谷中ぎんざ、あやかし荘の猫シッター〜私の相棒は、霊感白猫!?〜

まえがき

読者のあなたへ

この物語の最初のページを開いてくださり、ありがとうございます。

「普通」って、一体なんでしょう。

周りの人と同じように、波風を立てず、目立たず、静かに生きていくこと。

私たちは皆、多かれ少なかれ、そんな「普通」の輪郭からはみ出してしまうことを、どこかで恐れているのかもしれません。

この物語の主人公は、ほんの少しだけ、人とは違うものが見えてしまう、心優しい女性です。

彼女は、その力をずっと「見て見ぬふり」をして生きてきました。

でも、一匹の賢い白猫が、彼女に教えてくれます。

はみ出してしまったその部分は、欠点なんかじゃない。

あなただけの、誰にも真似できない、愛すべき個性なのだと。

日常と不思議が夕焼けのように混じり合う街・谷中で繰り広げられる、ちょっと奇妙で、最高にハートフルな物語。

この本を閉じる頃、あなたが、あなた自身の「はみ出した部分」を、ほんの少しだけ、愛おしく思えるようになっていたなら、作者として、これ以上の喜びはありません。


私の猫、見えない誰かと遊んでます

 

私の名前は、小野田あかり、三十三歳。

派遣社員。

東京の下町、谷中にある、昭和の香りがする古い木造アパート「月影荘」で、つつましく、そして、できるだけ「普通」に暮らしている。

そう、「できるだけ」。 なぜなら、私には、生まれつき、ちょっとだけ不便な体質があったから。

人には見えないはずのものが、時々、うっすらと見えてしまうのだ。

電信柱の陰でこちらを窺う、一つ目の小僧。

神社の狛犬の横で昼寝をしている、半透明のタヌキ。

幼い頃は、それらを口にしては気味悪がられた。

だから、いつしか私は、その力を固く固く封印した。

見えても、見えないふり。

聞こえても、聞こえないふり。

それが、波風を立てずに生きていくための、私の処世術だった。

そんな私の唯一の家族が、白猫の「フク」。

三年前の冬、お腹を空かせて鳴いているところを保護した、真っ白な毛並みと、澄んだ青い瞳を持つ美しい猫だ。

フクは、私の平穏な「見て見ぬふり」生活を、静かに肯定してくれる、最高の同居人だった。

……そのはずだった。

最近までは。

ここ数ヶ月、フクの不可解な行動が、私の平穏をじわじわと脅かしていたのだ。

例えば、それは、ある日の夕食どき。カリカリの餌を器に入れると、フクは、なぜか半分だけ食べると、残りの半分を、何もない空間に向かって、前足で「どうぞ」と押しやるのだ。

まるで、見えない誰かに、ご飯を譲っているかのように。

またある時は、一人で遊んでいたかと思うと、お気に入りのネズミのおもちゃを、ふわりと宙に放り投げる。

すると、そのおもちゃは、まるで誰かが見えない手でキャッチしたかのように、不自然な軌道を描いて、部屋の隅へと転がっていく。

そして、フクは、その何もない空間に向かって、満足そうに「にゃーん」と鳴くのだ。

「フクちゃん…誰か、いるの…?」

聞いても、フクは答えない。

ただ、私の足元にすり寄ってきて、ゴロゴロと喉を鳴らすだけ。

そのゴロゴロは、なぜか「心配しなくても大丈夫だよ」と言っているように聞こえた。

いや、大丈夫じゃない。

この部屋には、確実に、私以外の「誰か」がいる。

私の封印は、愛猫のせいで、今にも破られようとしていた。

 

ようこそ、あやかし専門ペットシッターへ

 

決定的な事件は、ある土曜日の午後に起きた。

私がうたた寝から目を覚ますと、部屋の真ん中で、フクが、何もない空間に向かって、真剣な顔で「猫パンチ」を繰り出していた。

しかも、そのパンチは、空を切るのではなく、まるで透明なボールを打ち返すように、ポン、ポン、と小気味よい音を立てている。

そして、ついに、私は見てしまった。

フクの猫パンチに合わせて、楽しそうに揺れる、二本の、半透明の猫の尻尾を。

「……猫又さん、こんにちは」

観念してそう呟くと、空間がぼんやりと歪み、フクと同じくらいの大きさの、虎柄の猫又が、照れくさそうに姿を現した。

『へへへ、バレちまったか。この坊主、なかなか手加減を知らなくてよ』

猫又は、江戸っ子のような口調で言った。

それを皮切りに、私の部屋の「見えない同居人」たちが、次々と姿を現した。

いつもフクにご飯を譲ってもらっていたのは、おかっぱ頭の、お人好しそうな座敷童子。

『いつも、すいません。お腹が空いちゃって…』

フクとおもちゃのキャッチボールをしていたのは、悪戯好きの、小さな唐傘おばけだった。

彼らは、この古いアパートができた時からの住人で、決して悪さをするわけではない、ただの「居候」あやかしだったのだ。

そして、彼らの世話を焼いていたのが、何を隠そう、我が家のフクだった。

『フクの旦那には、いつも世話になってるんだ』

猫又が、フクの頭を恭しく撫でる。

フクは、私が「見て見ぬふり」をしていた、この部屋のもう一つの現実を、ずっと一人で受け止め、そして、困っているあやかしたちの面倒を見ていたのだ。

その事実に、私は胸を突かれた。

怖がりで、自分のことで精一杯だった私。

それに比べて、なんて懐が深くて、優しい猫なのだろう。

「ごめんね、フク。私、気づかなくて…」

私がフクを抱きしめると、猫又が、申し訳なさそうに言った。

『なあ、お嬢さん。実は、俺たちの「ペットシッター」になってくだせえ!』

こうして、私は、愛猫フクに押し切られる形で、図らずも、「あやかし専門ペットシッター」として、デビューすることになってしまった。

最初の仕事は、座敷童子の「ニンテンドースイッチがしたい」という、あまりに現代的な悩みを解決すること。

中古のゲーム機を買い与えると、私の部屋では、毎夜、派遣OLと座敷童子による熾烈なゲーム大会が繰り広げられた。

それは、意外なことに、めちゃくちゃ楽しかった。

見て見ぬふりをしてきた世界は、本当は、こんなにも温かくて、賑やかで、そして、最高に居心地の良い場所だったのかもしれない。

私の心は、三十三年目にして、ようやく、ゆっくりと解け始めていた。

しかし、そんな穏やかな時間は、ある日、一枚の無慈悲な紙によって、唐突に終わりを告げられる。

アパートの集合ポストに投函されていた、「建物解体のお知らせ」。老朽化を理由に、大家さんが土地の売却を決め、三ヶ月後には、この「月影荘」は取り壊されることが決定したのだ。

 

聖域の消滅と、覚醒する力

 

その夜、私の部屋は、今まで経験したことのない、重い沈黙に包まれていた。

座敷童子は、ゲーム機を抱きしめたまま、しくしくと泣いている。

唐傘おばけは、傘をしょんぼりと閉じ、壁の隅で動かない。

『…まあ、これも時代の流れってやつでぃ』

猫又は、そう言って強がったが、その二本の尻尾は、力なく床に垂れていた。

このアパートは、彼らにとって、ただの住処ではない。

人々の記憶から忘れ去られ、信仰を失った彼らが、その存在をかろうじて維持できる、最後の「聖域(サンクチュアリ)」なのだ。

ここがなくなれば、彼らは行き場を失い、霧のように、静かに消滅してしまうかもしれない。

ようやく見つけた、温かい居場所。

ようやくできた、大切な友人たち。

そのすべてを、同時に失う。

その絶望的な事実に、私は、何もできなかった。

大家さんに抗議する権利も、デベロッパーと戦う金もない。

私の無力さが、ハンマーのように、解けかけた心を、再び粉々に打ち砕いた。

「…ごめん。私には、何もできない」

そう呟くのが、精一杯だった。

私は、また、見て見ぬふりをすることしかできないのだ。

その時だった。

私の膝に、フクが、ぽすん、と軽い衝撃と共に飛び乗ってきた。

そして、その青い瞳で、私の目を、じっと、射抜くように見つめた。

その瞳は、こう言っていた。

「諦めるな」と。

フクは私の膝から飛び降りると、部屋の隅にある、古い畳の一点を、前足でカリカリと引っ掻き始めた。

「ここ…?」

畳をめくってみると、床板が、一枚だけ、不自然に浮き上がっている。

まさか、と思い、床板を剥がしてみると――

その下に、小さな桐の箱が、ひっそりと隠されていた。

箱の中には、美しい、桜の螺鈿細工が施された、一本のかんざしが、静かに眠っていた。

猫又が、ずっと探していた、思い出のかんざしだった。

でも、フクの伝えたいことは、それだけではなかった。

彼は、今度は、屋根裏へと続く、天井の点検口を見上げ、「にゃあ!」と強く鳴いた。

私は、フクに導かれるように、生まれて初めて、自分の「見る力」を、最大限に集中させた。

屋根裏の、その暗闇の向こうに、私には見えた。

梁に使われている、一本の、巨大な木材。

それは、ただの木ではない。

今ではもう手に入らない、樹齢数百年の、見事な屋久杉だ。

そして、その梁の隅には、小さな焼印が押されている。

それは、かつて江戸城の建築にも携わったという、伝説の宮大工の一門の印だった。

このアパートは、ただ古いだけじゃない。

歴史的な価値を持つ、文化の宝物だったのだ。

 

谷中ぎんざの、新しい看板

 

それからの私は、何かに取り憑かれたように、動いた。

座敷童子からは、このアパートが建てられた当時の、賑やかな人々の暮らしの記憶を聞き取った。

猫又からは、彼のご主人だった花魁が、この部屋の窓から眺めた、昔の谷中の風景を教えてもらった。

私は、派遣の仕事で培ったPCスキルと、あやかしたちから聞いた物語を総動員し、この「月影荘」の文化的価値を証明するための、ウェブサイトを一晩で作り上げた。

そして、運命の、大家さんとデベロッパーとの、最終交渉の日。

私は、ボロボロのアパートの一室に、ノートパソコン一台で乗り込んだ。

最初は、私の話を鼻で笑っていたスーツ姿の男たち。

しかし、私が作り上げたウェブサイトを見せ、この建物の歴史的価値と、そこに眠る物語を語り始めると、彼らの目の色が変わっていった。

「この建物には、数字や効率だけでは測れない、価値があります。人々が笑い、泣き、そして生きてきた、かけがえのない物語が、この柱の一本一本に、染み込んでいるんです」

それは、今まで、見て見ぬふりをしてきた私が、初めて、自分の力を、誰かのために解放した瞬間だった。

私の言葉は、彼らの心を動かした。

交渉は、成功した。

「月影荘」は、取り壊しを免れ、谷中の歴史を伝える、小さな文化施設として、保存されることになったのだ。

数ヶ月後。

リノベーションされた「月影荘」の一階に、新しい、小さな店がオープンした。

店の名前は、『あかりとフク』。

表向きは、普通のペットシッター事務所兼、猫雑貨の店。

でも、その店の、本当の姿は――。

『いらっしゃいませ! あやかし専門ペットシッター、『あかりとフク』へようこそ!』

店のカウンターには、少しだけ自信がついた顔で微笑む私と、その隣で、世界で一番えらそうな顔をして香箱座りをする、白猫のフク。

そして、店の奥の休憩スペースでは、座敷童子が、常連の河童と、最新のゲームで熱いバトルを繰り広げている。

見て見ぬふりをして生きてきた、三十三年。

でも、これからは、この力と、最高の相棒と一緒に、この街の、人間と、あやかしたちの、両方の「困った」を、解決していこう。

私の新しい人生は、どうやら、想像していたよりもずっと、賑やかで、愛おしいものになりそうだ。


 

あとがき

 

読者のあなたへ

この物語の最後のページを、ゆっくりと閉じてくださり、ありがとうございます。

少し不思議で、賑やかな谷中ぎんざの日常、楽しんでいただけたでしょうか。

私たちは皆、自分の中に、人とは少し違う、輪郭からはみ出してしまった部分を、持っているのかもしれません。

そして、それを隠したり、「見て見ぬふり」をしたりしながら、毎日をやり過ごしている。

物語の中で、主人公のあかりは、愛猫のフクに導かれ、その力を、誰かを笑顔にするための「才能」として受け入れていきました。

あの、ゲームに熱中する座敷童子と、あかりが笑い合うシーンには、「普通じゃなくても、楽しいは作れる」という、この物語のささやかなメッセージを込めました。

この物語が、あなたが、あなた自身の「はみ出した部分」を、ほんの少しだけ、いつもより愛おしく思う、小さなきっかけになれたなら。

作者として、これ以上の喜びはありません。

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