前書き
扉を開ける前のあなたへ
さよならは、終わりを告げる言葉ではありません。
それは、あなたがどれほど深く愛していたかを、自分の心に教えるための、静かな儀式。
失われた温もりの跡を辿る旅は、きっと、あなただけの聖域へと続いています。
さあ、ページをめくる前に、一杯の温かい飲み物を用意して。
時間は、猫の体温に似ているのかもしれない。
穏やかな午後の日差しのように温かく、確かな手触りがありながら、気づけばその温もりは、指の間をすり抜けるようにして、どこかへ消えていってしまう。私、高橋サトコ(四十一歳)は、腕の中で眠る三毛猫のミーコの、小さく上下する背中を感じながら、そんなことを考えていた。
ミーコは、もうすぐ二十歳になる。
私が大学進学で上京し、慣れない都会暮らしに心をすり減らしていた頃に出会った、小さな家族。
それからずっと、私の人生の傍らには、当たり前のように彼女がいた。
恋に破れて泣いた夜も、書店員としての仕事で行き詰まった日も、この柔らかな毛皮は、静かに私の涙とため息を吸い取ってくれた。
賢く、穏やかで、多くを語らない。
だが、その深い色の瞳は、いつだって私の全てを理解してくれている気がした。
そのミーコが、ゆっくりと時間を畳もうとしていることを、私は静かに受け入れ始めていた。
数ヶ月前から、大好きだったカツオのウェットフードにも、ほんの少ししか口をつけなくなった。
一日のほとんどを、窓辺の一番日当たりの良い場所で、眠って過ごすようになった。
獣医師からは、「老衰による、腎臓の機能低下です。あとは、この子が穏やかに過ごせるように、支えてあげてください」と、優しい宣告を受けている。
それからの私の日常は、静かな儀式の連続になった。
朝、目が覚めると、まずミーコの胸にそっと耳を当てる。
規則正しい、しかし、以前よりずっと浅くなった鼓動を確認すると、私は安堵の息を漏らす。
フードは、彼女が食べやすいように、ペースト状にして人肌に温めた。
それを一日に何度も、少量ずつ、シリンジを使って口元へ運ぶ。

嫌がる素振りを見せても、無理強いはしない。
薬を飲ませる時は、喉を優しく撫でてやりながら、「大丈夫、すぐに終わるからね」と、子供に言い聞かせるように声をかける。
私の手際は、日を追うごとに、熟練の看護師のように滑らかになっていった。
書店での仕事中も、頭の片隅には常にミーコのことがある。
休憩時間に、こっそりペットカメラの映像を確認するのが日課だ。
ほとんど動かない画面の隅で、ミーコが丸くなっているのを見ると、それだけで心が落ち着いた。
古書のインクと新しい紙の匂い、そして微かなコーヒーの香り。
そんな職場からアパートへ急ぎ足で帰宅し、ドアを開けた瞬間に「にゃあ」という、か細い出迎えの声を聞く。
それが、私の世界のすべてだった。
春が来た。
アパートの窓からは、大きな一本の桜の木が見える。
蕾がほころび始め、淡いピンク色が空を覆っていく様子を、私たちは毎日一緒に眺めた。
「ミーコ、桜が咲いたね。きれいだね」

私は、窓辺でうとうとするミーコを抱き上げ、その景色を見せてやった。
ミーコは、眩しそうに一度だけ目を細め、そして、私の腕の中でまた穏やかな寝息を立て始めた。
彼女の瞳には、もう、あの桜の色は映っていなかったのかもしれない。
それでも、よかった。
この柔らかな重みと、ゴロゴロという微かな振動、そして窓から差し込む午後の光と、その中に舞う埃の粒。
そのすべてが、愛おしくて、完璧な瞬間に思えた。
満開の桜が、はらはらと散り始めた日の朝だった。
いつものように、ミーコの胸に耳を寄せた。
そこには、もう、あの小さな鼓動はなかった。
眠っているのと、何も変わらない。ただ、いつも私を包んでくれた、あの確かな温もりだけが、そこからは失われていた。
涙は、出なかった。
私はただ、静かに冷たくなっていく体を、夜が明けるまで、ずっと抱きしめていた。
ミーコがいない世界は、音がなかった。
いつも聞こえていた爪研ぎの音も、甘える声も、水を飲む音も、そして、あのゴロゴロという喉の音も。
全てが消え去った部屋は、がらんとした空洞のようだった。
私は、仕事から帰ると、無意識にミーコの姿を探してしまう。
ソファの下、カーテンの陰、日当たりの良い窓辺。
そこに彼女がいないことを確認するたびに、胸にぽっかりと穴が開いていく。
ある雨の夜、私は一人、キッチンで立ち尽くしていた。
雨がアスファルトを濡らす音が、しとしとと響く。
戸棚を開けると、ミーコのために買い置きしておいた、たくさんの療養食が並んでいた。
それを見た瞬間、堪えていたものが、堰を切ったように溢れ出した。
声を殺して、泣いた。
悲しい、寂しい、そんな言葉では足りなかった。
私の二十年間が、ごっそりと抉り取られてしまったような、途方もない喪失感だった。
それからしばらく、私の世界は色を失った。
書店にいても、本のタイトルはただの記号にしか見えなかった。
返却された本を棚に戻す。
誰かの人生を変えたかもしれない恋愛小説も、子供たちが胸を躍らせた冒険譚も、今の私には、ただの紙の束だ。

私の、たった一冊の、かけがえのない物語は、もう終わってしまったのだから。
そんな時、犬を連れたお客様に「猫ちゃんは元気?」と、悪気なく聞かれた。
言葉に詰まり、「ええ、元気ですよ」と嘘をついた後、書庫の片隅で、声を殺して泣いた。
近所のブックカフェ《月光蟲》のマスターにも、「少し痩せましたか」と心配されたが、うまく笑って誤魔離すことしかできない。
季節は初夏へと移り、窓の外の桜の木は、力強い緑の葉で覆われていた。
ある休日、私は一日中、ベッドから出られずにいた。
そんな時、ふと、枕元に白いものが一本落ちているのに気づいた。
ミーコの、硬い髭だった。
掃除したはずなのに、どこかに残っていたのだろう。
私は、その一本の髭を、そっと指でつまみ上げた。

光にかざすと、真珠のように白く輝いている。
それを見つめているうちに、私は不思議な感覚に襲われた。
今、私が感じているこの胸の痛みは、ミーコがいないことから来る、ただの欠落ではないのだ、と。
この痛みは、ミーコと過ごした二十年という、温かくて、幸せな時間の記憶そのものなのだ。
私が彼女を深く、深く愛していたからこそ、その反動で、こんなにも胸が痛むのだ。
この痛みは、私の愛の証だった。
そう思った瞬間、涙が、今度は静かに頬を伝った。
でもそれは、あの夜の絶望的な涙とは、全く違う、温かい涙だった。
失われた温もりは、消えてなくなったわけじゃない。
それは、私の心の中に、確かな形の「痛み」として、ずっと残り続けるのだ。
そして、それは同時に、私がミーコを愛した記憶の「聖域」でもあった。
私は、ゆっくりとベッドから起き上がった。
そして、窓を開け、初夏の風を部屋いっぱいに招き入れた。
手のひらの上の、小さな髭。
それは、まるで、次のページをめくるための、小さな栞のようだった。
私は、戸棚の奥から、ミーコが使っていた一番古い毛布と、療養食の残りを、大きな紙袋に詰めた。
そして、その足で、近所の動物保護団体へと向かった。
「もし、誰か、この子と同じように、最期の時間を過ごしている子のために、少しでも役に立つなら」
そう言って、深々と頭を下げる私に、スタッフの女性は、すべてを察したように、優しく微笑んでくれた。
帰り道、私は、ミーコのいない世界で、生きていくのだと、改めて思った。
この、胸の温かい痛みを抱えたまま。
不完全な、私として。 窓辺に目をやると、午後の光が差し込み、見えない何かがきらきらと舞っていた。
まるで、ミーコがそこにいて、日向ぼっこをしているみたいに。
私は、そっと呟いた。
「ありがとう、ミーコ。また、会う日まで」
その声は、誰に聞かれることもなく、初夏の風に溶けていった。
でも、確かに、届いた気がした。

あとがき
読者のあなたへ
私たちの心に残された空洞は、ただの空っぽな空間ではありません。
それは、かつてそこに、かけがえのない愛が存在したという、何より確かな証。
その温かい痛みを、どうぞ、あなただけの宝物のように、大切に抱きしめてあげてください。
悲しみはいつか、あなたを守る、優しい強さに変わるはずだから。
