わが家の猫は敏腕コンサルタント!?ビジネス書に疲れたOLを救った、究極の「猫様メソッド」

まえがき

扉を開ける前のあなたへ

成功するための方法論。正しくなるためのフレームワーク。

私たちは、いつから、自分以外の誰かの「正解」を 探すようになったのでしょう。

もし、あなたが道に迷い、答えが見つからないと悩んでいるのなら。

どうか、少しだけ顔を上げて、窓辺を見てください。

最高のコンサルタントは、分厚い本の中ではなく、 温かい日差しの中で、ただ、気持ちよさそうに伸びをしている、 そんな、あなたのすぐそばにいるのかもしれません。

結城莉奈(ゆうき りな)、三十三歳。外資系コンサルティングファームのアソシエイト。

彼女の人生は、常にインプット過多、アウトプット不足で構成されていた。

千代田区の高層ビルヂング、その三十階にあるオフィス。

窓の外にはミニチュアのような皇居の緑が広がるが、莉奈の目には、モニターに映る無数のエクセルシートと、デスクの脇にそびえ立つビジネス書の塔しか入っていなかった。

『データ・ドリブン思考』『最強のロジカル・プレゼンテーション』『ストーリーで人を動かす』――。

読み漁ったノウハウの数だけ、彼女は自信を失っていた。

知識という名の鎧は、着込めば着込むほど重くなり、身動きが取れなくなる。

特に、現在進行中の、彼女の昇進がかかった一大プロジェクトでは、その症状は末期的な段階にあった。

「結城さん。君の資料は、正しい。データも、分析も、非の打ち所がない。だが、体温が感じられないんだ。これじゃ、人の心は動かせん」

ガラス張りの会議室。

上司である黒崎部長の、温度のない声が突き刺さる。

完璧なロジックで構築したはずの提案は、クライアントに「よくまとまっているが、ワクワクしない」という、コンサルタントにとって最も屈辱的な評価を下されていた。

オフィスに戻る長い廊下を、莉奈は俯いて歩いた。

周りの同僚たちは、皆、自信に満ち溢れ、楽しそうに議論を戦わせているように見える。

自分だけが、この場所にふさわしくない、出来損ないのように思えた。

「私には、才能がないんだ…」

逃げるように会社を飛び出し、自宅マンションのドアを開ける。

疲れ果てた体をソファに沈めると、足元に、温かくてもふもふした塊がすり寄ってきた。

短い足が特徴のマンチカン、マロン、四歳。

彼が、莉奈の日常における唯一の、フレームワークで分析できない存在だった。

莉奈が深い深いため息をつく横で、マロンは、そんな飼い主の苦悩などどこ吹く風と、窓から差し込む午後の光が作り出す、完璧な円の中で、悠然と体を丸めていた。

規則正しい寝息を立て、時折、幸せそうに「ふにゃ…」と寝言を漏らす。

その、あまりにも平和で、満ち足りた姿。

莉奈は、羨望と、ほんの少しの苛立ちを込めて、その姿を眺めていた。

その時だった。

彼女の視界の端、コーヒーテーブルの上に無作法に開かれたビジネス書の一節が、目に飛び込んできた。

【第3章:ハイパフォーマーの意思決定を支える習慣。――まずは、戦略的パワーナップで思考を整理せよ】

莉奈の頭の中で、何かが閃光のようにスパークした。

戦略的、パワーナップ…? 思考の、整理…? 目の前で、世界で最も無防備な寝顔を晒している、この小さな毛玉。

彼は今、本能的に、超一流のビジネスパーソンと同じ行動をとっているというのか…? 馬鹿げている。

そう思うのに、なぜか、その光景から目が離せない。

莉奈は、まるで何かに導かれるように、マロンの隣にそっと体を横たえ、目を閉じた。

不思議と、ほんの数分で、さっきまでの喧騒が嘘のように、穏やかな眠りが訪れた。

三十分後。

目を覚ました莉奈の頭は、驚くほどスッキリしていた。

絶望でぐちゃぐちゃになっていた思考の糸が、少しだけ、ほどけている。

「…まさか、ね」 莉奈は苦笑し、隣でまだ眠り続けるマロンの、柔らかな肉球をそっとつついた。

この時、彼女はまだ知らなかった。

これが、わが家の敏腕コンサルタント、「マロン先生」による、奇跡のコンサルティングの、ほんの始まりに過ぎないことを。

***

翌日から、莉奈の、冗談半分、本気半分の「猫様コンサル」が始まった。

プロジェクトの課題に行き詰まるたび、彼女はマロンの行動を観察し、それを無理やりビジネス理論に当てはめて、実践してみることにしたのだ。

【ケーススタディ1:Noと言う勇気――選択と集中のプリンシプル】

プロジェクトが迷走を始め、黒崎部長が「とりあえず、考えられる限りのデータを全部集めて、もう一度分析し直せ」という、典型的なダメ出しをしてきた。

莉奈は、「はい!」と返事しかけたが、その脳裏に、昨夜のマロンの姿が蘇った。

昨夜、莉奈は、奮発して買った新しいプレミアムフードを、マロンの皿に盛った。

「さあ、マロン先生。これが今夜のフィーですよ」。

しかし、マロンは、それを一瞥しただけ。

匂いをふんふんと嗅ぐと、まるで「こんなもので私を買収できると思うな」とでも言うように、プイと顔を背け、莉奈の足元で悠然と毛づろいを始めたのだ。

一切、口をつけなかった。

「そうだ…マロン先生は、気に入らないものには、決してリソース(食欲)を割かない…!」

莉奈は、天啓を得た。

これは、ビジネスにおける「選択と集中」だ。

不要なタスクを勇気をもって切り捨て、最も重要な一点に集中する。

翌日、莉奈は黒崎部長に、ただデータを集めるのではなく、「今回の提案で、我々がクライアントに提供したい最も重要な価値は何か、という一点に絞って、仮説を再構築させてください」と、勇気を出して進言した。

すると、意外にも、黒崎部長は「…面白い。やってみろ」と、彼女の提案を受け入れたのだ。

プロジェクトの方向性が、初めて明確になった瞬間だった。

会議室を出る莉奈の背後で、黒崎部長が、一人、窓の外を眺めながら、誰に言うでもなく、ぽつりと呟いたのを、彼女は聞き逃さなかった。

「…どんなに正しい地図でも、それだけじゃ、人の足は一歩も前に進まんからな…」

その横顔には、かつて、ロジックだけの完璧な地図を信じて、何か大きな壁にぶつかった者の、苦い自嘲が滲んでいた。

【ケーススタディ2:人を動かすコミュニケーション術――絶妙なる膝乗り戦略】

プロジェクトの方向性は決まったものの、他部署の協力が得られず、必要なデータが集まらない。

特に、経理部のベテラン、高橋さんは、莉奈が何度お願いしても、「忙しい」の一点張りで、取り付く島もなかった。

その夜、莉奈はソファで、高橋さんへの次のアプローチをどうすべきか、頭を抱えていた。

PCに向かい、ロジカルで、反論の余地のない、完璧な依頼メールの文面を練っていた、その時だった。

マロンが、静かな足取りで近づいてきた。

そして、莉奈が思考の海に沈み、キーボードを打つ手が止まった、その一瞬の静寂を、完璧に見計らって、ひらりと彼女の膝の上に飛び乗ってきたのだ。

そして、ゴロゴロと、地響きのような喉の音を響かせ始めた。

その温かさと振動は、莉奈の全身の緊張を、強制的に解きほぐしていく。

「ああ…これか…!」

マロン先生は、相手が最も攻撃的でなく、心が無防備になっている瞬間を狙って、懐に飛び込んでいる。

ロジックで相手を打ち負かすのではなく、感情の隙間に入り込む、高度なコミュニケーション術。

翌日、莉奈は高橋さんが、大きな仕事を終えて、給湯室で一人、疲れた顔でコーヒーを飲んでいるところを見計らった。

そして、完璧な依頼メールの話など一切せず、「高橋さん、先日のレポート、すごかったです。お疲れ様でした」と、心からの労いの言葉だけをかけた。

高橋さんは一瞬驚いた顔をしたが、やがて、ふっと表情を緩めた。

「…ああ、ありがとう。結城さんこそ、大変そうじゃない」。

その日の午後、莉奈の元に、彼女が必要としていた全てのデータが、高橋さんからの「頑張って」という短いメッセージと共に、送られてきた。

不思議なことに、マロン先生のコンサル通り(と莉奈が勝手に解釈した通り)に行動すると、事態は少しずつ、しかし確実に好転し始めた。

莉奈の周りの空気が、変わり始めていた。

***

そして、運命の最終プレゼンテーション前夜。

莉奈は、自分の城、もとい、自宅のデスクで、最後の追い込みをかけていた。

マロン先生のおかげで、プロジェクトの芯は固まった。

だが、莉奈の悪い癖が、またしても顔を出す。

より完璧な資料を、より反論の余地のないデータを、と、スライドの枚数はいつの間にか百枚を超え、情報過多で、結局何が言いたいのかわからない、以前の「体温のない資料」に逆戻りしつつあった。

「ダメだ、もっと、もっとロジックを固めないと…」

焦りが、彼女の視野をどんどん狭くしていく。

キーボードを叩く指先からは、もはや情熱ではなく、悲鳴のような焦燥感だけが、静電気のように部屋中に放電されていた。

その、飼い主から発せられる苦痛に満ちたノイズに、足元で丸まっていたマロンの耳がぴくりと動き、尻尾が不穏に、ぱたん、ぱたんと床を打ち始めた。

その時だった。

莉奈の足元で、もはや退屈からではなく、明確な意志を持って、マロンがPCの電源コード――苦しみの源泉――に、狙いを定めた。

彼は、短い手でちょいちょいとそれを転がし、やがて、ガブリ、とコードを口にくわえ、渾身の力で引っ張った。

ブツン、という無慈悲な音と共に、莉奈のPCの画面は、真っ黒な闇に沈んだ。

「………………………………………………………あ」

数秒間の沈黙。

そして、絶叫。

「ああああああああああああ!データが!私の、百二十枚のスライドがぁぁぁ!」 絶望の淵で、莉奈は頭を抱えて床に崩れ落ちた。

バックアップはある。

だが、直前の、最も重要なロジックの積み上げは、すべて消えてしまった。

もう、終わりだ。

私の昇進も、キャリアも、何もかも…。

何より、もう何を信じていいのか分からなかった。

あれほど読み漁ったビジネス書も、完璧に積み上げたはずのデータも、この小さな猫一匹の気まぐれの前では、あまりに無力だった。

ロジックという名の、唯一の武器を失った今、自分には何が残っているというのだろう。

涙目で、恨めしそうに犯人を見やると、マロンは、自分が引き起こした大惨事など全く意に介さず、「よくやったであろう?」とでも言いたげな、誇らしげな顔で、引っこ抜いたコードの先を前足でちょいちょいと転がしている。

その、あまりにもマイペースで、悪びれない姿を見ているうちに、莉奈の頭から、急速に血の気が引いていき、逆に、不思議なほど冷静になっていくのを感じた。

PCの電源が落ちたことで、強制的に思考が中断された。

真っ暗な画面に映る、自分の、疲れ果てて、焦りきった顔。

そして、気づいた。

私は、また同じ過ちを繰り返すところだった。

データとロジックという名の、無数の枝葉にこだわりすぎて、本当に伝えるべき「想い」という幹を、完全に見失っていた。

私の資料は、人の心を動かすためのものではなく、自分を守るための、ただの武装だったのだ。

「…そうか」

莉奈は、ゆっくりと立ち上がった。

「マロン先生…。先生は、『小手先のテクニックに走るな。本質を見ろ』と、そう、おっしゃりたかったのですね…!」

それは、天啓だった。

マロン先生による、最も荒療治で、しかし、最も効果的な、最終コンサルティング。

莉奈は、消えたデータを追うのをやめた。

彼女は、新しい、真っ白なスライドを一枚だけ開いた。

そして、そこに、たった一つの問いを打ち込んだ。

「このサービスで、私たちはお客様の明日を、どう変えたいのか?」

***

最終プレゼンテーションの日。

莉奈がスクリーンに映し出したスライドは、たったの十枚だった。

グラフやデータは最小限。

彼女は、静かに語り始めた。

「このサービスは、ただ業務を効率化するだけではありません。

それは、ある一人の女性が、金曜の夜、少しだけ早く家に帰り、愛する家族と温かい夕食をとるための、十五分の時間を生み出します。

それは、ある一人の父親が、子供の寝顔に『おやすみ』を言うための、十分な心の余裕を生み出します。

私たちが提供したいのは、データではなく、そんな、温かい『物語』です」

それは、かつて黒崎部長に「体温が感じられない」と指摘された彼女が、初めて自分の言葉で紡いだ、血の通った「未来の物語」だった。

最初は、あまりのシンプルさに戸惑っていたクライアントたちも、莉奈の、体温の通った言葉に、次第に引き込まれていった。

プレゼンが終わった時、会場は、万雷の拍手に包まれた。

黒崎部長が、莉奈の肩を叩き、「…見事だった」と、初めて、心の底からの笑みを見せた。

プロジェクトは、大成功を収めた。

そして、莉奈の昇進も、正式に決まった。

その夜、莉奈は、帰り道にデパートに寄り、考えられる限り最高級の、ウェットフードの詰め合わせを買った。

「マロン先生、本当に、ありがとうございました。これが、今回のコンサルティングフィーです」

そう言って、陶器の皿に中身を盛ってやると、マロンは、満足げに喉をゴロゴロと鳴らしながら、夢中でそれに食らいついただけだった。

莉奈は、そんな愛猫の姿を見ながら、部屋の隅に積まれた、大量のビジネス書に目をやった。

あの本に書かれていたことも、きっと、間違いではなかったのだろう。

でも、本当の答えは、そこにはなかった。

目の前で、ただひたすらに、眠りたい時に眠り、食べたい時に食べ、甘えたい時に甘える、この小さな猫。

その、「自分らしく、本能に忠実に生きる」という、シンプルで、揺るぎない姿こそが、今の自分にとって、最高の教科書だったのだ。

莉奈は、そっとマロンの頭を撫でた。ゴロゴロという振動が、確かな温もりをもって、彼女の手に伝わってきた。

あとがき 

この物語を読み終えたあなたへ

最後まで、この不器用で、愛おしいコンサルタントの物語にお付き合いいただき、ありがとうございます。

時に、私たちをがんじがらめにするのは、分厚いビジネス書や、誰かの立派な教えではなく、「こうあるべきだ」という、自分自身の思い込みなのかもしれません。

そして、そんな思考のループを、強制的に断ち切ってくれるのは、案外、愛する猫が、私たちの悲鳴のような心に応えて引き起こす、ささやかなハプニングだったりするのです。

主人公の莉奈は、自分だけの「物語」を見つけ出したことで、初めて、他人の心を動かすことができました。

この物語が、あなたの世界に潜む、温かくてマイペースな「先生」を見つけ出し、あなただけの言葉を紡ぎ出す、ささやかなきっかけになれたなら、作家として、これ以上の喜びはありません。

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