まえがき
ページを開いてくださり、ありがとうございます。
夏の陽射しは、時として、私たちの心を少しだけ疲れさせてしまうことがありますね。
何もやる気が起きなくて、ただ、日々が過ぎていくのを眺めているだけ。
そんな日も、きっとあると思います。
でも、そんな、ぐうたらで、ちょっぴり情けない時間の中にこそ、見つかる宝物のような瞬間があるのかもしれません。
これは、そんな、真夏の午後の、ささやかな発見の物語。
あなたの心に、ひんやりとした木陰のような、優しい時間をお届けできますように。

プロローグ
今年の夏は、まるで佳奈の未来を試すためにやってきたかのようだった。
イラストレーターとして独立して、一年。
佳奈、三十四歳のキャリアは、この秋に開催される新人絵本コンクールの結果に、全てが賭かっていた。
ここで賞を取れなければ、貯金は底をつき、またあの窮屈なデザイン事務所に頭を下げて戻るしかない。
しかし、そのコンクールのテーマは、夏が何よりも苦手な彼女にとって、あまりに過酷なものだった。
――「生命力あふれる、真夏の動物たち」。 暴力的なまでの陽射しが照りつける東京で、佳奈自身の生命力は、日に日に萎れていく一方だというのに。
「…溶ける」
佳奈は、フローリングの床に、だらしなく大の字になって呟いた。
ペンタブレットの画面には、描きかけのライオンが、覇気のない猫のように、情けなく座っている。
生命力どころか、欠伸さえしているように見えた。
そして、その気持ちは、同居猫も、同じらしかった。
佳奈の視線の先、玄関のたたきの上で、白い長毛の塊が、完璧なまでに液体化していた。

彼の名は、「だいふく」。
四歳になる、白猫の男の子。
涼しげな見た目に反して、暑さにめっぽう弱い彼は、夏になると、まるで北極から都会に迷い込んできてしまったシロクマが夏-バテで動けなくなったかのように、床にべったりと体を伸ばし、一日中、ほとんど動かなくなる。
佳奈は、そんな彼を、親しみを込めて「白くま」と呼んでいた。
佳奈自身の心の夏バテを映す鏡のように、だいふくも、すっかり元気をなくしていた。
このままでは、仕事も、この子の健康も、何もかもがだめになってしまう。焦りだけが、じっとりとした熱気の中で、空回りしていた。
序章:対・夏バテ大作戦と、深まる焦り
「このままでは、二人して干からびてしまう…!」
佳奈は、重い体をなんとか起こした。
だいふくの夏バテを解消すること。
それが、今の自分にできる、唯一の、そして最も重要なミッションのはずだった。
彼が元気になれば、きっと、私も、生命力あふれる絵が描けるようになる。
猫の健康管理は、今や、佳奈自身の未来を切り開くための鍵だったのだ。
「よし、白くまくん。我々は、この夏と戦うことを、ここに宣言します!」
佳奈が一方的に宣言しても、だいふくは、ぴくりとも動かない。
その日から、佳奈とだいふくの、ささやかな「対・夏バテ大作戦」が始まった。
ネットで評判の、猫用のひんやりグッズを次々と取り寄せた。
最初に届いたのは、天然大理石でできた、ひんやりプレート。見た目も涼やかで、インテリアにも馴染む。
「これなら完璧!」と、佳奈はだいふくがいつも寝転がっている場所に設置した。
しかし、だいふくは、その冷たい石を一瞥すると、ぷいと顔をそむけ、わざわざその隣の、生ぬるいフローリングの上にごろんと横たわった。
次に届いたのは、内部に冷却ジェルが入った、クールマット。
しかし、ジェル特有のぷにぷにした感触が、だいふくのプライドを傷つけたらしい。
彼は、その上で爪を研ぐためのものだと認識したようで、数時間で見るも無残な姿になった。
そして、最後に届いたのは、首に巻く、小さな保冷剤入りのネッククーラー。
佳奈がそれをだいふくの首にそっと巻いた瞬間、それまで液体だったはずの白くまは、野生を取り戻した。
まるで不倶戴天の敵のように、「フーッ!」と威嚇し、電光石火の猫パンチでネッククーラーを叩き落とし、部屋の隅へと逃げてしまった。

良かれと思ってしたことが、すべて裏目に出る。
コンクールの締め切りは、無情にも、一日、また一日と近づいてくる。
佳奈の心は、夏の暑さとは別の理由で、じりじりと焦げていくようだった。
中章:最も暗い瞬間と、きゅうりの奇跡
ひんやりグッズ作戦が全て失敗に終わった後、佳奈は最後の手段に出た。
かかりつけの獣医にオンラインで相談し、勧められた、食欲増進効果のある、高価な療法食を取り寄せたのだ。
「だいふく、これ、きっと美味しいよ。これを食べて、元気になろうね」
しかし、食欲のないだいふくは、その匂いをふんと嗅いだだけで、ぷいと顔をそむけてしまった。
それどころか、無理に食べさせようとしたストレスからか、翌朝、胃液を少しだけ戻してしまったのだ。
ぐったりと、体重計の目盛りが、ほんの少しだけ減った愛猫を前に、佳奈の心は、ぽっきりと折れた。
(私のせいだ…)
フローリングに座り込み、佳奈は、声を殺して泣いた。
(…ああ、まただ。昔と同じだ…)
佳奈の脳裏に、才能豊かな同級生の作品の前で、自分のスケッチブックをそっと閉じた、あの日の無力な自分の姿が蘇る。
美術大学の卒業制作展。
誰もが、友人の描いた、力強く、生命力に満ちた油絵を絶賛していた。
それに比べて、自分の描いた、淡く、優しいだけの水彩画は、誰の目にも留まらない。
あの時、私は、戦う前に、自分から筆を折ったのだ。
(結局、私は何も変わっていない。何かを生み出す資格なんて、最初からなかったんだ…)
私が夏を嫌いだから、この子まで元気をなくしていくんだ。
仕事も描けない、猫一匹、幸せにしてあげられない。
完璧な絶望。それが、その時の佳奈の心を、完全に覆っていた。
もう、何もかもどうでもいい。
そう思いながら、佳奈は、水分補給の足しにでもなればと、冷蔵庫にあったきゅうりを、ただ、無心でスライスしていた。
その時だった。
床に落ちた、ひとかけらのきゅうりに、だいふくが、おずおずと顔を寄せたのだ。
そして。 ぺろり、と、ピンク色の小さな舌で、きゅうりの断面を舐めた。

佳奈は、息をのんだ。
だいふくは、もう一度、ぺろり。
そして、シャクッ、と、小さな歯で、きゅうりをかじった。
静かな部屋に響く、涼やかな音。
それは、絶望の淵にいた佳奈の乾いた心に、染み渡るような、優しい音色だった。
その姿を見ていたら、佳奈自身も、なんだか、きゅうりが食べたくなった。
台所に立つと、残りのきゅうりを乱切りにして、味噌とマヨネーズで和える。
シャク、シャク、シャク…。
佳奈は、だいふくの隣に座り込み、一緒にきゅうりを食べた。
特別なご馳走じゃない。
ただの、きゅうり。
でも、同じものを、同じ瞬間に、「おいしいね」って言い合いながら食べる。
その、ささやかで、静かな時間が、たまらなく愛おしかった。
戦うのを、やめた。
夏と戦うのではなく、夏と、どうやったら、仲良くぐうたらできるか。
佳奈は、その日、作戦の方向転換を、心に決めたのだった。
終章:ぐうたらな夏休み
その日を境に、佳奈とだいふくの部屋は、「ぐうたらな夏休み」の研究所と化した。
鶏のささみを茹でたスープを、製氷皿で凍らせて、「白くまくん専用アイスキャンディー」を作る。
だいふくが、それを前足でころころと転がしながら、少しずつ舐めている姿は、いつまで見ていても飽きなかった。
リビングには、竹でできた、ひんやりとしたラグを敷いた。
佳奈が、その上で寝転がって本を読んでいると、いつの間にか、だいふくも隣に来て、一緒にお腹を出して眠っている。
佳奈は、ペンタブレットを握る代わりに、スケッチブックと鉛筆を手にした。
床の上で、ありとあらゆる形に液体化する、白い毛玉。
アイスキャンディーに夢中になる、真剣な横顔。

きゅうりをかじる、満足げな口元。
描きたいものが、そこには、たくさんあった。
「生命力あふれる、真夏の動物たち」。
それは、サバンナのライオンや、ジャングルの虎のことだけを指すのではなかった。
この、クーラーの効いた部屋で、いかに快適に夏を乗り切るか、その一点に、全生命力を注いでいる、このぐうたらな白くまのことでもあったのだ。
やる気の出ない、憂鬱な季節だと思っていた。
けれど、視点を少し変えるだけで、世界は、こんなにも、愛おしい発見に満てていたのだ。
ぐうたらも、悪くない。
ううん、ぐうたら、最高。
そうして描いた「白くまくんの夏休み」と題した一連のスケッチは、佳奈の心を、不思議な満足感で満たしてくれた。
そして、その中の一枚、きゅうりをかじるだいふくの絵が、佳奈の新しい代表作となる絵本の、最初のページを飾ることになる。
審査員からは、こう評された。
「完璧な技巧を誇る作品は多い。しかし、この作品に宿る、ままならない日常への、どうしようもない愛おしさ。それこそが、我々が探し求めていた、本物の生命力だ」と。
佳奈が、「不完全さ」や「ぐうたら」を、ありのままに受け入れたからこそ、誰にも真似できない、本物の輝きを手に入れたのだ。
八月の終わり。
あれほど猛威を振っていた太陽が、少しだけ、その勢いを和らげた午後。
窓から、優しい風が吹き込んできて、風鈴が、ちりん、と涼やかな音を立てた。
竹のラグの上で、佳奈とだいふくは、ぴったりと体を寄せ合って、うとうとと微睡んでいる。
佳奈は、夢を見ていた。

広い、広い氷の上で、本物のシロクマと、自分が、一緒にきゅうりを食べている、そんな、おかしくて、幸せな夢を。 長い、長い夏休みは、もうすぐ、終わる。
あとがき
読者のあなたへ
この物語を、最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
頑張れない日があったって、いい。
何もしない、ぐうたらな一日が、案外、私たちに、一番大切なものを教えてくれるのかもしれませんね。
この、ひんやりとした、きゅうりのような物語が、あなたの夏の日の心に、ささやかな涼を届けられたなら、作家として、これ以上の喜びはありません。