まえがき
読者のあなたへ
都会の空の下、日々を懸命に走り抜けているあなたへ。
頑張り屋のあなたほど、自分の食事を、自分の心を、つい後回しにしてしまってはいませんか。
この物語は、そんなあなたのための、一杯の温かいスープです。
ページをめくる音が、あなただけの聖域(サンクチュアリ)への扉となりますように。
それでは、どうぞごゆっくり。
心とお腹が満ちる、ささやかな時間をご一緒しましょう。

プロローグ
橘かえで、三十六歳、独身。
職業、料理研究家アシスタント。
その肩書きは、きらきらとキャラメリゼされた飴細工のように、甘くて美味しそうに聞こえるかもしれない。
けれど現実は、先生の華やかなレシピの影で、分量をきっちり測り、地味な下ごしらえを黙々とこなす裏方仕事。
自分の名前で世に出る料理は、一つもない。
そんなかえでの私生活の食卓は、まるで色のない写真のようだった。
朝は、栄養バランスを謳うシリアルバー。
昼は、仕事の合間に詰め込むコンビニのおにぎり。
そして夜は、疲れた体でキッチンに立つ気力もなく、特売のパンを牛乳で流し込む。
「美味しいものは、人を幸せにするのよ」
スタジオで、先生はいつも太陽のように笑って言う。
その魔法は、どうやら自分自身にはかからないらしい、とかえでは心の中で自嘲した。
自分一人のために、わざわざ手間暇をかける価値が見出せないのだ。
先生は、そんなかえでの乾いた心を見透かすように、ふと真顔になって、その言葉にそっと続きを添えた。
「特に、自分を見失いそうになっている時ほどね。一杯の温かいスープが、どんなお薬よりも効くことがあるのよ、かえでさん」
その優しい眼差しに、かえではドキリとして俯いた。
まるで心の奥底まで見抜かれているようで、返事ができなかった。
先生は、それ以上何も言わずに、またいつもの太陽の笑顔に戻った。
そんな乾いた日々に、小さな、しかし確かな重みを持った命が転がり込んできたのは、冷たい雨がアスファルトを濡らす金曜日の夜だった。
会社の帰り道、路地裏で聞こえたか細い声。
それは、ずぶ濡れになって震える、ダンボール箱の中の小さな命。キジトラ柄の子猫だった。

その潤んだ瞳とかえでの視線が絡んだ瞬間、見て見ぬふりをするという選択肢は、どこかへ溶けて消えていた。
「つむぎ」。
絹糸のように繊細で、どうか未来を紡いでいけますように。
そう願って名前をつけたものの、新しい生活は前途多難の幕開けだった。
つむぎは、ペットショップで一番高級なカリカリも、とろりとしたウェットフードも、ぷいと顔をそむけて口にしない。
部屋の隅で香箱座りをしたまま、琥珀色の瞳でじっとこちらを警戒している。
日に日に小さくなっていくように見えるその背中を前に、かえでの心は焦りでひりついていた。
獣医は言った。
「このままじゃ衰弱してしまう。何か、この子が興味を持つものを探してあげてください」。
何かって、何? 仕事で何十種類ものご馳走を作ってきたけれど、今、目の前の小さな命を救うレシピが、かえでには分からなかった。
自分の無力さが、ずしりと体にのしかかる。
その夜、かえではほとんど眠れなかった。
先生の言葉が、耳の奥で静かに響いていた。
序章:欠けた月と、最初の一滴
夜が明ける頃、かえではほとんど無意識にキッチンに立っていた。
スマホの画面には「猫 手作りごはん」の文字。
そこに並ぶ情報を、渇いたスポンジのように吸収していく。
鶏肉、魚、野菜…。
注意点を一つ一つ頭に叩き込み、かえでは冷蔵庫を開けた。
そこにあったのは、先生のレシピで使う予定だった、上質な鶏むね肉と、出汁用の立派な鰹節。
ほんの少しだけ。ほんの少しだけなら、いいよね。
誰に言うでもない言い訳を呟き、かえでは小さな土鍋に水を張った。
コト、コト、コト…。
丁寧に、灰汁をすくいながら鰹節で出汁をとる。
ふわりと立ちのぼる、香ばしくて優しい匂い。
それは、かえでのささくれた心を、薄いベールでそっと包むようだった。
次に、鶏むね肉の筋を丁寧に取り除き、細かく、細かく、ミンチにする。
それを先ほどの出汁で、ことこと、柔らかく煮ていく。
味付けは、しない。
素材の味だけで、勝負する。
やがて、キッチンはこれまで経験したことのないような、慈愛に満ちた香りで満たされた。
それは、高級フレンチのソースでも、華やかなスパイスの香りでもない。
ただひたすらに、優しく、温かい匂い。
ふと、足元に柔らかな感触があった。
見ると、いつの間にか部屋の隅から出てきたつむぎが、かえでの足に小さな頭をすり寄せ、クンクンと鼻を鳴らしている。
その琥珀色の瞳が、土鍋をじっと見つめていた。
「…食べる?」

冷ました鶏肉のスープを小さなお皿に入れて差し出すと、つむぎはしばらく匂いを嗅いでいたが、やがて、ぺろり、と小さな舌で一口舐めた。
時が、止まる。
そして、また一口、また一口と、夢中で食べ始めた。
その小さな喉が、こくり、こくりと鳴る音。
それは、かえでの心に染み渡る、どんな音楽よりも美しいシンフォニーだった。
お皿が空になる頃には、かえでの視界はなぜか滲んでいた。
土鍋には、まだ少しだけ鶏肉のスープが残っている。
そのあまりに美味しそうな香りに、かえでは抗えなかった。
残ったスープに、冷やご飯を少し。
塩をひとつまみだけ加えて、自分用のおじやを作る。
ふー、ふー、と冷まして、一口。
「……おいし、い」
声になった言葉は、それだけだった。
けれど、その一言には、千の感情が詰まっていた。
コンビニのおにぎりでは決して得られない、体の芯から、じわりと解けていくような温かさ。
丁寧にとった出汁の滋味が、乾ききった心の一番奥まで、ゆっくりと染み込んでいく。
それは、ただの「食事」ではなかった。
それは、かえでが自分自身のために初めて施した、「手当て」だったのかもしれない。
あの日の先生の言葉が、本当の意味で体に染み渡る気がした。
隣では、お腹がいっぱいになって満足したつむぎが、ふにゃあ、と小さなあくびをしている。
かえでは、自分のおじやの器と、つむぎの空っぽのお皿を並べて、ふふ、と笑った。
欠けていた月が、ほんの少しだけ満ちたような、そんな気がした。
中章:ふくらむレシピと、残酷な光
その日から、キッチンはかえでとつむぎの聖域になった。
「わけっこごはん」と名付けた、ささやかな冒険。
今日は、お刺身用の真鯛を少しだけ拝借して、湯がいて骨を丁寧に取り、身をほぐす。
つむぎ用にはそのまま。
かえで用には、ごまと大葉を混ぜて、熱々のお茶をかけた鯛茶漬けに。
「美味しいね、つむぎ」 つむぎは「にゃあ」と応えるように鳴き、かえでの足元で尻尾を揺らした。
またある日は、カボチャを柔らかく煮て、裏ごしする。
つむぎには、ほんのり甘いカボチャペースト。

かえでは、それに豆乳とコンソメを加えて、温かいポタージュに。
わけっこごはんのレシピが増えるたび、つむぎの体には少しずつ丸みが戻り、毛並みには艶が出始めた。
警戒心の強かった琥珀色の瞳は、今では絶対的な信頼を込めて、かえでを見つめている。
そして、かえで自身にも変化が訪れていた。
朝、キッチンに立つのが楽しみになった。
自分のために、一杯のコーヒーを丁寧に淹れるようになった。
SNSに「#わけっこごはん」のハッシュタグをつけて、つむぎと自分の食卓の写真を投稿するようにもなった。
ささやかな「いいね」の数や、『いつも素敵なわけっこごはん、癒されています』というコメントが、乾いた心にポツリ、ポツリと雨粒のように落ちて、小さな自信という名の水たまりを作る。
そんな矢先だった。
「橘さん、今度うちの出版社が主催する若手向けの料理コンテストがあるの。出てみない?」
先生からの突然の提案に、かえでの心臓は一瞬、期待に跳ねた。
しかし、次の瞬間には氷水で冷やされたようにキュッと縮こまる。
「いえ、そんな、私なんて…! 先生のレシピを再現するしか能がないですし、自分のレシピなんて、とてもとても…」
つい、いつもの癖で卑下する言葉が口から滑り出る。
「そう? 残念だわ」
先生はそれ以上何も言わなかったが、その笑顔が少しだけ寂しそうに見えた。
その夜、かえではSNSの温かいコメントを読み返して、少しだけ浮上した気持ちで、ふと昔の同僚の名前を検索してしまった。
それが、悪夢の引き金だった。
画面に映し出されたのは、眩しいほどの光。
かつて同じアシスタント仲間だった彼女が、有名な料理コンテストでグランプリを受賞し、人気料理雑誌の表紙を笑顔で飾っている姿だった。
スポットライトを浴び、きらびやかなトロフィーを手にしている。
タグには「#祝」「#夢が叶った日」「#天才料理家」といった言葉が躍っていた。
ズキン、と胸の奥が鈍く痛む。
彼女は、昔から才能があった。センスが良くて、いつも周りの中心にいた。
それに比べて、私はずっと裏方。
彼女の作った試作品の片付けをしながら、その才能に嫉妬していた日のことを思い出す。
今も、何も変わらない。先生のレシピの影で、地味な作業を繰り返すだけ。
SNSの「いいね」の数が、急にちっぽけで虚しいものに思えた。
「#わけっこごはん」なんて、ただの自己満足じゃないか。
プロの世界で戦う彼女の料理とは、次元が違う。
コンテストなんて、おこがましいにも程がある。
せっかく膨らみ始めていた風船のような自信が、鋭い針で突かれたように、一瞬で音を立ててしぼんでいった。
(私の作ったものじゃ、この子を元気にすることはできても、誰かの心を動かすことなんてできやしない)
最も暗い瞬間。
それは、キラキラしたコンテストの舞台ではなく、静かな自室の、スマートフォンの残酷な光の中で訪れた。
他者との比較という、誰もが経験する普遍的な痛みと、アシスタントという立場への根深いコンプレックスが、かえでの心を容赦なく蝕んでいく。
手の甲に、ふわりと柔らかな肉球が乗せられた。
つむぎが、心配そうにこちらを見上げている。
その琥珀色の瞳は、まるで「そんなことないよ」と語りかけているようだったが、今の彼女には、その声も届かなかった。
終章:陽だまりのコンソメ
数日後、かえでは意を決して先生の元へ向かった。
コンテストを、正式にお断りするために。
「先生、先日のコンテストの件ですが…」
かえでが口を開きかけた、その時。先生はにっこりと笑って、自分のスマホの画面をかえでに見せた。
そこに映っていたのは、かえでが投稿した「#わけっこごはん」の数々だった。
鯛茶漬けの日も、カボチャポタージュの日も、先生は全部見ていたのだ。
偶然見つけたのではない。
プロローグであの日、かえでの心を見透かした時から、ずっと静かに見守っていてくれたのだ。
「これよ、かえでさん」
先生の指が、つむぎと一緒に写るかえでの、少し照れたような笑顔の写真を指し示した。
「あなたが誰かのために作る料理は、こんなにも温かくて、優しくて、幸せな顔をしてるじゃない。これは、私には逆立ちしたって作れない、あなただけのレシピよ。誰かと比べるものじゃないわ。自信を持ちなさい」
先生の言葉が、魔法のようにかえでの固く凍った心を溶かしていく。
そうか。私のレシピは、もうとっくにここにあったんだ。
一人じゃ作れなかった。
つむぎが、教えてくれたんだ。
そして、先生はずっと、それに気づいてくれていた。
「…出ます」
かえでの口から、自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
「私、コンテストに出ます。私と、この子のためのレシピで」
コンテスト当日。
かえでが選んだレシピは、全ての始まりだった「鶏むね肉のコンソメスープ」。

ただし、それはあの日のおじやから、さらに進化していた。
丁寧に澄ませた黄金色のコンソメスープに、鶏肉の柔らかなムースを浮かべ、彩りとしてほんの少しの野菜を添える。
人間用には、黒胡椒をぱらり。
もちろん、猫が食べても安全な食材だけで作られている。
テーマは「誰かと食べたい、心をつなぐ一皿」。
舞台の上で、かえではマイクを握りしめた。
「このレシピは、私一人で作ったものではありません」
緊張で震えそうになる声を、ぐっとこらえる。
客席の誰かの顔じゃない。
思い浮かべるのは、陽だまりの中で気持ちよさそうに眠る、小さな家族の顔。
そして、信じて見守ってくれた師の顔。
「これは、私の人生を変えてくれた、小さな相棒と一緒に作った『わけっこごはん』です。自分のためには何もできなかった私が、その子のためにキッチンに立つ喜びを知りました。美味しいねって言い合える相手がいる食事が、どれだけ心を満たしてくれるかを、教わりました。だから、このスープは、私にとってただの料理ではなく、希望そのものなんです」
語り終えた時、会場は温かい拍手に包まれていた。
結果は、三位入賞。
優勝ではなかったけれど、かえでの心は、優勝カップよりもずっと価値のあるもので満たされていた。
誰かと比べる必要なんて、もうなかった。
エピローグ
それから、一年。
かえでは、先生のアシスタントを卒業し、自宅マンションの一室で、週末だけの小さな料理教室を開いている。
その名も、「陽だまりのキッチン〜猫と私のわけっこごはん〜」。
生徒はみんな、猫や犬と暮らす人たちだ。
「うちの子、このお魚クッキー、大好物なんです!」
「この野菜スープなら、私よりたくさん食べるんですよ」
キッチンには、いつも幸せそうな笑い声と、美味しい匂いが溢れている。

教室の片隅、日当たりのいい窓辺が、教室の部長であるつむぎの指定席だ。
すっかり丸々と健康になった体で、生徒たちの様子を満足げに眺めている。
レッスンが終わり、一人になったキッチンで、かえでは自分のために紅茶を淹れる。
そして、焼きたてのスコーンを一つ、お皿に乗せた。
「はい、つむぎ。今日も一日、お疲れ様」 スコーンを半分に割って、つむぎ用のお皿にそっと置く。もちろん、猫が食べても大丈夫な、特別なレシピだ。
「わけっこ、しよ」
半分このスコーンを頬張りながら、窓の外を見る。
都会の空は相変わらず忙しないけれど、この小さな部屋には、確かな温もりと、分かち合う喜びが満ちている。
自分の価値は、誰かに与えられるものじゃない。
誰かと比べるものでもない。
大切な誰かと、美味しい時間を分かち合う。
そんなささやかな幸せの中に、ちゃんとある。
「にゃあ」という相棒の声に、かえでは満面の笑みで頷いた。
陽だまりのキッチンでは、これからも温かい物語が、コトコトと煮込まれていく。
作者のあとがき
読者のあなたへ
この物語を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
誰かのためなら頑張れるのに、自分のことはつい疎かになってしまう。
そんな優しいあなたに、この物語が「自分を大切にするための一杯」として届けばと願って書きました。
あなたの隣にいる小さな家族も、きっとあなたが美味しいごはんを食べる顔を、一番見たがっているはずですから。