陽だまりの寝言と、最後のきみへ

まえがき

扉を開ける前のあなたへ

この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。

これは、終わりに向かっていく時間を、ただ、静かに、愛おしむ物語。

あなたの心の中にある、失くしたくない大切な誰かや、過ぎ去った愛おしい日々の記憶に、そっと寄り添えたならと願って、言葉を紡ぎました。

温かい飲み物でも、傍らに置いて、ゆっくりとページをめくってくださいね。


プロローグ

 

四十歳になった

ヨガインストラクターの莉子は、自分の人生が、静かな午後のような時間に入ったことを感じていた。

それは、決して悪い意味ではない。

若い頃のような焦りや渇望は、穏やかな呼吸と共にどこかへ消え、今、ここにあるものだけで、心は十分に満されていた。

その「今、ここにあるもの」の、中心にいるのが、十六歳になる一匹の猫だった。

彼の名は、「ごま」。

黒と茶色の絵の具を、気まぐれに混ぜ合わせたような、美しいサビ猫。

莉子が、人生に迷ってばかりいた二十四歳の頃、雨の日にダンボール箱の中で震えていた小さな命。

あの日からずっと、どんな時も隣にいてくれた、かけがえのない相棒だ。

腕の中で暴れていた小さな毛玉が、今では、莉子の人生の半分を、静かに見守り続けてくれている。

そんなごまが、最近、新しい癖を身につけた。

「……むにゃ、むにゃ…ちゃぷ…」

陽だまりの中で、深い眠りに落ちたごまの口から、小さな、小さな寝言が漏れるのだ。

それは、夢の中で、美味しいご飯でも食べている音だろうか。

その、あまりに無防備で、愛おしい音を聞くたびに、莉子の胸は、きゅっと、甘く締め付けられるのだった。

 

序章:静かな足音と、もう一人の家族

 

ごまとの暮らしは、穏やかだった。

けれど、その穏やかさは、薄氷の上を歩くような、静かな緊張感を伴っていた。

十六歳。

猫にとっては、もう、立派なおじいちゃんだ。

若い頃のように、キャットタワーのてっぺんまで一気に駆け上がることもなくなり、一日のほとんどを、お気に入りの場所で眠って過ごすようになった。

小さな変化は、確実に訪れていた。

少しだけ、水を飲む量が増えたような気がする。

時々、何でもない場所で、ふらつくことがある。

そして、何より、あの愛おしい「寝言」。

それは、紛れもなく、老いの足音だった。

「気にしすぎよね」 莉子は、自分に言い聞かせる。

そんなある日、莉子が主宰するヨガスタジオのクラスの後、若い生徒の一人、由紀が、少し興奮した様子で話しかけてきた。

「先生! 私、ついに、猫を飼い始めたんです!」

由紀は、動物保護団体でボランティアをしている、心優しい女性だ。

「まあ、よかったわね」

「はい! 十五歳のおばあちゃん猫なんですけど、穏やかで、すっごく可愛くて…。先生のところのごまちゃんみたいに、長生きしてほしいな」

その、屈託のない笑顔に、莉子は微笑みで返しながらも、胸の奥が、ちくりと痛んだ。

「長生き」。

その言葉が、今の莉子には、少しだけ重たく響いた。

 

中章:賢者の言葉と、過去の傷

 

由紀との会話から数週間後。

莉子の不安は、現実のものとなった。

年に一度の健康診断で、獣医の先生から、ごまの腎臓の数値が上がり始めていることを、穏やかに、しかし、はっきりと告げられたのだ。

「これから、少しずつ、食事療法を始めていきましょう。老猫との暮らしは、焦らず、根気よく、ですよ」

その日から、莉子の猫の健康管理は、どこか強迫観念めいたものに変わっていった。

処方された療法食を、一グラム単位で測り、ごまがそれをちゃんと食べたか、一日中、目で追ってしまう。

部屋のあちこちに、新しい水飲み器を設置し、一日に何ミリリットル飲んだかを、スマートフォンのアプリに記録する。

穏やかだったはずの、陽だまりのような日常が、ギスギスとした、管理と監視の時間に変わっていく。

そんなある日、ヨガのクラスの後、由紀が、思い詰めたような顔で莉子の元へやってきた。

「先生、相談に乗っていただけませんか。うちの子、ハナちゃんって言うんですけど、最近、全然ご飯を食べてくれなくて…」

その顔は、不安で、今にも泣き出しそうだった。

「インターネットで調べたら、色々なサプリメントとか、たくさん出てくるんですけど、どれが本当に良いのか分からなくて…」

その言葉は、まるで、数日前の自分を見ているようだった。

莉子は、ヨガの先生として、穏やかに、にこやかに、言葉を返す。

「焦っちゃだめよ、由紀さん。まずは、先生に相談して、その子に合った方法を、ゆっくり探してあげるのが一番よ。大丈夫」

その言葉が口から出た瞬間、莉子の胸の奥で、苦い記憶の欠片が蘇った。

『君のその静けさは、ただの逃げだ』。

莉子は、心の動揺を悟られぬよう、必死で微笑みを続けた。

莉子は、由紀との会話の後、まるで何かに取り憑かれたように、自分もまた、インターネットの情報という名の沼に、深く沈んでいった。

そして、ある海外製の、高価なサプリメントを見つけた。

しかし、ごまは、その独特の匂いが嫌だったのか、ぷいと顔をそむけ、その日は、一口も、ご飯を食べてくれなかった。

翌朝、ごまは、胃液を少しだけ戻して、ぐったりとしていた。

(私のせいだ…)

フローリングに座り込み、莉子は、声を殺して泣いた。

(…ああ、まただ。昔と同じだ…)

莉子の脳裏に、数年前の、冷たい雨が降る夜の記憶が蘇る。

深く愛した恋人に、別れを告げられた、あの夜。

彼は、莉子の存在そのものを、否定するように言ったのだ。

『君のその、いつも穏やかで、全てを受け入れるような態度は、結局、何事にも本気で向き合っていないだけだ。君のその静けさは、ただの逃げだ。俺は、もう、そんな君にはうんざりなんだ』

穏やかであること。

静かであること。

それこそが、莉子のアイデンティティだった。

それを、根こそぎ否定された。

あの時、莉子は、ただ黙って、彼が去っていくのを見送ることしかできなかった。

(あの時と同じ。私は、ただ、穏やかに見守るだけで、また、大切なものを失うんだわ。今度こそ、間違えちゃいけない。本気で、向き合わなくちゃ…!)

ごまへの過剰な管理は、単なる心配からではなかった。

それは、過去の傷への、必死の、そして痛々しいほどの過剰反応だったのだ。

 

終章:陽だまりの中の、永遠

 

完璧な絶望。

それが、その時の莉子の心を、完全に覆っていた。

しかし、そんな莉子の心を現実に引き戻したのは、スマートフォンの通知音だった。

由紀からの、短いメッセージだった。

『先生。今日、ハナちゃんが、少しだけご飯を食べてくれました。先生の「大丈夫」っていう言葉を信じて、焦るのをやめたら、なんだか、ハナちゃんも安心してくれたみたいです。ありがとうございます』

その、素直な感謝の言葉が、莉子の胸に突き刺さった。

(私は、なんて、馬鹿だったんだろう)

その日の午後。莉子は、ヨガスタジオで、シャバーサナの瞑想を誘導していた。

「…深く、息を吸って…。そして、吐く息と共に、体中の力を、すべて、手放していきましょう…。昨日の後悔も、明日の不安も、今は、手放して…」

その言葉は、もはや、生徒たちだけのものではなかった。

それは、莉子自身の、心からの祈りだった。

(大丈夫。信じて、待とう)

瞑想を終え、目を開けた莉子の心は、不思議なほど、静かで、穏やかだった。

家に帰った莉子は、まず、記録用のアプリを消去した。

そして、高価なサプリメントを、ゴミ箱に捨てた。

「ごま。食べたい時に、食べたいだけで、いいんだよ」 莉子は、ただ、ごまの隣に座り、静かに、その体を撫で続けた。

が、深まっていく。窓の外のイチョウ並木が、鮮やかな金色に色づき始めた、

ある晴れた日の午後。

莉子は、ベランダに、厚手のブランケットを敷いた。

そして、ごまを、その温かい腕に抱きしめて、一緒に、陽だまりの中に座った。

膝の上で、ごまは、すぐに、安心しきったように、すうすうと寝息を立て始めた。

やがて、あの、愛おしい音が聞こえてくる。

「…ん…ちゅ…ちゅる…」

莉子は、その寝言に、耳を澄ます。

ごまの、ゆっくりとした呼吸のリズムに、自分自身の呼吸を、そっと、重ねていく。

吸って、吐いて。

ごまの、小さな心臓の鼓動が、莉子の体に、じんわりと伝わってくる。

ああ、なんて、温かい。

なんて、幸せなんだろう。

かつて、恋人に「逃げだ」と否定された、この静けさ。

でも、これは、逃げなんかじゃない。

ただ、ありのままを受け入れ、寄り添う、誰にも真似できない、私だけの、愛の形だ。

この静けさの強さを、ごまが、もう一度、私に教えてくれた。

莉子は、そっと目を閉じた。

金色のイチョウの葉が、はらり、と一枚、ブランケットの上に舞い落ちる。

陽だまりの中で、一人と一匹の時間は、ただ、静かに、そして、美しく、流れていった。


 

あとがき

 

読者のあなたへ

この物語を、最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

私たちは、失うことを恐れるあまり、今、ここにある、かけがえのない宝物を見失ってしまうことがあります。

この、静かな秋の日の物語が、あなたの心の中にある、大切な誰かとの「今」を、より一層、愛おしむきっかけとなれたなら、作家として、これ以上の喜びはありません。

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