猫という名の液体と、私の腕の中の重力

前書き

扉を開ける前のあなたへ

新しい扉を開けるとき、その先が予測可能な地図で満たされていることなど、決してありません。

それは時に、私たちの常識を軽々と飛び越えていく、小さな嵐のよう。

けれど、その嵐が過ぎ去ったあとに、見たこともないほどの美しい虹がかかることを、 どうか忘れないでいてください。

 

その生き物は、液体だった。

少なくとも私、相田華(三十五歳)の常識では、そうとしか形容できなかった。

腕の中からいとも簡単に零れ落ち、ソファの隙間にするりと流れ込み、思わぬ場所から泉のように湧き出てくる。

犬という、忠実で、物理法則に従順な四足歩行の「個体」しか知らなかった私にとって、それは未知との遭遇、ファーストコンタクトに他ならなかった。

私の人生は、常に犬と共にあった。

物心ついた頃から実家にはゴールデンレトリバーが兄弟のように寄り添い、今の仕事もペットグッズ専門店の犬用品担当マネージャー。

犬の骨格を理解し、犬の心理を学び、犬の食事と健康を管理する。

Aという躾をすればBという結果が返ってくる、その明快で誠実なコミュニケーションが、私の世界の秩序そのものだった。

そんな私が、ひょんなことからキジトラの子猫――生後二ヶ月の「まる」を育てることになったのは、ほんの二週間前のことだ。

閉店間際の店に、長年の常連である老婦人が、小さな段ボール箱を抱えて駆け込んできた。

「入院することになって、この子をどうしても…」。

震える声で差し出された箱の中には、手のひらに収まるほどの毛玉が、か細い声で鳴いていた。

犬用品担当の私が、猫、しかも子猫を?

一瞬、躊躇いが心をよぎる。

私に育てられるだろうか。

いや、そもそも専門外だ。

しかし、目の前で消え入りそうな命を前に、犬専門も猫専門もない。

ペットに関わるプロとしてのプライドが、躊躇いを飲み込んだ。

「…私が、責任をもって育てます」気づけば、そう口にしていた。

「猫なんて、犬の小さいやつでしょ?」

箱の中で震えるまるを家に連れ帰る車中、頭の片隅にあったそんな傲慢な考えが、木っ端微塵に砕け散るまでに、それから地獄のような一週間を要した。

最初の夜、まるは鳴いた。

それは子犬の「クゥン」という心細さの表明ではなかった。

この世の終わりを告げるサイレンのように、鋭く、高く、私の鼓膜と理性を容赦なく突き刺した。

地獄は、それから毎晩続いた。

寝不足でぼんやりとした頭で出勤し、犬たちの屈託のない笑顔に癒される一方で、「どうしてうちの子は…」という黒い感情が胸に渦巻く。

仕事に集中できず、発注ミスをしかけて後輩に指摘される始末だ。

同僚の猫担当スタッフに相談しても、「子猫なんてそんなもんですよ」「そのうち落ち着きますって」と笑われるだけ。

その楽観論が、追いつめられた私にはナイフのように突き刺さった。

犬との最大の違いは、トイレだった。

犬は決められた場所で用を足すことを、比較的早く、そして健気に覚えようと努力してくれる。

だが、まるは違った。

用意した最新式のシステムトイレをまるで無視し、お気に入りのクッションの上、部屋の隅の観葉植物の根元、あろうことか、私が仕事用に新調したばかりのカーペットの上で、臆面もなく粗相をした。

それだけではない。

買ってきたばかりの高級な子猫用フードには一切口をつけず、私の夕食の焼き魚を執拗に狙う。

私が仕事で使う革のバッグの角で、楽しそうに爪を研ぐ。

そして、私がようやく眠りについた明け方の四時に、例の「運動会」が始まるのだ。

答えを求めて、私は仕事帰りにブックカフェ《月光蟲》へ駆け込んだ。

古書のインクとコーヒーの香りが混じり合う静かな空間で、「はじめての育猫」「猫の気持ち、わかりますか?」といったタイトルの本を何冊もテーブルに広げる。

しかし、そこに書かれた正論は、私の心を少しも軽くはしてくれなかった。

そして、あの雨の夜が来た。

私の心は限界を迎えていた。

外では冷たい雨がアスファルトを濡らす音がしとしとと響き、部屋の静けさを際立たせる。

その日もまるは、私が帰宅してすぐ、洗濯したばかりのソファカバーの上で粗相をした。

後始末をしながら、私の目から、ぽろり、ぽろりと涙が零れた。

犬なら、こんな時、私の悲しみを察して、心配そうに顔を舐めてくれるだろう。

犬なら、私の努力に応えようと、健気にトイレの場所を覚えようとしてくれるだろう。

犬なら、「A」という愛情を注げば、「A’」という信頼を返してくれる。

その誠実な関係性こそが、私の仕事の、そして人生の誇りだった。

だが、まるは違う。

彼は、私の常識も、経験も、愛情さえも、するりとすり抜けていく。

その悪意のない無邪気さは、私のプロとしての二十年間を、根底から否定しているようだった。

もう、無理だ。

私にはこの子を幸せにできない。

私は、犬のプロではあっても、この小さな命のプロではなかった。

その考えは、もはや迷いではなく、決意に近かった。

私はスマートフォンの画面で「里親募集」のサイトを開き、掲載のための文章を打ち込もうとした。

その、まさにその時だった。

突然、まるのスイッチが、これまでとは比較にならないレベルで入った。

黒曜石のような瞳をカッと見開き、部屋の隅から隅へと、弾丸のようなスピードで駆け抜け始めたのだ。

壁を垂直に駆け上がり、カーテンレールに飛び移り、ソファの背を走り、テーブルの下を稲妻のように潜り抜ける。

それは予測不能な軌道を描く、小さな毛皮の嵐。

通称、猫の運動会。

だが、今夜のそれは、いつもの比ではなかった。

私は、それを止める術を持たなかった。

ただ、立ち尽くし、その規格外の生命の躍動を見つめることしかできなかった。

どれくらいの時間が経っただろうか。

やがて、小さな嵐はぴたりと止んだ。

ぜえぜえと小さな肩で息をするまるは、私の足元にたどり着くと、まるで何もなかったかのように、ぺたんと床に座り込んだ。

そして、小さな口で、私の足の指を、はむ、と優しく甘噛みした。

その瞬間、私の中で何かが、音を立てて変わった。

ああ、そうか。

私は、この子を「犬」という物差しで測り、「私の常識」という檻に閉じ込めようとしていたのだ。

AをすればBが返ってくる、そんな都合の良い、人間のための関係性を、この小さな生き物にまで押し付けようとしていた。

私が与えるルールの中で、行儀よく振る舞うことを期待していた。

でも、この子は違う。

この子は、私の理解も、制御も、予測も、全てを軽々と飛び越えていく。

この子は、この子自身の、猫という生き物の法則で、この世界を全力で生きているのだ。

この有り余るエネルギーは、不良品だからでも、私への反抗でもない。

ただ、彼が「生きている」という、純粋で絶対的な証明なのだ。

私がすべきだったのは、躾や管理といった人間の傲慢な考えを捨て、この子のための世界を用意してあげることだったのかもしれない。

この小さな液体が、自由に、のびのびと流れることができる、安全で、居心地の良い器になること。

私が変わることだったのだ。

窓から差し込む月明りが、雨上がりのウェットな床を静かに照らす。

その光の中で、私の足元にいる小さなキジトラの塊が、たまらなく愛おしく思えた。

私は、彼の不完全さを、予測不能な様を、丸ごと受け入れたいと、心の底から思ったのだ。

翌日の休み、私は真っ先にホームセンターへ向かい、天井まで届くような大きなキャットタワーを買った。

汗だくで組み立てたタワーを、まるはすぐに気に入った。

一番上の透明なドームにすっぽりと収まり、満足そうに下界を見下ろす姿は、小さな宇宙船に乗る王様のようだった。

私は、それを見上げながら、ようやく深呼吸ができたような気がした。

翌日、出勤した私は、真っ先に、今まで足を踏み入れたことのなかった、店の猫用品コーナーへと向かった。

そして、猫担当の後輩に、深々と頭を下げたのだ。

「ごめんなさい。私、猫のこと、何も分かっていなかった。一から、教えてもらえませんか」と。

後輩はきょとんとした後、満面の笑みで頷いてくれた。

私の、新しい一日が始まった気がした。

ある晩、私がソファで本を読んでいると、膝の上に、ぽすり、と小さな温もりが乗ってきた。

まるだった。

彼は私の膝の上で器用に体の向きを変えると、やがて丸くなり、そして、喉の奥から、小さなエンジンのような音を立て始めた。

ゴロゴロ、ゴロゴロ……。

その穏やかで規則的な振動は、私の体へと確かに伝わり、心の奥の、自分でも気づかなかった強張りを、ゆっくりと、優しく溶かしていくようだった。

液体だと思っていたその生き物は、今、私の腕の中で、確かな重力を持つ、温かい塊になっていた。

私はそっと本を閉じ、その柔らかな背中を撫でる。

もう、育猫書を血眼で探すことはないだろう。

答えは、本の中ではなく、この腕の中にあったのだから。

不完全で、予測不能で、だからこそ、どうしようもなく愛おしい。

私は、猫という名の液体と共に生きていく。

その自由な流れに身を任せ、時には振り回されながら、きっと、まだ見たことのない新しい景色にたどりけるはずだ。

あとがき

読者のあなたへ

私たちの腕の中にやってくる温もりは、いつも行儀の良い優等生とは限りません。

時にそれは、私たちの常識をかき乱し、価値観を揺ぶる、小さな嵐のようです。

でも、その嵐を受け入れたとき、私たちはきっと、昨日よりも少しだけ、 世界の複雑さと愛おしさを知ることができるのかもしれません。

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