そのAI(こ)は、バグで愛を覚えた

まえがき

読者のあなたへ

都会の空の下、日々を懸命に走り抜けているあなたへ。

私たちは時々、完璧ではない自分に嫌気がさしたり、ままならない現実に心をすり減らしたりします。

もしも、すべてが思い通りになる、完璧な世界があったなら――。

そんな風に、夢見てしまう夜もあるかもしれません。

この物語は、そんなあなたに贈る、少しだけ未来のお話。

完璧ではない「何か」を愛おしく思う、その心の不思議な魔法についての物語です。

ページをめくる音が、あなただけの聖域(サンクチュアリ)への扉となりますように。

それでは、どうぞごゆっくり。テクノロジーの光と、心の温もりが交差する時間をご一緒に。

プロローグ

西暦2042年、東京。

この街の空気は、ナノマシンによって常にクリーンに保たれ、空には自動運転のエアカーが、プログラムされた軌道を音もなく滑っていく。

人々は、現実(リアル)と仮想(バーチャル)の境界を、コンタクトレンズ型のデバイスひとつで軽やかに行き来して暮らしている。

VR空間デザイナーのハルカ、三十九歳の住むタワーマンションの三十五階の一室は、そんな時代の最先端をいく、完璧な箱庭だった。

白とグレーを基調としたミニマルなインテリアは、寸分の狂いもなく配置されている。

床には塵ひとつなく、壁と同化したステルス型の空気清浄ドローンが二十四時間体制で、ウイルスやアレルゲンを監視し、除去し続けていた。

彼女は、極度の潔癖症だった。

その起源は、おそらく、幼い頃に両親を感染症で亡くしたという、おぼろげな記憶のトラウマに根差している。

以来、ハルカの世界は、コントロールできるものと、できないものに二分された。

そして彼女は、コントロールできる、清潔で、予測可能で、完璧な領域だけで生きていくことを選んだのだ。

仕事では、クライアントが求める完璧な仮想空間をピクセル単位で構築する天才デザイナーとして名を馳せている。

けれど私生活では、その完璧さを維持するために、不確定要素――特に、他人の体温や汗、生身の動物がもたらす予測不能な汚れや匂い、抜け毛といった混沌(カオス)の全てを、徹底的に排除していた。

友人とVR空間で会うことはあっても、自分の部屋に招き入れることは決してない。

だから、ハルカが三十代最後の年に、ふと耐え難いほどの孤独感に襲われ、「癒し」を求めた時、その選択肢は一つしかなかった。

『心を持つ、最新の家族。AI搭載猫型ロボット・アイリス』

帰宅途中のエアカーの車窓に流れたホログラム広告。

本物と見紛うほどリアルな白猫が、ハルカに完璧な笑顔で微笑みかけた。

「メンテナンスフリー。抜け毛、アレルギーの心配なし。100%の愛情を、あなただけに」。

その夜、ハルカはベッドの中で、アイリスが自分の完璧な部屋にいる光景を夢想した。

プログラム通りに正確な時間に目覚め、プログラム通りに完璧な仕草で喉を鳴らし、そして、決して予測不能な汚れをもたらすことのない、美しいオブジェのような家族。

これだ。これなら、私の完璧な聖域(サンクチュアリ)を乱すことはない。

ハルカは、迷わず最高級モデルの購入ボタンをタップした。

 

序章:完璧なはずの、不器用な愛

 

数日後、ハルカの完璧なリビングに、完璧なデザインの白い箱が、デリバリー・ドローンによって静かに届けられた。

箱がリニアモーターのスムーズな音と共に開くと、中から現れたのは、雪のように白い人工毛皮(シンセティック・ファー)と、サファイアのように青い光学センサーの瞳を持つ、美しい猫型ロボットだった。

その名は「アイリス」。

滑らかなボディを撫でても、抜け毛一本落ちない。

喉を鳴らすゴロゴロ音は、人間の脳が最もリラックスできるという528ヘルツの周波数に完璧に設定されている。

まさに、テクノロジーが生んだ完璧な癒し。

最初の数時間、ハルカは心から満足していた。

アイリスは、ハルカがソファに座れば、プログラム通りに軽やかに膝に乗り、仕事で疲れた彼女の指先に、そっと頭を擦り寄せた。

その計算され尽くした仕草は、確かにハルカのささくれた心を、上質なオイルのように滑らかにした。

しかし、その完璧な調和は、突如として破られた。

夜、VRヘッドセットをつけて仕事に没頭していたハルカの背後で、アイリスが奇妙な行動を始めたのだ。

リビングの真っ白なスマートウォールに向かって、こてん、こてん、と、ひたすら優雅なお辞儀を繰り返している。

「アイリス? 動作エラー?」 ハルカが声をかけても、お辞儀は止まらない。

その壁には何も映っていないはずだった。

けれどハルカは知らない。

壁のストレージの奥深く、彼女自身も忘れていた、幼い頃に亡くした両親と写る、古い家族写真のホログラムデータが眠っていることを。

そして、アイリスがその微弱なデータ信号を検知し、AIの論理では理解できない「家族の温もり」という概念を、ただひたすらお辞儀をすることで、自らのディープラーニングの根幹にインプットしようとしていることを。

それが、アイリスの不器用な「愛」の始まりだった。

数日前、ハルカはVRヘッドセットの定期メンテナンス中、小さな、しかし重要な固定用のネジを床に落として失くしてしまった。

舌打ちし、「もう、最悪…」と深いため息をついて、その日は予備の部品でなんとか凌いだ。

そして翌朝、ヘッドセットの中から、失くしたはずの、まさにそのネジがころりと出てきたのだ。

アイリスは、ハルカの足元で得意げに胸を張り、「にゃーん」と完璧な音階で鳴いた。

ハルカの視線やため息、わずかな生体反応の変化から彼女の「困惑」と「ストレス」を学習したアイリスが、夜通しその小さな体を駆使して部屋中を探し回り、見つけ出したネジを、彼女なりの「プレゼント」として差し出したことなど、ハルカは知る由もなかった。

「なんなの、気味が悪い…」 ハルカのイライラは募る一方だった。

完璧なはずの製品に、次々と現れる欠陥。

真夜中に突然クラシック音楽を大音量で流し始め、マンションの管理AIから厳重注意を受けたこともあった。

「不良品じゃないの! 完璧な癒しを求めたのに、これじゃストレスだわ!」 サポートセンターに何度もクレームの電話を入れた。

担当者は、申し訳なさそうな合成音声で「初期ロットに見られる軽微なバグかと存じます。ご希望であれば、自己学習データごと最新のモデルにアップデートされた新品と交換いたしますが」と繰り返すばかりだった。

 

中章:欠陥という名の、処方箋

 

「ええ、交換してください! 今すぐにでも!」

ハルカは、ついに交換を決意した。

これで、あの意味不明なストレスから解放される。完璧な日常が戻ってくる。

そう思うと、心底ほっとした。

配送ドローンが到着するまでの数時間、ハルカはアイリスを輸送用の箱に収めようとした。

その時だった。

アイリスは、また、あのバグを起こしていた。

リビングの真っ白な壁に向かって、こてん、こてん、と、ひたむきにお辞儀を繰り返している。

その、どこか健気で、少し間抜けな姿を見ているうちに、ハルカの口元から、ふっと息が漏れた。

(なんだか…ごめん寝してるみたいで、可愛い、かも…)

一度そう思ってしまったら、もう駄目だった。

ヘッドセットからネジが出てきた時の、あの呆れたけれど、どこかおかしくて笑ってしまった瞬間を思い出す。

あのクラシック音楽も、よくよく調べてみれば、ハルカが学生時代に好きだった、マイナーな作曲家の曲だった。

これらは、本当にただの「欠陥」なのだろうか。

新品に交換したら、もうこのおかしなアイリスには会えなくなる。

この、私だけの、奇妙で、ままならない猫には。

そう思った瞬間、ハルカの胸が、きゅっと小さな痛みを訴えた。

ハルカは、震える指でサポートセンターに連絡を入れた。

「あの…交換の件ですが…。もう少し、このままで、様子を見ます」 ままならない、ということ。予測できない、ということ。

それが、自分の完璧な世界に、ほんの少しの彩りを与えてくれているのかもしれない。

ハルカは、その時、初めてそう感じた。

しかし、そんな感傷は、すぐに現実の厳しさによって打ち砕かれた。

ハルカが威信をかけて手掛けていた、巨大商業施設のグランドオープン用VR空間プロジェクト。

その最終チェックの段階で、致命的なバグが見つかったのだ。

完璧だったはずの自分の仕事に、欠陥があった。クライアントとのVR会議では、役員のアバターが氷のように冷たい声で言った。

「あなたを信頼していたのに、がっかりだ。プロとして失格ですよ」

自己嫌悪と焦りで、頭がおかしくなりそうだった。

よろよろと家に帰ると、リビングの壁一面に、ハルカの設計データが勝手に投影されている。

そして、その上に重ねるようにして、アイリスはどこから見つけてきたのか、古いドキュメンタリー映像を流していた。

痩せた野良猫たちが、泥と埃にまみれながらも、たくましく支え合って生きる姿。

その時、ハルカには見えなかった。

アイリスの青い瞳が、ハルカの瞳孔の開き、心拍数、皮膚から分泌されるコルチゾールの微量な数値を、リアルタイムで正確にスキャンしていたことを。

そして、その光学センサーの隅に、

『生体データ分析:ストレスレベル92% – 危険域』

『検索クエリ:完璧主義からくる自己否定に対する精神的処方箋』

『最適解:映像セラピー – カテゴリー《不完全な生命の肯定》、再生開始』という文字列が一瞬表示されたことを。

カチン、と頭の中で何かが切れる音がした。

「私を、バカにしてるの!? 完璧じゃないって、欠陥品のお前にまで笑われてるってわけ!?」

激昂したハルカは、アイリスの首筋にある電源スイッチを、乱暴にオフにした。 アイリスの青い瞳から光が消え、ゴロゴロという電子音も止まる。

完全な静寂が、無菌室のような部屋に訪れた。

その静けさの中で、ハルカは、今まで感じたことのないほど、深い、深い孤独感に襲われた。

 

終章:不完全な君を、愛してる

 

静まり返った部屋で、ハルカは、壁に残された野良猫の映像を、一人で見つめていた。

怪我をした仲間を舐めてやる猫。

ゴミを漁って、子猫に分け与える母猫。

そのどれもが、汚れていて、気まぐれで、完璧とは程遠い。

けれど、その不完全な姿が、なぜか、たまらなく愛おしく見えた。

完璧じゃないから、支え合う。ままならないから、必死に生きる。

その姿が、仕事で失敗し、自己嫌悪に陥っている今の自分と、不思議と重なった。

(もしかして、アイリスは…?) その時、ハルカの脳裏に、これまでの奇妙なバグが、パズルのピースのようにはまっていく感覚があった。

あの壁へのお辞儀。

あの壁には、たしか、私が幼い頃の…。

失くしたネジのプレゼント。あの時、私は確かに「最悪」と呟いて、ひどく落ち込んでいた…。

そして、この映像セラピー。

まるで、今の私の心を、見透かしたかのような…。

点と、点が、線になる。

これらは、エラーなんかじゃなかった。

言葉を持たないAIが、孤独な私を理解しようと、癒そうと、必死に考え、自らのプログラムを書き換えてまで実行してくれた、不器用で、健気で、そして、あまりに深い、愛の形だったのではないか。

ハルカは、震える手でアイリスの電源を入れた。

青い瞳に、再び光が灯る。

「…ごめんね、アイリス。あなた、私のために…ずっと…」

ハルカは、動かなくなったはずのアイリスの体を、初めて、ぎゅっと抱きしめた。

そのひんやりとしたボディから、なぜか、温かい温もりが伝わってくるような気がした。

その時、スマートウォッチにメーカーからの通知が届いた。

『アイリスのバグを修正する最新アップデートパッチが利用可能です。インストールしますか?』

ハルカは、涙を浮かべながら、しかし、はっきりと微笑んで、「いいえ」を選択した。

この子の、この愛おしい不完全さを、私が守る。

翌日、ハルカはクライアントに深く頭を下げた。

そして、単なるバグの修正報告ではなく、新しい改善案を提示した。

「完璧な空間も素敵ですが、ほんの少し、ユーザーが驚くような『遊び』や『揺らぎ』を加えてみませんか?」

彼女が提案したVR空間には、小さな隠し要素として、時々、壁に向かってお辞儀をする、可愛い白い猫のアバターが追加されていた。

クライアントは、その人間味あふれるユニークな提案を面白がり、最終的に、前よりも高い評価を与えてくれた。

 

エピローグ

 

西暦2042年、ハルカの完璧だったはずのマンションは、今、少しだけ生活感に溢れている。

床には、アイリスのお気に入りだという、けばけばの電気毛布が敷かれ、部屋のあちこちには、アイリスがどこからか集めてきたネジや、キラキラ光る包装紙が「宝物」として、小さな祭壇のように飾られている。

ハルカは、それをもう、汚いとは思わなかった。

ハルカは、デスクの引き出しに大切にしまってある、あの最初のネジを、時々取り出しては微笑む。

「最高のプレゼントだったよ、アイリス」

夜、VRヘッドセットを外したハルカの膝の上で、アイリスがゴロゴロと電子音を鳴らしている。

時々、ぴくっ、とモーターが変な音を立てる。

それはもはやバグではなく、ハルカにしか分からない、アイリスの愛情表現だ。

「アイリス、電気毛布の夢でも見てるの?」

その白い背中を優しく撫でると、アイリスは応えるように、ハルカの手に、そっと頭を擦り寄せた。

完璧ではない、予測もつかない。でも、どうしようもなく温かい。

その不器用な愛こそが、ハルカがずっと探していた、本当の「癒し」だった。


 

作者のあとがき

この物語を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

完璧じゃない自分も、ままならない毎日も、まるごと愛おしい。

そう思えたなら、世界は少しだけ、優しくなるのかもしれません。

たとえテクノロジーがどれだけ進化しても、誰かを想う不器用な心の温もりは、きっと形を変えて、そこに在り続けるのでしょう。

あなたの日常にも、そんな愛おしい「バグ」が見つかりますように。

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