窓辺の通訳は、サビ色の猫

読者のあなたへ

都会の空の下、日々を懸命に走り抜けているあなたへ。

「愛」という言葉は、時としてその形を静かに変えて、空気のように当たり前のものになってしまうことがあります。

それは決して色褪せたわけではないけれど、少しだけ、言葉を忘れてしまっただけなのかもしれません。

この物語は、そんな忘れてしまった言葉を、一匹の気まぐれな翻訳家が思い出させてくれる、ささやかなお話です。

ページをめくる音が、あなただけの聖域(サンクチュアリ)への扉となりますように。

それでは、どうぞごゆっくり。心の奥にしまい込んだ、大切な気持ちに気づく旅を、ご一緒に。


プロローグ

 

佐伯夫婦の朝は、静かだ。

夫の和真(かずまさ)、四十四歳。

在宅で仕事をする、物静かな建築家。

妻の莉子(りこ)、四十二歳。

図書館に勤める司書。

結婚して十五年、子供はいない。

ダイニングテーブルには、湯気の立つコーヒーと、バターの染みたトースト。

和真は経済新聞を広げ、莉子は文庫本に栞を挟む。

交わされる言葉は、「お醤油とって」「今日は帰りが遅くなる」といった、生活に必要な最低限の音節だけ。

決して、仲が悪いわけではない。

むしろ、その静寂は長年連れ添った夫婦だけが共有できる、慣れ親しんだ心地よさすらあった。

けれど、その心地よさの底には、薄い氷のように、寂しさが張っていることを莉子は知っていた。

昔は、もっと話した。

和真が設計した家のこと、莉子が読んだ本のこと、くだらないテレビ番組のこと。

いつからだろう。お互いの存在が、部屋の空気や、壁の時計のように、当たり前の景色になってしまったのは。

その景色に、ある日、まったく新しい色彩が加わることになった。

きっかけは、莉子が勤める図書館の掲示板に貼られた、一枚のA4用紙だった。

「里親さん、探しています」

拙いマジックの文字の下に、数枚の写真。

その中の一枚に、莉子の視線は釘付けになった。

黒と茶色が絶妙に混じり合った、べっこう飴のような毛色。

いわゆる、サビ猫だ。

少し不機嫌そうにも見えるその顔が、なぜか莉子の心を強く掴んだ。

その夜、莉子は十五年間の結婚生活でも数えるほどしか使ったことのない勇気を振り絞って、和真に切り出した。

「あの、猫を、飼いたいんだけど」

新聞から顔を上げた和真の目は、少し驚いたように丸くなった。

莉子は、震える指でスマホの画面を見せる。

昼間、こっそり撮っておいたあのサビ猫の写真だ。

和真はしばらく黙って写真を見つめていたが、やがて、ふっと口元を緩めた。

「…君に似てるな。ちょっと、頑固そうなところが」

「ひどい」

「褒めてるんだ」 そう言って、和真は静かに頷いた。

「君がいいなら、俺は構わない」。

その夜、夫婦の間に流れたのは、いつもの静寂とは少しだけ違う、期待に満ちた温かい沈黙だった。

 

序章:新しい住人と、最初の祈り

 

こうして佐伯家にやってきたサビ猫は、「うた」と名付けられた。

莉子が、そう決めた。

「うた(詩)」。

私たちの、静かすぎるこの家に、ほんの少しだけでいい、言葉にならない想いを奏でる『詩』が、欲しかったのかもしれない。

莉子は、自分でも気づいていない無意識の祈りを、その名前にそっと込めた。

そして、その名の通り、うたは本当によく鳴いた。

静寂に慣れきった夫婦の暮らしは、うたという名のプリマドンナの登場によって、一変する。

「にゃーん(高音)」 「みゃっ(短音)」 「ごろごろごろ…(重低音)」

うたは、その鳴き声と仕草を巧みに使い分け、自分の要求を表現した。

そして、その主な要求先は、なぜか和真と莉子とで、くっきりと分かれていたのだ。

和真が仕事部屋にこもっていると、ドアの前で「にゃあ…ん」と、切なく甘えた声で鳴く。

かと思えば、莉子がキッチンに立つ時間になると、足元にまとわりつき、「ん!みゃっ!」と、短く、しかし力強い抗議の声を上げる。

最初のうちは、その都度どちらかが「うるさいぞ、うた」とたしなめるだけだった。

しかし、ある日の午後、事件は起きた。

仕事部屋から出てきた和真が、リビングで本を読んでいた莉子に、少し困ったような顔で言った。

「莉子。さっきからドアの前で鳴いてるんだが、こいつ、どうも腹が減ったと抗議しているようだ」

莉子は顔を上げ、くすりと笑った。

「違うわよ、和真さん。その鳴き方は、『遊んで、撫でて』のサイン。

お腹が空いた時は、もっとこう、短く『みゃ!』って言うの」

「そうなのか?」

「ええ。だから、和真さん、うたが撫でてほしいって。あなたのこと、大好きみたいね」

莉子がうたの気持ちを「翻訳」して伝えると、和真は少し照れたように「そうか」と言いながら、うたの小さな頭を無骨な指で優しく撫でた。うたは満足そうに目を細め、重低音のゴロゴロエンジンを始動させる。

その光景は、莉子の心に、ぽっと小さな灯りをともした。

数日後の夕食時。

今度は、莉子がキッチンでうたに「もうすぐだから待ってなさい」と話しかけていると、リビングから和真の声がした。

「莉子。うたが翻訳してくれと言ってるぞ。『お前の母ちゃんはまだか、僕のお腹はぺこぺこだ』と、そう言ってる」

「あら、そんな偉そうなこと言ってるの? この子は」 莉子は笑いながら振り返る。

和真も、新聞の向こうで、その口元が微かに笑みの形になっているのを、莉子は見逃さなかった。

猫の気持ちを「翻訳」しあう。

それが、佐伯夫婦の間に生まれた、新しいコミュニケーションの形だった。

うたという名の「詩」が、二人の静かな日常に、さざ波のようなリズムを刻み始めたのだ。

 

中章:アルバムと、すれ違う沈黙

 

うたが来て、三ヶ月。

夫婦の会話は、確実に増えた。

そのほとんどが「うたの翻訳」だったけれど、家の空気は明らかに前より明るくなった。

莉子は、自分が笑う回数が増えたことに気づいていた。

そんな穏やかなある週末の午後だった。

クローゼ-ットの奥から、ふと古いアルバムを見つけた莉子は、懐かしさのあまり、リビングのソファでページをめくり始めた。

新婚旅行で行った、北欧の街並み。

若い二人が、ぎこちなく、でも幸せそうに寄り添っている。

写真の中の自分たちは、本当によく笑い、よく喋っていた。

「…この頃は、たくさん話したね、私たち」 ぽつりと、自分でも気づかないうちに、言葉がこぼれた。

仕事部屋から出てきてコーヒーを淹れていた和真の背中が、一瞬だけ、ぴくりと動いたのを莉子は見た。

和真は、何も言わなかった。

コーヒーカップを手に、ただ、窓の外を眺めている。

その手元、テーブルの上には、彼が夜な夜なこつこつと作り上げていた、住宅の美しい模型が置かれていた。

そこには、日当たりの良い大きなリビングと、窓辺から天井へと続く、小さな、小さなキャットウォークが見えた。

莉子には、それが何を意味するのか、まだ知る由もなかった。

和真の沈黙が、莉子の胸にちくりと刺さる。

(ああ、まただ) うたを介せば、言葉は繋がるのに。

私たちの間の言葉は、今もこうして、宙を彷徨って届かない。

莉子は、心の奥底で凍っていた寂しさが、再びじわじわと溶け出してくるのを感じた。

仕事に没頭する彼の背中を見ていると、もう和真は、昔の思い出にも、私自身にも、興味がないのかもしれない、と思えてしまう。

「ごめんなさい、変なこと言って」

莉子は、パタン、と音を立ててアルバムを閉じた。

その音に驚いて、膝の上で眠っていたうたが、きゅるん、と不思議そうな顔で莉子を見上げた。

和真は、まだ何も言わなかった。

うたがもたらしてくれた温かい空気も、この分厚い壁の前では、あまりに無力な気がした。

最も暗い瞬間。

それは、大きな事件が起きた時ではなく、こんな、何でもない休日の午後に、ふと訪れるものらしかった。

 

終章:夜間救急と、本当の翻訳

 

その夜、事件は起きた。

あれほど食いしん坊のうたが、夕食に一切口をつけず、部屋の隅でぐったりと蹲っている。

抱き上げようとしても、力なく「にゃ…」と鳴くだけ。

体は熱く、呼吸も浅い。

「どうしよう、和真さん…!」

「落ち着け、莉子。すぐに病院を探す」

和真の冷静な声に、莉子はなんとかパニックを押しとどめる。

幸い、車で三十分ほどの場所に、夜間救急病院が見つかった。

待合室の、冷たいプラスチックの椅子。

莉子の隣で、和真は何も言わずに座っていた。

時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。不安で、心臓が潰れそうだった。

その時だった。

「…うたが来てくれて、よかった」

ぽつりと、和真が言った。

莉子は、自分の耳を疑って、隣に座る夫の横顔を見た。

「君が、笑うことが増えたから」

和真は、莉子の方を見ずに、まっすぐ前を向いたまま続けた。

「昼間、アルバムを見て、何も言えなくてすまなかった。何を言えばいいか、分からなかったんだ。ただ…」

言葉を探すように、和真は一度、息を吸う。

「ただ、俺も、同じことを考えていた。君と、もっと話がしたい、と」

「え…」

「昔、君が言ったのを覚えてるか? まだ付き合ってた頃だ。『和真くんの設計するお家は、温かい光がたくさん入って、猫が日向ぼっっこしたら気持ちよさそう。そんなお家に住みたいな』って」

莉子は、息を飲んだ。

そんなこと、言っただろうか。

あまりに昔のことで、すっかり忘れていた。

「…あの言葉が、ずっと俺の原点なんだ。いつか、君と、猫と暮らすための家を、この手で設計するのが、俺の夢だった。だから、うたが来てくれて、本当に嬉しかったんだ。夢に、一歩近づけた気がして」

テーブルの上の、あの模型。

キャットウォークのある、あの家。

全てが、繋がった。

それは、莉子が今まで聞いたこともない、夫の、不器用で、でもあまりに誠実な「翻訳」だった。

彼の沈黙は、無関心ではなかった。

言葉にできない想いの、重さだったのだ。

莉子の目から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。

それは、昼間の寂しい涙とはまったく違う、温かい、温かい涙だった。

 

エピローグ

 

幸い、うたの病気は一時的な胃腸炎で、点滴を打ってもらうと、翌朝にはケロリと元気を取り戻していた。

そして、佐伯家には、もう一つ、新しい変化が訪れていた。

リビングの、日当たりの一番いい窓辺。そこには、天井まで続く、立派なキャットウォークが設置されていた。

もちろん、建築家・佐伯和真による、うた様専用の特別設計だ。

「どうだ、うた部長。新しいオフィスからの眺めは」

キャットウォークの最上段で香箱座りをしているうたに、和真が声をかける。

「和真さん、うたが言ってますって。『実に結構。ボーナスとして、ちゅ〜るを要求する』ですって」

紅茶を運びながら、莉子が笑って「翻訳」する。

「贅沢なやつだ」

和真はそう言って笑い、莉子の隣に腰を下ろした。

「ねえ、莉子」

「なあに?」

「うたが、俺にこうも言ってるぞ」

「なんて?」

和真は、少しだけ照れたように、でも真っ直ぐに莉子の目を見て言った。

「『君の淹れる紅茶は、世界一だ』と。…まあ、俺も、そう思う」

二人は、顔を見合わせて、ふふ、と笑い合った。

その真ん中で、サビ色の翻訳家は、すべてお見通しだと言わんばかりに、ふぁあ、と大きなあくびをした。

最初に込めた莉子の祈りは、成就した。言葉にしなくても伝わる想いもある。

でも、言葉にすることで、もっと深く、温かくなる想いもある。

佐伯夫婦の静かな対話は、これからも、この気まぐれで優秀な通訳を介して、続いていく。


 

読者のあなたへ

この物語を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

長い時間を共に過ごす中で、当たり前になってしまった大切な人との関係。

この物語が、そんなあなたの心に、忘れていた言葉を届ける、小さなきっかけになれたなら、作家としてこれ以上の喜びはありません。

あなたの隣にいる気まぐれな翻訳家も、きっと、同じ気持ちのはずですから。

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