浅草レースと、月光の瞳

まえがき

読者のあなたへ

都会の空の下、日々を懸命に走り抜けているあなたへ。

自分の手で、誰かのための美しいものを創り出す喜び。

それは、何にも代えがたい宝物です。

けれど時々、その輝きとは裏腹に、あなた自身の未来が、まるで霧の中にあるように、心もとなく感じられる日もあるのではないでしょうか。

この物語は、そんなあなたのための、少し不思議なお守りです。

レトロな東京を舞台に、一人の不器用な女性が、自分の針と糸で、運命の扉を開いていく。

その小さな勇気の物語が、あなたの背中をそっと押せますように。

ページをめくる音が、あなただけの聖域(サンクチュアリ)への扉となりますように。

それでは、どうぞごゆっくり。

モダンで、少し幻想的な浅草の時間をご一緒に。


プロローグ

 

大正十四年、東京・浅草。

関東大震災の傷跡から力強く立ち上がり、復興の槌音と人々の活気が満ち溢れる街。

カラン、コロンと響く下駄の音と、西洋音楽(ジャズ)の軽快な音色が混じり合うモダンな街。

その賑やかな仲見世通りを一本脇に入った、

観音裏の路地に、千代(ちよ)の営む小さな仕立て屋「ちよ洋装店」は、ひっそりと佇んでいた。

三十四歳の千代は、この街で評判のお針子だった。

早くに両親を亡くし、女一人で生きていくため、必死で身につけた針仕事の腕。

それが今、彼女の全てだった。

彼女の仕立てる洋装は、流行の最先端をいくモダンガール(モガ)たちの間で、「着る人を魔法のように輝かせる」と評判だった。

軽やかな絹のワンピース、ビーズ刺繍が煌めくパーティードレス。

千代は、新しい時代を謳歌する彼女たちのための華やかな衣装を縫い上げることが、生きがいだった。

しかし、その指先が生み出す輝きとは裏腹に、千代自身の毎日は、まるで生成り色の木綿のように、素朴で、変化に乏しかった。

肩まで伸ばした黒髪をきっちりと結い、動きやすい木綿の着物に前掛け姿。

それが彼女の日常だった。

モダンな洋装に身を包み、カフェーで語らい、ダンスホールで踊る客たちを、千代はいつも少しだけ遠い世界の出来事のように感じていた。

自分の未来を描く設計図は、いつまでも真っ白なまま。

それでいい、と自分に言い聞かせては、また黙々と愛用のミシンの前に座るのだった。

そんな千代の静かな城に、不思議な客が迷い込んできたのは、夏の終わりの、夕立が瓦屋根を激しく叩く日のことだった。

店の引き戸が、雨風に押されて、かたりと開く。

その隙間から、するりと滑り込んできたのは、ずぶ濡れになった一匹の白猫だった。

その猫は、ただの猫ではなかった。

右の瞳は、澄んだ夏の空を映したようなサファイアブルー。

そして、左の瞳は、熟した杏のように輝く、トパーズゴールド。

「オッドアイ…」 幸運と不運、その両方を招くと言い伝えられる、神秘的な瞳。

千代は、まるで幻でも見るかのように、その猫に見入っていた。

猫は、濡れた体を一度ブルリと震わせると、まるで昔からここにいたかのように、千代の足元にちょこんと座り、静かに喉を鳴らし始めた。

そのゴロゴロという低い振動が、店の古い床板を通して、千代の心にまで伝わってくるようだった。

千代は、その猫を「雪月(ゆきつき)」と名付けた。

雪のように白い毛並みと、月のように輝く金色の瞳にちなんで。

この出会いが、千代の止まっていた運命の針を、大きく動かし始めることになるとは、まだ誰も知らなかった。

 

序章:服の魂と、最初の幻視

 

雪月が店に住み着いてから、不思議なことが続いた。

まず、客が目に見えて増えたのだ。

「ここの洋服は幸運を呼ぶらしい」という、奇妙な噂まで立ち始め、ちよ洋装店は、かつてないほどの活気に満ちていた。

「雪月は、福の神様なのかしら」

千代は、窓辺で気持ちよそうに眠る雪月の頭を撫でながら、微笑んだ。

そんなある日、店の常連客で、華族の令嬢である怜子(れいこ)が、目を輝かせながら駆け込んできた。

「千代さん! 今度の夜会で、誰よりも目立つドレスを仕立ててちょうだい!」

千代は腕によりをかけて、月光を浴びて輝く湖面のような、青銀色の絹地(シルク)でドレスを仕立てることにした。

布を裁ち、針を通す。

その一つ一つの行為が、千代にとっては、客の未来を彩るための神聖な儀式にも似ていた。

仮縫いの日。

怜子の白い肌に、青銀色の布が滑らかに沿う。

「なんて素敵…! これなら、きっとあの方の心も射止められるわ」

うっとりと鏡を見つめる怜子。

その時、千代の足元に、雪月がすり寄ってきた。

千代が、ドレスの丈を調整しながら、何気なく雪月の柔らかな背中を撫でた、その瞬間だった。

ぐにゃり、と視界が歪んだ。

店の賑やかな空気が、すうっと遠のいていく。

歪んだのは、怜子の笑顔ではなかった。

千代の指が触れている、ドレスそのものだった。

青銀色の絹地が、まるで命を得たかのように、重く、冷たく、そして悲しい響きを帯びて震え始める。

それは、まだ形になっていないはずの「服」に宿った、未来の記憶、心の叫びだった。

雪月のゴロゴロという喉の音が、その声なき声を翻訳する、不思議な触媒(しょくばい)となる。

――そこは、空気が張り詰めた薄暗い和室だった。

怜子の正面には、能面のような顔をした父親が座っている。

冷たく、有無を言わさぬ声が、千代の耳に直接響いた。

「いいか、怜子。佐田伯爵家との縁談は、我ら一族の未来を左右する大事な縁組だ。家のための道具として、黙って嫁ぎなさい」。

怜子の瞳から、ぽろり、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちる。

それは、夜会のためのドレスに喜ぶ令嬢の顔ではなく、望まぬ結婚に、心を殺して耐えようとしている、一人の女性の絶望の顔だった。

「…っ!」

千代は、思わず指先に力を込めてしまう。

ちくり、と針が指を刺し、その鋭い痛みで現実の世界に引き戻された。

「どうしたの、千代さん? 顔色が悪いわ」

不思議そうな顔でこちらを見る怜子。

彼女の顔には、先ほど見たような悲しみの影は、どこにもない。

(今のは、このドレスが、これから経験するはずの、悲しい記憶…?)

千代は混乱しながら、雪月を見た。

雪月の、青と金の瞳が、じっと千代を見つめ返している。

最高の仕立て屋だからこそ与えられた、天賦の才。

その才を目覚めさせるために、この猫はやってきたのだと、言わんばかりに。

 

中章:呪いと祝福と、不完全な瞳

 

その日を境に、千代の世界は一変した。

仕立てている服に触れ、雪月に触れると、その服がこれから纏うはずの物語が、鮮やかな幻となって流れ込んでくるようになったのだ。

新聞記者のコートからは、スクープを逃した嫉妬と焦りのインクの匂いがした。

カフェーの女給のブラウスは、病気の母を想う、疲労と優しさの重みで湿っていた。

華やかな服に宿る、持ち主たちの、孤独、不安、嫉嫉、そして、ささやかな願い。

それらが、千代の心に、容赦なく流れ込んでくる。

「こんな力、私には荷が重すぎる…」

人の秘密を知ることは、千代の心をじわじわと蝕んでいった。

これは天賦の才などではない。

呪いだ。

ある夜、千代は、また怜子のドレスの幻を見た。

夜会の夜、青銀色のドレスを着て、人形のように微笑みながら、年の離れた、見知らぬ男の隣に立つ怜子の姿。

そのドレスは、持ち主の心を失い、ただの美しい抜け殻のように、空しく輝いていた。

千代は、胸が張り裂けそうになった。

(私に、何ができるっていうの…? 私は、ただの、お針子なのに)

最も暗い瞬間。

それは、特別な力を持ってしまったことへの恐怖と、何もできない自分への無力感だった。

いっそ、雪月をどこかへやってしまおうか。

そうすれば、私も、また元の、何も知らない、ただの針子に戻れるのではないか。

千代は、店の隅で丸くなって眠る雪月を、震える手で見つめた。

しかし、その手を伸ばすのを、ためらった。

千代は、ふと、夜の闇を映す店の窓ガラスに目をやった。

そこに映っているのは、疲れ果て、不安げに顔を歪める自分と、その足元で静かに眠る、雪月の姿だった。

そして、千代は、はっとする。

ガラスに映る雪月の瞳。片方は、夜の闇に溶けるような深い青。

もう片方は、ランプの光を反射して、三日月のように輝く金色。

完璧ではない、どこか「欠けた」存在。

その、不完全な瞳が、なぜか、自分を責めていないことに、千代は気づいた。

むしろ、そのままでいいのだと、静かに肯定してくれているような気さえした。

この不完全で、だからこそ美しい生き物が、自分に力を与えてくれているという事実に、改めて思い至った。

 

終章:運命を縫う、勇気のひと針

 

その時、千代は、ふと自分の両手を見た。

針仕事で、少し硬くなった指先。

ここには、たくさんの人のための服を仕立ててきた、確かな技術が宿っている。

(私は、ただのお針子なんかじゃない。服の魂と対話できる、仕立て屋なんだ)

千代の心に、小さな、しかし、確かな灯火がともった。

私には、人の心を直接救うことはできないかもしれない。

でも、この指先から生まれるもので、その人の背中を、そっと押してあげることはできるはずだ。

千代は、怜子のための青銀色のドレスを、再び仕立て台の上に広げた。

デザインは変えない。

けれど、ほんの少しだけ、魔法をかける。

千代は、純白の絹糸を取り出すと、ドレスの袖口の、裏地との境目に、小さな、小さな花の刺繍を施した。

それは、どんな嵐にも負けず、岩陰でけなげに咲く、撫子の花。

花言葉は、「純粋な愛」、そして、「大胆」。

怜子さん本人にしか分からない、ささやかなお守り。

最終の仮縫いの日。

怜子がドレスに袖を通す。

「やっぱり素敵ね…。これで、私も、覚悟を決められるわ…」

諦めたように、寂しく微笑む怜子に、千代はそっと袖口を指し示した。

「怜子様。このドレスから、声が聞こえました。だから、お守りを縫い込んでおきました」

小さな撫子の刺繍を見つけた怜子の目が、大きく見開かれる。

「このお花は、撫子と申します。どんな場所でも、自分の力で、強く、美しく咲く花だそうでございます。このドレスは、怜子様に、そうあってほしいと願っております」

千代が、震える声で、精一杯の気持ちを伝えると、怜子の瞳から、あの幻で見たのと同じ、大粒の涙が、ぽろり、ぽろりとこぼれ落ちた。

しかし、その表情は、絶望ではなかった。

「…ありがとう、千代さん。私、もう少しだけ、自分の心に、正直になってみようと思う」

その瞳には、確かな意志の光が宿っていた。

 

エピローグ

数週間後、ちよ洋装店に、晴れやかな顔をした怜子がやってきた。

「私、あの縁談、お断りしたの。そして、自分で画廊を始めることにしたわ。ずっと、夢だったのよ」

そう言って笑う彼女は、今までで一番、美しく輝いて見えた。

「千代さんのドレスが、私に勇気をくれたわ。あの撫子を見るたびに、私だって咲けるはずだって思えたの。本当に、ありがとう」

怜子が帰った後、千代は、店の片隅で、新しい布地を広げた。

それは、夜明けの空のような、淡い菫色の布。

千代は、初めて、自分自身のためのドレスの設計図を描き始めた。

それは、誰かのためのものではない。

臆病な自分の未来を、自分の手で切り開いていくための、勇気の一着。

窓辺では、雪月が、満足げに喉を鳴らしている。

その青と金の瞳は、まるで、千代の新しい未来を、祝福しているかのようだった。

浅草の小さな仕立て屋で、運命の針は、今、確かに、新しい物語を縫い始めている。


 

あとがき

 

読者のあなたへ

この物語を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

自分の手で何かを生み出すあなたは、もうすでに、魔法使いです。

この物語が、あなたのその素晴らしい力が、誰かのためだけでなく、あなた自身の未来を切り開くための「勇気のひと針」となることを、心から願っています。

あなたの設計図が、素晴らしい未来で満たされますように。

 

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