たとえば、こたつが時空要塞だったなら

前書き

扉を開ける前のあなたへ

冬の匂いがする部屋の片隅で、 小さな王国が生まれる瞬間を見たことがありますか。

そこは時間さえも溶けていく、魔法の四角。

さあ、ページをめくる前に、少しだけ耳を澄ませて。遠くで猫が喉を鳴らす音が聞こえるはずです。

こたつは時空要塞である、と誰が言ったか。

その言葉の真意を、私、相田陽子(三十三歳、独身、区役所勤務)は、この冬、骨身に沁みて理解することになる。

十一月も半ばを過ぎ、朝の空気が刃物のように肌を刺すようになった頃、私はついに禁断の果実に手を伸ばした。

長年の逡巡の末にリビングの中央へ鎮座させたそれ――

淡い木目調の天板を持つささやかな正方形は、コンセントが差し込まれ、赤いランプが灯った瞬間から、もはやただの暖房器具ではなくなったのだ。

最初にその絶対的な引力に捉えられたのは、我が家の女王、あんこ(黒猫、二歳)である。

彼女は温かい場所を探知する能力において、NASAの最新鋭探査機をも凌駕する。

私がふかふかの掛け布団を整え、その感触を確かめようと腰を屈めた、まさにその刹那。

黒い閃光が私の足元を駆け抜け、布団の裾をわずかに持ち上げてその内部へと消えた。

まるでブラックホールに吸い込まれる星のように、あまりにも滑らかで、抗いがたい法則に導かれて。

「……あんこ?」

呼びかけても返事はない。

しんと静まり返った部屋に、ヒーターが温まる「ジ…」という微かな音だけが響く。

それが、私とあんこの、ぐうたらで、しかし真剣極まりない心理戦の始まりを告げるゴングだった。

最初の数日、私はまだ楽観していた。

新しいベッドをプレゼントした時もそうだった。

最初の三日は入り浸り、四日目には見向きもしなくなる。

猫とはそういう気まぐれな生き物だ。

今回もそのパターンだろう、と高を括っていた。

ごはんの時間になれば、いつものように「にゃーん!(訳:下僕よ、腹が減ったぞ、即刻給仕せよ)」という、威厳と愛嬌が同居した声と共に、漆黒の毛並みをしなやかに揺らして現れるはずだった。

だが、王国は沈黙を続けた。

私がキッチンでフードボウルのために袋をガサガサ鳴らしても、彼女のお気に入りのカシャカシャ鳴るおもちゃを振っても、時空要塞の分厚い布団の向こうからは、何の反応も返ってこない。

心配になってそっと布団をめくると、あんこは完璧なアンモナイトの姿で丸くなり、この世の全ての幸福を凝縮したような寝息を立てているだけだった。

そのあまりに無防備で満足しきった寝顔を見ると、健康管理という大義名分を振りかざしてこの至福の眠りを妨げることなど、到底できなかった。

「……あんこ様、お達者で」

思わず時代劇の家臣のような台詞を呟き、私は一人分の夕食の準備を始める。

シンクに立つ私の背後には、絶対的な静寂をたたえる正方形の結界。

あんこがいないだけで、十二畳のリビングは体育館のようにがらんとして、やけに広く感じられた。

いつもなら足元にまとわりつき、「何か落ちてこないか」と期待に満ちた瞳を向けてくるはずの、柔らかな毛の感触がない。

料理をしながら、つい視線で黒い塊を探してしまう長年の癖は、行き場をなくして虚空を彷徨った。

問題は、食事だけではない。

水分補給、そしてトイレ。猫の健康管理において、それらがいかに重要か、私は専門書を何冊か読む程度には理解している。

脱水症状、膀胱炎、腎臓への負担。

不穏な医学用語が、味噌汁の湯気と共に立ち上っては、私の頭をぐるぐると回り始めた。

作戦は、幾度となく決行された。

第一作戦『魅惑のちゅ〜る』。

第二作戦『新兵器導入』。

ことごとく失敗に終わる日々の中で、私の焦りは募っていく。

平日の昼間、職場でパソコンの画面に向かいながらも、頭の片隅では「あんこは水を飲んだだろうか」という考えがチラついていた。

週明け、同僚が楽しそうに話す週末の出来事にも、うまく相槌が打てない。

「陽子も今度のキャンプ、一緒に行かない?」という誘いにも、「ごめん、猫が心配だから」と、本心とは少し違う理由で断ってしまった。

本当は、行きたかったのかもしれない。

でも、今の自分には、誰かと心から笑い合える自信がなかった。

私の世界は、あの小さな時空要塞を中心に、どんどん狭くなっている気がした。

 

そんな思いが頂点に達したのが、その雨の夜だった。

 

窓の外では、冷たい雨がひっきりなしにアスファルトを濡らす音がしている。

それはまるで、世界の悲しみを全て集めたような、陰鬱なBGMだった。

私は読みかけの本を手にソファに座っていたが、どうにも物語に集中できない。

ブックカフェ《月光蟲》の店主が勧めてくれたその本は、普段なら私をどこか遠い世界へ連れて行ってくれるはずなのに、今夜は活字がただの黒い記号の羅列にしか見えなかった。

同僚たちの賑やかな笑い声が、雨音に混じって、遠くで聞こえるような気がした。

俯いた拍子に、冷めきったコーヒーカップの縁から滑り落ちた雫が、テーブルに丸い染みを一つ作った。

それはまるで、私の心の中にぽつんと浮かんだ、小さな孤島のようだった。

あんこは、私のことがもうどうでもよくなったのだろうか。

この私が整えた快適な部屋よりも、あの電気仕掛けの箱の中の方がずっと居心地が良いのだろうか。

そんな、子供じみた馬鹿げた考えが、雨音に混じって心をじっとりと湿らせていく。

私は完璧な飼主ではない。

弱くて、不完全で、あんこに依存している。その事実を突きつけられているようだった。

「……ずるいよ、あんこ」

呟いた声は、誰に聞かれることもなく部屋の空気に溶けた。

私は立ち上がり、決意を固めてこたつへと向かう。

今度こそ、彼女を外に出して、少し運動させなければ。

これは感傷ではない。飼主としての、義務なのだ。

布団の端を、ゆっくりと、しかし断固たる意志で持ち上げる。

そこにいたのは、アンモナイト状のあんこ――ではなかった。

彼女はだらしなく体を仰向けに伸ばし、まるで泥酔したおじさんのように、手足を投げ出していた。

そして、その焦点の合わないとろりとした緑色の瞳で、私を見上げた。

「……んにゃ?」

その声には、「何?今、最高にいい夢の途中なんだけど」という、非難と至福が絶妙なバランスで配合されていた。

そのあまりにも気の抜けた、平和すぎる姿に、私の固い決意と大義名分は、春の雪のようにあっけなく溶けてしまった。

思わず、こらえきれずに笑いが込み上げてくる。

「……あなたって子は、本当に」

結局、私はあんこの隣に、まるで共犯者になるかのように、ずるずると自分の体を引きずり込んで滑り込んだ。

スイッチを「弱」に設定したこたつの中は、外の世界の寒さや湿っぽさとは完全に隔絶された、

穏やかで優しい熱に満ちていた。

なるほど、これは確かに抜け出せない。

皮膚の表面だけでなく、体の芯からじんわりと温められ、日々の業務で凝り固まってっていた肩や背中の力が、すうっと抜けていくのが分かる。

これは、要塞だ。

日常の些細な悩みや焦りから、心と体を守ってくれるシェルターそのものだ。

私がその抗いがたい温かさに身を委ねてため息をついていると、あんこがもぞもぞと動き、私の脇腹にご自身の体をぴったりとくっつけてきた。

そして、まるで小さなエンジンのような低い振動が、私の体へと直接伝わってくる。

ゴロゴロ、ゴロゴロ……。それは、世界で最も平和で、安心できる音だった。

ああ、そうか。

この瞬間、私の中で、世界の見え方が根本から変わった。

寂しかったのは、私だけだ。

あんこがいなくて寂しい、構ってもらえなくて寂しい。

その自分本位な感情を、「猫の健康管理」という正論にすり替えていた。

愛しているからこそ、相手を自分の思い通りに「管理」したくなる。

心配だからこそ、相手の自由を奪ってしまう。

それは、なんて傲慢で、一方的な愛情だったのだろう。

あんこは私を避けていたわけじゃない。

ただ、この純粋で絶対的な心地よさを、全身全霊で味わっていただけ。

そして、私がこの王国に足を踏み入れることを、本当はずっと待っていたのかもしれない。

私が彼女の健康を管理するのではなく、ただ、この最高の幸せを「共有」したかっただけなのかもしれない。

不完全なままでも、こうして隣に座り、同じ温かさを分かち合うことはできる。

弱さを抱えたままでも、その弱さを温めてくれる存在がすぐそばにいる。

その事実に気づけただけで、十分ではないか。

私はそっと、あんこの柔らかな背中を撫でた。

彼女は一度だけ、気持ちよさそうに喉を鳴らす音を大きくして、また穏やかな寝息を立て始めた。

彼女の体温と、こたつの熱と、私の体温が混じり合い、一つの小さな宇宙を作り出している。

ここでは、時間の進み方が違うようだった。

壁の時計の秒針の音さえも、どこか遠い世界の出来事のように聞こえる。

私たちは、しばらくそうしていた。

いや、どれくらいの時間が経ったのか、正確には分からない。

うとうとと微睡み、意識が途切れ、また浮上する。

その繰り返しの中で、私は不思議な安らぎに包まれていた。

窓から差し込む午後の光が、その中に舞う埃をきらきらと照らし出すのを、ぼんやりと眺めるような、そんな穏やかな時間を。

ふと、腕にずっしりとした重みを感じて目を覚ます。

見ると、あんこが私の腕を枕にして、すっかり安心しきった顔で眠っていた。

その小さな寝顔を見ていると、心の奥からじわりと温かいものが込み上げてくる。

それは、コーヒーカップが作った孤独な染みとは違う、もっと大きく、もっと優しい形をしていた。

私はもう、あんこを無理にこたつから出そうとは思わなかった。

彼女がこの時空要塞から出たくなった時が、その時なのだ。

それまでは、こうして一緒に、時間の流れが曖昧になるほどの温かさに身を委ねるのも悪くない。

寂しさを抱えたまま、この温もりを知っている。

それだけで、これから来る本格的な冬を越すには十分すぎるほどの勇気が湧いてくる気がした。

私は空いている方の手で、枕元に置いていたスマートフォンを掴み、メッセージアプリを開く。

数日前、自ら断ってしまった同僚たちのグループチャット。

なんとなく気まずくて開けずにいたトーク画面を、少しだけ震える指でタップする。

『先日はごめんね。もし良かったら、今度の週末、うちで鍋でもしない?最高の暖房器具、導入したんだ』

送信ボタンを押す。

それは、ほんの小さな一歩だったけれど、私にとっては大きな勇気のいる行動だった。

すぐに既読がつき、「行く行く!」「猫ちゃんに会える?!」と弾むような返信が次々と届く。

私は、泣き笑いのような顔で、スマートフォンの画面を見つめていた。

あんこが「ん……」と小さな寝言を言った。

私はそっと彼女の頭を撫でる。

大丈夫。私たちは、不完全なまま、この温かい要塞の中で、ちゃんと生きていける。

そして時には、この扉を少しだけ開けて、大切な誰かを招き入れることもできるのだ。

外では、いつの間にか雨が上がっていた。

静かになった部屋に、時空要塞の主たちの、幸せそうな寝息だけが響いていた。

あとがき

読者のあなたへ

物語の扉を閉じた後、あなたの心に小さな温もりは灯りましたか。

私たちは皆、自分だけの「こたつ」を探しているのかもしれません。

それは、弱くて不完全な自分を、ただ静かに受け入れてくれる場所。

あなたの毎日にも、愛しい誰かと分かち合える温かい聖域がありますように。

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