まえがき
読者のあなたへ
都会の空の下、日々を懸命に走り抜けているあなたへ。
私たちは、自分だけの「城」を、美しく、完璧に飾りたいと願うものです。
それは、自分の人生を、自分の手でコントロールしたいという、ささやかで、けれど切実な祈りなのかもしれません。
でも、その完璧な城に、気まぐれで、愛おしい同居人がやってきたとしたら…?
この物語は、そんな、完璧な理想と、ままならない現実との間で揺れる、一人の女性のお話です。
クスッと笑えるその葛藤の先に見つけた、本当の「心地よさ」についての物語が、あなたの心を、ふわりと軽くできますように。
ページをめくる音が、あなただけの聖域(サンクチュアリ)への扉となりますように。
それでは、どうぞごゆっくり。猫の喉を鳴らす音を聞きながら、お楽しみください。

プロローグ
三十六歳、独身。
インテリアコーディネーターの恵は、ついに人生最大の買い物をした。
都心から少し離れた、静かな住宅街に佇む、新築のマンション。
自分の城だ。
数年間勤めたデザイン事務所から独立したばかりの恵にとって、この城は、単なる住居ではなかった。
それは、彼女の仕事の集大成であり、センスを証明するための、生きたポートフォリオそのものだった。
インテリアのプロとして、一切の妥協はなかった。
床は温かみのある無垢材のフローリング、壁は呼吸をする珪藻土の塗り壁。
照明は、時間帯によって光の色が自動で変化するスマート照明。
そして、リビングの中央には、この家の王様として鎮座する、デンマーク製の大きなソファ。
ふんわりとしたライトグレーの布張りで、体を優しく包み込むような有機的なデザイン。
給料三ヶ月分を奮発した、恵のプライドの象徴だった。
「完璧だわ…」
週末の午後、丁寧にハンドドリップで淹れたコーヒーを片手に、恵は自分の城を眺めてうっとりと呟いた。
モデルルームのように完璧で、静かで、美しい空間。
これこそが、私がクライアントに提供したいと願う、理想の暮らしそのものだ。
その完璧な城に、最後のピースが加わったのは、一ヶ月後のことだった。
近所の動物病院の掲示板に貼られていた、「家族募集中」の文字。
写真の中で、少し臆病そうにこちらを見ていた、一歳の茶トラの保護猫。
「むぎ」。
恵は、その猫に、温かみのある名前をつけた。
最初の数日、むぎは恵の理想の猫だった。
静かにおもちゃで遊び、恵の膝の上で眠り、決して爪を立てたりしない。
この子なら、私の完璧な城の、完璧な住人になれる。恵は、そう確信していた。
序章:開戦の狼煙(のろし)
その完璧な確信が、木っ端微塵に砕け散ったのは、むぎが家に来て、五日目のことだった。
恵が、仕事部屋でデザイン画を仕上げていると、リビングの方から、今まで聞いたこともない、不吉な音が聞こえてきたのだ。
――バリバリバリッ! バリバリバリバリーッ!

それは、上質な織り生地が、無慈悲に、そしてどこか楽しげに引き裂かれる音。
恵は、血の気が引くのを感じながら、そろりとリビングを覗いた。
そこに広がっていたのは、悪夢のような光景だった。
むぎが。あの、おとなしいはずのむぎが。
恵の城の王様である、あのライトグレーのソファの角に、うっとりと恍惚の表情を浮かべながら、その爪を、心ゆくまで突き立てていたのだ。
「こ、こらーっ! むぎ、だめ! やめなさい!」
恵の絶叫に、むぎはびくりと体を震わせ、一目散にベッドの下へ隠れた。
残されたのは、無残にもけば立った、ソファの角。
それは、恵の完璧な日常に刻まれた、最初の、そして、あまりに深い傷跡だった。
こうして、恵の完璧な理想と、むぎの本能的な愛情表現を巡る、長く、そして熾烈な戦いの火蓋は、切って落とされた。
中章:正念場と、千金の言葉
恵は、プロだった。
猫のいるインテリアについても、知識はあった。
まずは、代替案の提示だ。
「むぎちゃん、見てごらん。あなたのための、素敵な爪とぎよ」
恵は、ネットのレビューを読み漁り、ありとあらゆる種類の爪とぎ器を買い揃えた。
猫の行動学に基づいたという、麻縄を巻いたポール型。SNSで人気の、段ボール製のベッド型。
ソファと同じような布地を使った、カーペット生地のマット型。
デザインも、北欧家具の雰囲気を壊さない、お洒落なものばかりを選んだ。
しかし、むぎは、それらの高級爪とぎ器に、鼻先でふんと匂いを嗅ぐだけで、一瞥もくれない。
そして、恵が少しでも目を離すと、すかさず、ソファの定位置へと向かい、至福の表情で爪を研ぐのだ。
「どうしてなの! 私が、プロの私が選んだのよ!?」

次は、猫のしつけの基本、嫌悪療法だ。
ソファの角に、猫が嫌うという柑橘系のスプレーを吹きかけ、粘着質の両面テープを貼り付けた。
結果、むぎは、少しだけ場所をずらし、テープの貼られていない部分を、器用に研ぎ始めた。
恵の心は、さらにささくれ立っていく。
友人からは、「爪とぎを見たら、大きな音を立ててびっくりさせるといいよ」とアドバイスされた。
恵は、むぎがソファに近づくたびに、手を叩き、「こら!」と叫んだ。
すると、むぎは、恵が見ている時には、ソファに近づかなくなった。
そして、恵がシャワーを浴びている間や、眠っている間に、こっそりと、しかし、より入念に、爪とぎをするようになった。
そんな、恵のプライドと理性が、日に日に削られていく中、運命の日がやってきた。
恵が独立後、初めて掴んだ、大きな仕事に繋がるかもしれない、新規の重要クライアント。
瀟洒な邸宅に住む、マダム風の城戸(きど)夫人が、恵の自宅兼サロンを視察に訪れることになったのだ。
「この日のために、私は城を完璧にしたはずなのに…!」
恵は、決戦の朝、ソファの無残な角を見て、絶望的な気分になった。
なんとか、クッションやブランケットで、その傷を芸術的に隠そうと試みるが、どうにも不自然さが拭えない。
ピンポーン、と無情にもチャイムが鳴る。
「ようこそ、城戸様。お待ちしておりました」
恵は、完璧な笑顔の仮面を貼り付け、クライアントをリビングへと招き入れた。
心臓は、早鐘のように鳴っている。
どうか、ソファの傷に気づかれませんように。
しかし、そんな恵の祈りを嘲笑うかのように、ベッドの下から、むぎが、のそりと姿を現した。
そして、まっすぐに城戸夫人の足元へとすり寄り、「にゃーん」と、愛想の良い声を上げたのだ。
「まあ、可愛い猫ちゃん」
城戸夫人は、優雅に微笑むと、むぎの頭をそっと撫でた。
その時、恵は見た。
夫人の視線が、クッションで隠しきれていない、ソファのけば立った部分に、一瞬だけ留まったのを。
(終わった…)
恵は、目の前が真っ暗になった。
完璧な空間を提案するべき人間が、自宅の家具ひとつ、管理できていない。
こんな人間に、家のコーディネートを任せたいと思うはずがない。
しかし、城戸夫人の口から出たのは、恵の予想とは全く違う言葉だった。
「素敵なお住まいね。モデルルームのように洗練されているけれど、この子がいると、なんだか、ふっと空気が温かくなるのが不思議だわ」
そして、恵の心を射抜くように、こう続けた。
「私、完璧すぎる空間は、少し息が詰まってしまうの。こういう、温かい『暮らしの跡』が見える方が、ずっと心地よいわ」
その言葉は、単なる世間話ではなかった。
プロである恵の「完璧」よりも、この猫一匹がもたらす「温かさ」の方が、空間としては魅力的ですよ、という、彼女のプロとしての価値観を根底から揺るがす、千金の重みを持つフィードバックだった。
終章:降伏宣言と、本当の王様
城戸夫人との契約は、無事に取れた。
しかし、恵の心は、晴れないままだった。
戦いは、最終局面に突入した。
恵は、最後の、そして、最も屈辱的な手段に打って出ることを決意した。
ソファ全体を覆う、ビニール製の、お世辞にもお洒落とは言えない、ソファカバーの購入だ。

カバーをかけた瞬間、恵の自慢のリビングは、まるで安っぽいビジネスホテルのロビーのようになってしまった。
しかし、背に腹はかえられない。
これで、ソファは守られる。
恵は、勝利を確信した。
しかし、それは、最も空しい勝利だった。
爪とぎの喜びを奪われたむぎは、目に見えて元気をなくしてしまった。
お気に入りのおもちゃにも興味を示さず、大好きだったはずの恵の膝にも、乗ってこなくなった。ただ、ケージの隅で、じっと丸まっている時間が増えた。
家は、静かになった。
ソファは、完璧に保護されている。
けれど、そこには、城戸夫人が褒めてくれた、あの「温かい空気」は、もう流れていなかった。
ある夜、恵は、ビニールの冷たい感触のソファに一人で座り、部屋の隅で小さくなっているむぎを見た。
(私は、何を守りたかったんだろう…)
完璧なインテリア? プロとしてのプライド?
そのために、この子の、あの幸せそうな顔を、奪ってしまったの?
その瞬間、恵の中で、何かが、ぷつりと切れた。
「もう、いいや…」
恵は、立ち上がると、ビリビリ、と音を立てて、ビニールのカバーを剥ぎ取った。
そして、それを丸めて、ゴミ袋に突っ込んだ。
そして、ベッドの下に隠れていたむぎを、優しく呼んだ。
「むぎ、おいで。もう、いいから」
おずおずと出てきたむぎを抱き上げると、恵は、問題のソファの角の前に、むぎを下ろした。
そして、その小さな前足を取り、けば立った場所に、そっと押し当てた。
「どうぞ。あなたの好きなように、していいよ。もう、怒らないから」
むぎは、数秒間、きょとんとした顔で恵を見上げていたが、やがて、全てを理解したように、嬉しそうに喉を鳴らし、思いっきり、バリバリと爪を研ぎ始めた。

その姿を見ていたら、なぜか、涙がこぼれてきた。
そして、次の瞬間、恵は、声を上げて笑っていた。
「あはは! 参りました! 私の、負けです!」
それは、敗北宣言であり、そして、最高の、愛の降伏宣言だった。
思う存分爪を研ぎ終えたむぎは、満足げな顔で、ソファに飛び乗り、当たり前のように、恵の膝の上で、丸くなった。
ゴロゴロ…という、エンジンのような音が、部屋中に響き渡る。
この家の本当の王様が、誰だったのか。恵は、ようやく、その真実を受け入れたのだった。
エピローグ
数ヶ月後。恵の城には、新しい秩序が生まれていた。
ソファの角は、今や、むぎ専用の爪とぎとして、立派なアート作品のような風格を漂わせている。
不思議なもので、見慣れてしまうと、それはもはや「傷」ではなく、この家とむぎの歴史を物語る、「味」のようにさえ思えた。
その日、恵は、新しいお客様を、自宅のサロンに招いていた。
「猫ちゃん、いらっしゃるんですね。私も、猫と暮らしたくて…。でも、家具とか、ボロボロにされちゃうかなって、躊躇してて」
お客様の言葉に、恵は、膝の上で眠るむぎの温かい背中を撫でながら、にっこりと微笑んだ。
「ええ。きっと、ボロボロになりますよ」
そして、こう続けた。
「でも、気づいたんです。完璧に整えられただけの空間は、『ショールーム』でしかないんだって。傷や、汚れや、笑い声や、猫の喉を鳴らす音があって、初めて、その場所は、本当の意味で『我が家』になるのかもしれませんね」

その言葉は、インテリアコーディネーターとして、そして、一人の人間として、恵が、あの日の重要なクライアントとの出会いを通して見つけた、新しい答えだった。
作者のあとがき
読者のあなたへ
この物語を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
完璧でありたい、と願う私たちの心と、ままならない愛おしい現実。
この物語が、そんなあなたの心に、そっと寄り添えたなら嬉しいです。
「負けるが勝ち」なんて言葉がありますが、時には、愛するものの前で、潔く降伏宣言をしてみるのも、悪くないものかもしれませんね。
あなたの「我が家」が、たくさんの愛の傷跡で満たされますように。