まえがき
扉を開ける前のあなたへ
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
これは、壊れてしまいそうだった一人の女性と、言葉を持たない、小さな騎士(ナイト)の物語。
あなたの心の中にある、誰にも見せられない戦いや、孤独な夜に、そっと寄り添えたならと願って、言葉を紡ぎました。
頑張り屋のあなたにこそ、届きますように。

静かなプレッシャーと、遠い背中
IT企業、新規アプリ開発室。
プロジェクトマネージャーの高橋 美咲(35歳)の城は、常に静かな緊張感に支配されていた。
重要な新規アプリのローンチまで、あと一ヶ月。
美咲は、その責任者として、分厚い鎧をその身にまとっていた。
後輩たちの質問には的確に答え、クライアントとの折衝では常に冷静な笑みを絶やさない。
彼女は、チームの揺れ動かない司令塔でなければならなかった。
その日の午後も、美咲は、画面の向こうのクライアントに、完璧なビジネススマイルを向けていた。
「ええ、承知しております。その仕様変更ですと、実装にかなりの工数がかかりますが…ええ、問題ございません。我々のチームなら、可能です」
可能であるはずがなかった。
けれど、ここで「できない」と言えば、この大きなプロジェクトは、すぐに他の競合へと流れていく。
美咲は、無茶な要求を、笑顔で飲み込んだ。
会議を終え、一人になったオフィスで、美咲は、ずきりと痛むこめかみを押さえた。
連日の深夜残業。
デスクに積まれたエナジードリンクの空き缶。自宅に持ち帰ったPCの前で、冷めたコンビニ弁当をかき込むだけの夕食。
「……ただいま」
アパートのドアを開けても、返事はない。
しんと静まり返った部屋の冷たい空気が、美咲の疲れた心を、さらに冷たくさせる。
そんな彼女の様子を、リビングのキャットタワーの最上段から、一匹の猫が、ただ静かに見下ろしていた。
彼の名は、カイ。
五歳になる、ロシアンブルーのオス。
銀灰色に輝く滑らかな毛並みと、エメラルドグリーンの瞳を持つ、美しい猫。
しかし、彼は、決して美咲に媚びたりはしなかった。
クールで、マイペース。
いわゆる「ツンデレ」で、美咲がどれだけ疲れ果てて帰ってきても、玄関で出迎えることなど、まずない。
「あなたは、自由でいいわね…」
美咲は、自分とは対照的に、悠然とグルーミングを続けるカイの背中に、ぽつりと呟いた。
その、何にも縛られない自由さが、少し羨ましく、同時に、ほんの少しの寂しさを感じさせるのだった。
積み重なるトラブルと、心の摩耗
嵐の予兆は、すぐに現実のものとなった。
クライアントからの度重なる仕様変更に加え、チームの要であるエンジニア同士の意見の対立、そして、追い打ちをかけるように、システムの根幹を揺るがす、予期せぬバグの発生。
次々と噴出する問題に、美咲は対応に追われた。
睡眠時間は、日に日に削られていく。
「高橋さん、この部分のロジック、僕の方で見てみましょうか? 高橋さん、最近、全然眠れてないでしょう」
チームの後輩である、エンジニアの佐藤 健太が、心配そうに声をかけてくれる。
彼の目に、純粋な善意が宿っているのは分かっていた。
けれど。 「ありがとう、佐藤くん。でも、大丈夫。ここは、私の担当だから」
美咲は、完璧な笑顔で、その手を、そっと押し返した。
人に頼ることは、彼女にとって、敗北を意味した。リーダーである自分が、誰よりも強くあらねばならない。
その強迫観念が、彼女を、ますます孤独な城へと閉じ込めていく。
佐藤が、「念のため共有しておきますね」と、過去の類似プロジェクトの膨大なログファイルをチャットで送ってきた。
美咲は、「ありがとう。後で見ておく」とだけ返し、そのファイルを開くことさえしなかった。
その日から、美咲の家の明かりは、夜通し消えることがなくなった。

異変は、カイにも現れた。
美咲が帰宅しても、キャットタワーから降りてこなくなった。
食事も、数口しか食べず、すぐにそっぽを向いてしまう。
ある夜、美咲が、昔、カイが大好きだった、鳥の羽がついたおもちゃを振って、彼の気を引こうとした。
「カイ、ほら、遊ぼうよ」
しかし、カイは、そのおもちゃを一瞥しただけで、ぷいと顔をそむけ、毛布の中に顔をうずめてしまった。
まるで、美咲の心を映す鏡のように、カイもまた、その輝く毛並みの艶を、少しずつ失っていくようだった。
その拒絶が、まるで、今の自分は誰にも愛される資格がないのだと、宣告されているようで、美咲の胸を、鋭く抉った。

午前三時のナイトと、壊れそうな私
そして、運命の、納品日前夜。
リリース直前になって、誰もが予想していなかった、致命的なバグが見つかった。
ユーザーの個人情報に関わる、最悪の欠陥だった。
チームは、全員、自宅からのオンラインで、緊急対応に追われた。
時刻は、午前三時を回っていた。
チャットツールには、焦りと疲労が滲む言葉が飛び交う。
メンバーの集中力も、もう限界に近い。
美咲の思考も、完全に停止寸前だった。
(もう、ダメかもしれない…)
心の糸が、ぷつりと、切れそうになった。 美咲は、ふらふらと、新しいメールの作成画面を開いた。
宛先は、上司。件名に、「プロジェクト遅延の、お詫び」と打ち込む。
(私の、責任だ。私の、力が足りなかったから…)
マウスを握る手が、カタカタと震える。
視界が、じわりと滲む。 その、瞬間だった。
今まで、あれほど美咲を避けていたカイが、音もなく、デスクの上に飛び乗ってきた。
そして、おもむろに、美咲が絶望のあまりに目を背けていた、
サブモニターの方へと歩いていく。
そこには、数日前に後輩の佐藤が送ってきて、美咲が「後で見る」と放置していた、過去の類似プロジェクトの膨大なログファイルが開かれたままになっていた。
カイは、そのモニターの前に、ちょこんと香箱座りをすると、前足で、とん、と画面を叩いた。
まるで、「おい、これを見ろ」とでも言うように。

その、小さな音と仕草に、美咲は、はっと顔を上げた。
「…そうか。あの時の、あのプロジェクトのアーキテクチャ…。依存関係が、似ている…?」
カイの、エメラルドグリーンの瞳が、じっと、美咲を見つめ返している。
止まっていた思考が、再び、ゆっくりと動き出すのを感じた。
絡まっていた問題の糸が、一本、また一本と、解けていく。
一人じゃない夜明け
カイの、その静かな眼差しに、美咲の目から、堰を切ったように、涙が溢れ出した。
それは、絶望の涙ではなかった。
安堵と、感謝の涙だった。
「…そっか。私、一人じゃなかったんだね」
美咲は、カイの頭を撫でながら、「ありがとう」と、何度も、何度も呟いた。
美咲の声には、もう、震えはなかった。
「…皆さん、少し、視点を変えてみましょう。3年前の、あのプロジェクトのログを、今から共有します。このバグのパターン、似ているかもしれません」
夜が明ける頃、チームは奇跡的にバグの修正を完了させた。
プロジェクトは、無事にローンチされた。
朝日が差し込む部屋で、美咲は、久しぶりに、キッチンに立った。
そして、鶏のささみを、丁寧に茹でた。

自分のための、ささやかな朝食。
そして、そのおすそ分けを、カイのお皿に入れてやる。
カイは、夢中で、そのささみを頬張った。
その姿を見ているだけで、美咲の心は、温かいもので満たされた。
膝の上で、安心しきって眠るカイの、銀灰色の背中を撫でながら、彼女は、静かに誓った。
「この子のために、そして、私自身のために、もう少しだけ、自分に優しくなろう」と。
後日、新しいプロジェクトのキックオフミーティングで、美咲は、山積みのタスクリストを前に、ふっと息を吸った。
そして、隣に座る後輩の佐藤に、こう言ったのだ。
「佐藤くん。このAタスクとBタスク、もしよかったら、君に任せてもいいかな? もちろん、最終的な責任は、私が取るから」
佐藤は、一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、すぐに、満面の笑みで頷いた。
「はい! 喜んで!」
その、信頼に満ちた顔を見て、美咲は、これが、あの夜カイが教えてくれたことなのだと、改めて思った。
一人で抱え込むことが、強さじゃない。
信じて、任せる。
その方が、ずっと、チームは強くなれる。
会議を終え、定時で会社を出た美咲に、佐藤が声をかけた。
「高橋さん、何かありました? 今日の高橋さん、なんだか、最強の司令塔って感じでしたよ」
「そう見える?」
美咲は、少し照れながら、でも、芯の通った声で、笑った。

そして、自分のデスクに置いた、一枚の写真に、そっと微笑みかける。
そこには、キャットタワーの上で、気高く、そして、誇らしげにこちらを見つめる、小さな銀色の騎士(ナイト)が写っていた。
あとがき
読者のあなたへ
この物語を、最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
あなたが、たった一人で戦っている、その背中を、言葉もなく、ただ、じっと見つめてくれている存在が、きっといる。
この物語が、そんな、あなたの小さな騎士(ナイト)の存在を、改めて、愛おしく思うきっかけとなれたなら、作家として、これ以上の喜びはありません。