に、奇妙な噂が流れ始めた。

曰く、「洒落た長靴を履き、流暢な人間の言葉を操る黒猫がいる」らしい。 最初は、街の酒場での与太話だろうと、誰も本気にはしていなかった。しかし、その噂は日増しに具体性を帯びていく。

公女様と、お喋りな黒猫の話

「市場で、魚屋の親父と値段交渉をしていた」 「仕立て屋で、自分の長靴の修理を頼んでいた」 「貴族の馬車に飛び乗り、御者と世間話をしていた」
にわかには信じがたい話だったが、複数の人間が同じような目撃談を語るのだ。

猫好きのアウレリアは、当然、その噂に興味を惹かれた。 (人間の言葉を話す猫、ですって? しかも長靴を履いているなんて……。一度、この目で見てみたいものだわ)

好奇心に抗えず、アウレリアは信頼できる侍女だけを連れ、目立たない服装で城下へと繰り出した。噂の猫が現れそうな市場の周辺を、それとなく歩いてみる。活気のある声、香辛料の匂い、焼きたてのパンの香り。普段はあまり訪れることのない城下の空気に、少しだけ気分が高揚した。

しばらく歩き回ったが、例の猫の姿は見当たらない。諦めて城へ戻ろうとした、その時だった。 路地裏から、ひょっこりと姿を現した黒猫がいた。 艶やかな漆黒の毛並み。月のかけらを閉じ込めたような、大きな金色の瞳。そして、噂通り、その足には赤革の小さな長靴が、誂えたようにぴったりと収まっている。

「!」

アウレリアは息を呑んだ。本当にいたのだ。噂の猫が。 黒猫は、まるでアウレリアの存在に気づいているかのように、優雅な足取りでこちらに近づいてきた。そして、彼女の足元でぴたりと止まると、その金色の瞳でじっと見上げてきた。

「これはこれは、麗しきお方。このような路地裏でお会いするとは、奇遇ですな」
凛とした、それでいてどこか悪戯っぽい響きのある声だった。本当に、猫が喋っている。アウレリアは驚きと興奮で、言葉を失った。

「……あなたが、噂の?」 かろうじて、それだけを口にする。

「いかにも。巷では『長靴猫』などと呼ばれておりますが、我が名はシャトラン。以後、お見知りおきを」 シャトランと名乗る黒猫は、前足を器用に揃え、貴族のようなお辞儀をしてみせた。その仕草のあまりの人間らしさに、アウレリアは思わずくすりと笑ってしまった。

「ふふ、ご丁寧にどうも、シャトラン。私はアウレリア」 「アウレリア様。なんと美しいお名前でしょう。まるで春の陽光のようですな」 シャトランは、芝居がかった口調で言った。

(なんてお世辞の上手い猫なのかしら) アウレリアは心の中で思ったが、悪い気はしなかった。むしろ、この不思議な猫との出会いに、胸がときめいているのを感じた。
「して、アウレリア様。何かお探しものでも?」 「ええ、少し気分転換に城下へ。……それと、あなたの噂を聞いて、一度会ってみたいと思っていたの」 正直に告げると、シャトランは満足そうに尻尾を揺らした。

「光栄ですな。実は某(それがし)も、あなた様にお会いしたいと願っておりました」 「私に?」 「はい。我が主(あるじ)、カラバ侯爵をご紹介したく」
カラバ侯爵? 聞いたことのない名前だった。この国の貴族名簿は、ほぼ頭に入っているアウレリアだが、そんな名前の侯爵は存在しないはずだ。

訝しむアウレリアの表情を読み取ったのか、シャトランは悪戯っぽく笑った。 「ふふ、無理もありません。我が主は、最近この地にやってきたばかり。しかし、その人となりは誠実そのもの。そして、アウレリア様、あなた様にふさわしい、心優しき青年なのです」

なんだか、話が妙な方向へ進んでいる。アウレリアは少し警戒心を抱いた。 「シャトラン、あなたのご主人がどんな方かは存じませんが、私は……」 「まあ、そう急がれずに。百聞は一見に如かず、と申します。近々、我が主がこの近くの川で水浴びをする予定。その折にでも、ちらりとご覧になってみてはいかがですかな?」

公女様と、お喋りな黒猫の話

有無を言わせぬ口調だった。そして、その金色の瞳には、不思議な説得力があった。 「……考えておきましょう」 アウレリアは、そう答えるのが精一杯だった。
シャトランは満足げに頷くと、「では、失礼仕る」と言い残し、再び路地裏へと姿を消した。まるで夢でも見ていたかのような、不思議な邂逅だった。

数日後。

アウレリアは、侍女と共に、シャトランが言っていた川辺を散策していた。半分は好奇心、半分は疑念。本当に「カラバ侯爵」なる人物が現れるのだろうか。
すると、川の上流から、助けを求める声が聞こえてきた。 「誰か! 誰かおらぬか! 侯爵様が、カラバ侯爵様が溺れておられる!」 聞き覚えのある声。シャトランだ。

見ると、川岸には質素な服が脱ぎ捨てられており、川の中では、若い男性がもがいていた。そして、その傍らでシャトランが、必死の形相(猫の形相だが)で叫んでいる。

「大変!」 アウレリアは、思わず駆け出した。供の者に助けるよう指示を出す。幸い、男性はすぐに岸へと引き上げられた。

「ご無事ですか、侯爵様!」 シャトランが、濡れた男性に駆け寄る。 男性は、水を吐き出しながら、か細い声で答えた。 「あ、ああ……。助かった……。ありがとう……」

アウレリアは、その男性の顔を見て、少し驚いた。想像していたような、華やかな貴族の青年ではなかった。どちらかというと、素朴で、少し頼りなげな印象。だが、その瞳は澄んでいて、誠実そうな人柄がうかがえた。

「これはこれは、アウレリア様! この度は、我が主を助けていただき、誠に忝(かたじけ)のうございます」 シャトランが、大げさなほどに頭を下げる。 「偶然通りかかっただけですわ。それより、お召し物が……」 岸に置かれた服は、どう見ても貴族の着るようなものではない。

すると、シャトランが慌てたように言った。 「ああ、なんということでしょう! 主が水浴びをしている間に、何者かに立派な衣装を盗まれてしまったのです! なんたる不埒な!」

(……本当かしら?) アウレリアは、ちらりとシャトランを見た。どうにも、この猫の言うことは、どこまでが本当なのか分からない。

「侯爵様、もしよろしければ、私のお城で休憩なさいますか? 新しいお召し物もご用意させますわ」 アウレリアは、好奇心と、少しばかりの同情心から、そう申し出た。

「え……? いや、しかし、そのようなご迷惑は……」 青年は恐縮してためらったが、シャトランがすかさず口を挟む。 「何を仰るのです、我が主! アウレリア様のご厚意、謹んでお受けするのが礼儀というもの!」

結局、青年――自らを「ジャン」と名乗った――は、アウレリアの馬車に乗って城へ向かうことになった。道中、シャトランは、まるで見てきたかのように、カラバ侯爵がいかに広大な領地を持ち、いかに人々に慕われているかを滔々(とうとう)と語り続けた。ジャン本人は、時折困ったような顔で黙っているだけだった。

アウレリアは、その様子を興味深く観察していた。この黒猫は、明らかに何かを企んでいる。そして、このジャンという青年は、おそらく普通の、粉挽き屋か農家の息子なのだろう。けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、シャトランの必死の(そして少々滑稽な)主人思いの態度と、それに戸惑うジャンの朴訥(ぼくとつ)さに、好感を抱き始めていた。

城に着くと、アウレリアはジャンに立派な衣装を用意させた。着慣れないであろう豪華な服に身を包んだジャンは、どことなくぎこちなかったが、素材の良さもあってか、なかなかに見栄えがした。

「アウレリア様、この御恩は決して忘れませぬ」 ジャンは、深々と頭を下げた。その実直な態度に、アウレリアの心は和んだ。

その日から、シャトランは毎日のように城へやってきては、ジャンがいかに素晴らしい人物であるかをアウレリアに語り聞かせた。時には、ジャンが「狩りで仕留めた」という(実際はシャトランがどこかで捕まえてきた)ウサギやヤマウズラを持ってきた。

アウレリアは、シャトランの口八丁ぶりを半ば楽しみながら、時折ジャン本人とも言葉を交わすようになった。彼は、シャトランが語るような「偉大な侯爵」ではなかったけれど、穏やかで、心優しく、そして、驚くほど植物や動物に詳しかった。それは、アウレリアが今まで出会ったどの貴族の男性にもない魅力だった。

ある日、シャトランはアウレリアと国王を、ジャンが所有するという「壮麗な城」へと招待した。もちろん、そんな城はジャンが持っているはずもない。それは、国で最も恐れられている、人を食らうと言われる大鬼(オーガ)の城だった。

シャトランは一足先に城へ乗り込み、得意の口車で大鬼を騙した。 「大鬼様、あなた様はどんな姿にも化けられると伺いました。例えば、ライオンとか?」 「ふん、造作もないわ!」 大鬼がライオンに化けてみせると、シャトランは感嘆の声を上げた。 「素晴らしい! では、ネズミのような小さなものにも?」 「馬鹿にするな!」 プライドをくすぐられ、油断した大鬼がネズミに化けた瞬間、シャトランは素早くそれを捕まえ、食べてしまった。

何も知らないアウレリアと国王、そしてジャンが城に到着すると、シャトランは恭しく出迎えた。 「ようこそ、カラバ侯爵の城へ!」

城の豪華絢爛さに、国王はすっかり感心し、「これほどの城を持つカラバ侯爵ならば、娘の婿にふさわしい」と、ジャンのことを大いに気に入った。
アウレリアは、事の真相に薄々気づいていた。シャトランが何かとんでもないことをしでかしたのだろう、と。けれど、彼女は何も言わなかった。隣に立つジャンは、相変わらず少しおどおどしていたけれど、その瞳には、アウレリアへの確かな好意が映っていた。そして、アウレリア自身もまた、この素朴で心優しい青年に、惹かれている自分を自覚していた。

(まったく、とんでもない猫だわ) 心の中で苦笑しながらも、アウレリアは満更でもない気持ちだった。政略でもなく、家柄でもなく、一匹の不思議な黒猫がもたらした、奇妙で、けれど温かい縁。それは、彼女がずっと心のどこかで求めていたものなのかもしれない。

「ジャン様、この城は素晴らしいですわね。……あなたと一緒に、ゆっくり見て回りたいわ」 アウレリアがそう言うと、ジャンの顔がぱっと明るくなった。
その様子を、シャトランは満足げに見守っていた。彼の金色の瞳は、得意げに細められている。もちろん、彼の目的は主人の出世だったのだろうが、それだけではない、何か温かい感情が、その瞳の奥に宿っているように、アウレリアには見えた。

やがて、アウレリア公女と、元は貧しい粉挽き屋の三男坊だったジャンは、周囲の祝福(と、シャトランの巧妙な工作)を受けて結ばれた。ジャンは「侯爵」として、アウレリアと共に国を支え、その誠実な人柄で人々から敬愛されるようになった。

そして、アウレリアの傍らには、いつも一匹の黒猫がいた。艶やかな毛並みを撫でさせてやりながら、アウレリアは思う。 (結局、私は猫に選ばれたのかもしれないわね)

長靴をはいたお喋りな黒猫、シャトランは、その後も城で一番ふかふかのクッションを陣取り、時折、上質な魚を要求しながら、アウレリアとジャンの幸せな

日々を、その金色の瞳で見守り続けたという。もちろん、たまには悪戯をしながら。三十歳を過ぎて訪れた、猫が繋いだ予想外の幸せに、アウレリアは今日も微笑むのだった。

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