猫と私の、長雨のち晴れ

まえがき

読者のあなたへ

都会の空の下、日々を懸命に走り抜けているあなたへ。

空模様と同じで、私たちの心にも、どうしようもなく晴れない、じっとりとした梅雨が訪れることがあります。

思い通りにならないこと、不安なこと。

そんな時、隣にいる小さな家族の存在が、心をかき乱すことも、そして、救ってくれることもあるのかもしれません。

この物語は、そんな、ままならない日常の、一コマを切り取ったお話です。

ハラハラして、ため息をついて、そして、最後には、どうしようもなく愛おしくなる。

そんな猫とあなたのための、ささやかな物語。

ページをめくる音が、あなただけの聖域(サンクチュアリ)への扉となりますように。

それでは、どうぞごゆっくり。

雨上がりの虹を待つような、優しい時間をご一緒に。


プロローグ

 

今年の梅雨は、どこか意地が悪い、と奈緒は思った。

東京の空は、分厚い灰色の雲にその表情を塗り潰され、もう三週間も、太陽はその気配すら見せていない。

ウェブデザイナーの奈緒、三十九歳の住むマンションの十三階の窓には、ひっきりなしに雨粒が筋を描き、まるで世界が涙を流し続けているかのようだった。

三十代最後の年。

在宅で完結する仕事にも、気ままな独り暮らしにも満足していたはずなのに、ふと、このままずっと一人なのだろうかという漠然とした不安が、この湿気と共に心を侵食してくるのを感じていた。

そんな時、保護猫の譲渡会で出会ってしまったのが、生後三ヶ月のサバトラの子猫だった。

ケージの中から、必死に前足を伸ばしてくるその小さな命に、奈緒の心の壁は、いとも簡単に崩されてしまったのだ。

「…また、やってる」

奈緒は、VRヘッドセットをそっと外し、深いため息をついた。

リビングの真ん中で、今日もまた、小さな嵐が吹き荒れている。

嵐の中心にいるのは、今や生後六ヶ月となり、有り余るエネルギーを持て余しているサバトラの子猫、「りく」。

そして、その嵐から、公爵のように威厳を保ちながらも、明らかに迷惑そうなオーラを放って身を守っているのが、五歳になるクリーム色のスコティッシュフォールド、「うみ」。

穏やかで、物静かで、奈緒の人生の完璧なパートナーだった先住猫のうみ。

その平和な王国に、やんちゃな王子様りくがやってきて、一ヶ月。長い梅雨は、ただでさえぎこちない二匹の関係を、じっとりと湿らせ、悪化させるのに十分な時間だった。

縄張り争い、ごはんの横取り、運動不足からくるイタズラという名の破壊活動…。

奈緒の心も、東京の空と同じ、どんよりとした梅雨空に閉ざされていた。

多頭飼いは、想像していたよりもずっと、難しく、そして、心を削られるものだった。

 

序章:終わらない梅雨と、序列問題

 

事件が起きたのは、雨音が一段と強まった、月曜日の午後だった。

クライアントとのオンライン会議を終えた奈緒がリビングに戻ると、部屋の空気が、まるで凍りついたように張り詰めている。

うみの、おっとりとした性格に甘えていたが、彼にも限界というものがあるのだ。

見ると、キャットタワーの最上段、本来はうみの指定席であるはずの場所に、りくがふんぞり返って座り、満足げに尻尾を揺らしている。

そして、うみは、ソファの下の暗がりに、小さなクリーム色の塊となってうずくまっていた。

「うみ? どうしたの?」

奈緒が声をかけても、うみは出てこない。

よく見ると、うみの好物である高級おやつの袋が、無残に引き裂かれ、中身が空になっている。

床には、りくが撒き散らしたであろう食べカスが点々と落ちていた。

「…りく、あなたね」

奈緒が低い声で言うと、りくは「にゃーん?」と、世界一無邪気な顔で首を傾げた。

その口元に、おやつのカケラがついているのを見つけてしまい、奈緒は天を仰いだ。

この小さな暴君は、まだ善悪の区別もつかないのだ。

それからというもの、うみは心を閉ざしてしまった。

食事も、奈緒がソファの下まで運んでいかないと口にしない。

トイレに行くときでさえ、りくの姿がないか、周囲を警戒しながら、そろりそろりと歩くようになった。

りくが少しでも近づこうものなら、「フーッ!」と威嚇の声をあげ、全身の毛を逆立てる。

一方のりくは、そんなうみの繊細な心を微塵も理解せず、家中を自分の遊び場と勘違いして走り回り、その俊敏な体でカーテンによじ登り、奈緒が徹夜して作り上げたデザイン案を表示しているタブレットのコードをかじった。

「もう、いい加減にして!」 奈緒の堪忍袋の緒が切れた。

大きな声に驚いて、りくは一目散にベッドの下へ。

ソファの下のうみも、びくりと体を震わせた。

しんと静まり返った部屋で、雨音だけがやけに大きく聞こえる。

奈緒は一人、途方に暮れる。

良かれと思って始めた、新しい生活。

それが、自分も、うみも、そして、きっと、りくさえも、不幸にしているのではないか。

そんな自己嫌悪が、じっとりとした湿気と共に、奈緒の心にまとわりついていた。

 

中章:賢者の言葉と、小さな兆し

 

「猫の多頭飼いは、焦らないことが一番ですよ。人間が思う以上に、彼らには彼らの時間とルールが必要です」

画面の向こうで、獣医の先生が穏やかに言った。

「特に、梅雨の時期は、猫たちもストレスが溜まりやすい。運動不足と、気圧の変化で、心も体も不安定になるんです」

オンラインでのペット健康相談。

藁にもすがる思いで予約した奈緒に、先生はいくつかの具体的なアドバイスをくれた。

食事の場所を完全に分けること。

それぞれが安心できる、一人の時間を確保できる場所を作ること。そして、運動不足を解消するための、新しいおもちゃ。

奈緒が熱心にメモを取るのを確認すると、先生は、最後に一番大切なことを伝えるように、少しだけ優しい声色で付け加えた。

「そして、奈緒さん。一番大切なのは、あなたが焦らないこと。猫は、飼い主の心の鏡のようなものですから。あなたが『仲良くさせなきゃ』と焦れば焦るほど、その緊張が猫たちに伝わって、かえって関係をこじらせてしまう。大丈夫。信じて、待ってあげてください」

その言葉は、まるで魔法のように、奈緒のささくれた心に、静かに染み込んでいった。

その日から、奈緒の「猫の健康管理」大作戦が始まった。

リビングの反対側に、りく専用の給餌ステーションを設置し、うみはキッチンでゆっくり食べられるようにした。

うみが隠れているソファの下には、お気に入りの毛布を増量し、誰にも邪魔されない聖域(サンクチュアリ)を強化した。

しかし、二匹の関係は、そう簡単には変わらなかった。

うみは相変わらずソファの下から出てこず、りくは電動じゃらしに三十分で飽きて、またうみのテリトリーにちょっかいを出しに行く。

奈緒は、先生の「信じて待つ」という言葉を必死に思い出し、介入したい気持ちをぐっと堪えた。

(大丈夫、大丈夫…) そう自分に言い聞かせる、ある日の夕方だった。

奈緒がクライアントとのビデオ通話で、仕事の遅れを謝罪している、まさにその時だった。

視界の隅で、小さな動きがあった。

りくが、ソファの前にちょこんと座り、ソファの下にいるうみに向かって、前足をちょい、ちょい、と動かしている。

いつものように、ちょっかいを出しているのだ。

またうみが怒る、と奈緒が身構えた、その瞬間。

ソファの下から、うみのクリーム色の前足が、にゅっと伸びてきた。

そして、りくの小さな頭を、ぽふっ、と優しく叩いたのだ。

それは、威嚇の猫パンチではなかった。爪も出していない、まるで「はいはい、うっとうしいわね、坊や」とでも言うような、呆れと、ほんの少しの優しさが混じった、不思議な一撃だった。

りくは、きょとんとした顔で自分の頭を撫で、うみは、何事もなかったかのように、またソファの下の暗がりに引っ込んでしまった。

ほんの、数秒の出来事。

けれど、奈緒の目には、その光景がスローモーションのように映っていた。

暗く、長い梅雨の雲間に、一瞬だけ、細く、儚い光が差し込んだような気がした。

 

終章:雷の夜と、壊れた家族

 

その夜、梅雨の終わりを告げるかのように、激しい雷雨が街を襲った。

ピカッ、と窓の外が光った瞬間、ゴロゴロゴロ…!と、地響きのような音が続いた。

奈緒も、思わず肩をすくめる。

その時だった。「にゃっ!」という悲鳴に近い声がして、りくがパニック状態で部屋を駆け回り始めた。

そして、あろうことか、うみの聖域であるソファの下に、猛スピードで潜り込もうとしたのだ。

「あ、だめ!」 奈緒が叫ぶのと、うみが「ウゥーッ!」と低い唸り声をあげるのは、ほぼ同時だった。

自分の聖域を侵されたうみは、恐怖と怒りで、りくの耳に、鋭い猫パンチを繰り出してしまった。

「みぎゃっ!」 りくの悲鳴。

ソファの下から転がり出てきたりくの耳から、血が、ほんの少しだけ滲んでいる。

奈緒は、心臓が止まるかと思った。

すぐにりくを抱き上げ、消毒をする。

幸い、ほんのかすり傷だったが、りくはショックで、ぶるぶる震えている。

一方、うみは、ソファの下の、さらに奥の暗がりで、息を殺している。

その夜、奈緒はほとんど眠れなかった。

雨音を聞きながら、りくを別の部屋に隔離し、一人、暗いリビングの床に座り込んでいた。

(私が、全部、間違ってたんだ…)

涙が、静かにこぼれ落ちた。

(良かれと思って、家族を増やそうとしたのに。結局、私がしたことは、この小さな王国を、不和と不幸に満ちた『壊れた家族』にしてしまっただけじゃないか。やっぱり、私には、温かい家族なんて、築けないんだ…)

三十九年間、一人で生きてきた。

それが、一番、楽だった。

誰かを愛し、守り、育む。

そんな資格なんて、自分には、最初からなかったのかもしれない。

明日、保護団体の人に電話をしよう。

そして、謝ろう。私には、この子を幸せにすることができなかった、と。

翌朝。

奈緒が、重い体を引きずってリビングに行くと、信じられない光景が広がっていた。

ソファの前で、うみが、りくの傷ついた耳を、ぺろ、ぺろ、と優しく舐めていたのだ。

りくは、されるがままに、気持ちよさそうに目を細めている。

奈緒は、声も出せずに、その場に立ち尽くした。

昨夜の激しい喧嘩が、嘘のようだった。

もしかしたら、うみは、やりすぎてしまったことを、後悔していたのかもしれない。

あるいは、雷という共通の脅威が、二匹の間に、何か特別な感情を芽生えさせたのかもしれない。

真実は、猫にしか分からない。

でも、一つだけ確かなことがある。

二匹は、奈緒が知らないところで、奈緒が介在しないやり方で、ちゃんと、自分たちの関係を、築こうとしていたのだ。

焦り、管理しようとしていたのは、奈緒だけだった。

獣医さんの、「信じて、待ってあげてください」という言葉が、今になって、本当の意味で胸に響いた。

奈緒の目から、涙が、静かにこぼれ落ちた。

それは、自己嫌悪の涙ではなく、安堵と、二匹への愛おしさで満たされた、温かい涙だった。

 

エピローグ

 

あの雷雨を最後に、長かった梅雨は、ようやく終わりを告げた。

久しぶりに顔を出した太陽の光が、リビングに明るい縞模様を描いている。

奈緒が、窓を大きく開けると、二匹の猫が、並んで窓辺に飛び乗った。

クリーム色の、大きなスコティッシュフォールド。

そして、その隣にぴったりと寄り添う、小さなサバトラ。

まだ、時々、小さな喧嘩はする。

りくは、相変わらずうみのごはんを狙っているし、うみは、そんなりくを教育的指導とばかりに、優しく猫パンチする。

でも、夜、奈緒がソファでくつろいでいると、いつの間にか、右脇にはうみが、左脇にはりくが、それぞれの距離感で丸まっている。

不器用な猫団子が、そこにある。

完璧な家族じゃないかもしれない。

奈緒が夢見ていた、穏やかで、静かなだけの暮らしではない。

でも、雨上がりの、澄んだ空気の中で、奈緒は確信していた。

私たちは、ちゃんと、家族に、なれたのだ。

この、ままならなくて、少し騒がしくて、どうしようもなく愛おしい、家族に。


 

作者のあとがき

 

読者のあなたへ

この物語を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

焦らなくても、大丈夫。

思い通りにならなくても、大丈夫。

家族や、大切な人との関係は、まるで天気のように、ゆっくりと、その形を変えていくものなのかもしれません。

この、ままならないけれど愛おしい物語が、あなたの心の長雨に、一筋の光を届けられたなら、作家として、これ以上の幸せはありません。

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