まえがき
読者のあなたへ
この物語の最初のページを開いてくださり、ありがとうございます。
平日は、社会という名の鎧を身につけて、私たちは戦っています。
強くなければ、優しくなければ、ちゃんとしていなければ。
そんな見えないルールの中で、少しずつ心がすり減っていく。
あなたには、そんな鎧をそっと脱ぎ捨てて、ただの自分に戻れる場所がありますか?
「おかえり」と「おつかれさま」を、心から言い合える、大切な友人はいますか?
この物語は、そんな、都会の片隅で戦う二人の女性と、二匹の猫が、週末だけ開かれる「聖域(サンクチュアリ)」で紡ぐ、友情の記録です。
当たり前のように隣にある温もりほど、失いそうになって初めて、その重さに気づくものかもしれません。
この物語が、あなたの心の中にある、大切な誰かとの「週末」を、より一層愛おしく思う、小さなきっかけになれたなら、作者として、これ以上の喜びはありません。
平日と週末、二つの顔と二匹の猫
平日の高村真紀(マキ)は、戦士だ。
ハイヒールという名のブーツでアスファルトを蹴り、外資系営業職という戦場で、数字という名の弾丸が飛び交う中を駆け抜ける。
今週も、海外本社からの無謀な売上目標を「Yes, of course」と笑顔で請け負い、手柄を横取りしようとする男性上司には、誰も気づかないような皮肉をデータに忍ばせて牽制する。
彼女の心は、アイロンの効いた硬質なスーツと、決して崩れない完璧なメイクアップで、武装されていた。
平日の小野寺雪(ユキ)は、聖母だ。
保育士という聖域で、五十人近い園児たちの、予測不能な感情の嵐を、その柔らかな笑顔で受け止める。
お迎えに遅れても悪びれない親には深々と頭を下げ、アレルギー対応で他の子と違うおやつを食べる子の寂しさに寄り添い、泣き声は共感のハグで、すべてを飲み込んでいく。
彼女の心は、洗いざらしのコットンのエプロンと、子供たちの体温で、いつも温かく、そして少しだけ湿っていた。

そんな、正反対の世界で戦うアラフォーの二人が、金曜日の夜、それぞれの戦場で脱ぎ捨てられなかった最後の疲労を抱えて向かう場所があった。
都心から電車で一時間半。海沿いの、古びた名前の駅に降り立ち、潮の香りがする坂道を上った先にある、一軒の古民家。
それが、二人の「週末リセットハウス」だった。
「ただいまー」
「おかえりー」
「今週も、よく戦った」
「ユキこそ、おつかれさま」
がらりと引き戸を開けると、そこには、都会の喧騒とは無縁の、ゆったりとした時間が流れている。
きしむ床、少し甘い畳の匂い、そして、それぞれの飼い主の帰りを待っていた、二匹の猫。
マキの飼い猫は、ロシアンブルーのソラ。
銀色の滑らかな毛並みと、翡翠のような瞳を持つ、クールで孤高な王子様。
決して自分から媚びることはなく、撫でられるのも、彼の気分が乗った時だけ。
マキが持ち帰った仕事の資料の上で、わざと香箱座りをするのが趣味だ。
ユキの飼い猫は、アメリカンショートヘアのウミ。
クリーム色の柔らかな毛並みと、好奇心旺盛な丸い瞳を持つ、天真爛漫な甘えん坊。
ユキがソファに座るや否や、膝の上に飛び乗り、ゴロゴロと喉を鳴らして離れない。
この二匹の猫の関係は、まさに、マキとユキの関係の鏡写しのようだった。
ソラとウミは、決して仲が悪いわけではない。
けれど、決してベタベタと仲が良いわけでもない。
同じ空間にいながら、互いのテリトリーには踏み込まず、絶妙な距離感を保っている。
ウミがちょっかいを出すと、ソラは「やれやれ」という顔で高い場所へ避難する。
ソラが水を飲んでいると、ウミは少し離れた場所で、終わるのをじっと待っている。
それは、互いの違いを認め、深入りせず、でも、確かにそこにいるという安心感で結ばれた、マキとユキの友情そのものだった。
週末の二日間、四つの魂は、この古民家で、それぞれのやり方で羽を休め、すり減った心を再生させる。
そのはずだった。あの、金曜日までは。
穏やかな週末と、見えない亀裂
その週末も、いつもと同じように始まるはずだった。

土曜日の朝。
二人は、海辺の公園をゆっくりと散歩した。
ここは、いつ来ても時間が穏やかで、遠くでカモメが鳴く声と、打ち寄せる波の音だけが聞こえる。
「あ、見てマキちゃん。あのブックカフェ、まだあるね」 ユキが指差したのは、坂の上に見える、蔦の絡まった小さなカフェだ。
《月光蟲》という、少し変わった名前の店。
「前に一度入ったきりだけど、あそこのコーヒー、美味しかったよね。また今度、行ってみようか」 マキがそう応える。
そんな、何気ない会話が、今はただ心地よかった。
家に戻ると、早速、猫たちの小さな縄張り争いが始まった。
一番日当たりの良い出窓のクッションを、どちらが使うか。ウミが先に乗っかると、ソラは不満げに、しかし直接文句は言わず、キャットタワーの最上段から、無言の圧力をかける。
結局、根負けしたウミがクッションを譲り、代わりにユキの膝の上を占領する。
「はいはい、ウミはママがいればいいもんねー」
「ソラは、本当にワガママな王子様なんだから」
二人は、そんな猫たちのやり取りを見て、笑い合った。
昼下がり、ユキは庭で小さな家庭菜園の世話をし、マキは縁側で、溜まっていたビジネス書を読んで過ごす。
「ユキ、すごいじゃん。トマト、赤くなってきた」
「でしょー? 来週あたり、食べられるかも。マキちゃん、好きでしょ、トマト」
「うん、大好き。ユキの作るカプレーゼ、楽しみにしてる」
夕食は、二人でキッチンに立ち、腕を振るった。
マキが作る、手際のいいアクアパッツァ。
ユキが作る、野菜たっぷりの優しい味のポタージュ。
それぞれの得意料理が並ぶ食卓は、週末だけの贅沢だ。
「…それでね、今週、保護者面談があったんだけど、あるお母さんが『うちの子、もっと厳しく叱ってください』なんて言うのよ。どう思う?」
「うわ、出た、モンペ予備軍。ユキは優しすぎるから、なめられてるんじゃないの? たまには『ご家庭の方針はいかがですか』くらい、言い返せばいいのに」
「そんなこと言えないよ! 私は、子供の自主性を大事にしてるだけで…」
「はいはい。でも、たまにはガツンと言わないと、ユキが疲れちゃうだけでしょ。あんたのクライアントは、泣けば許してもらえると思ってんだから」
マキの言葉には、棘はない。
ユキのためを思っての、ストレートな物言いだ。
ユキも、それは分かっている。
でも、心のどこかが、チクリと痛んだ。
私のやり方を、否定されたような気がして。
「…マキちゃんこそ、また上司とやりあったんでしょ。もう少し、うまくやれないの? マキちゃんのクライアントは、数字が全てなんでしょ? だったら、もっと要領よく立ち回ればいいのに」
今度は、ユキの、ささやかな反撃。
「はぁ? うまくやってるから、トップの成績なんでしょ。あんな理不尽、黙って聞いてられるかっての」
マキは、少しだけ、不機嫌そうにワイングラスを傾けた。
それは、本当に些細な、小さな亀裂。
いつもなら、笑って流せる、いつもの会話。
でも、その週、二人は、それぞれの戦場で、いつもより、少しだけ多く、傷ついていた。
そのことに、まだ、お互い気づいていなかった。
嵐の夜と、消えた猫たち
その夜、事件は起きた。
きっかけは、マキがリビングに持ち込んだ、仕事の電話だった。
海外のクライアントとの、緊急の打ち合わせ。
マキは、流暢な英語で、厳しい交渉を繰り広げていた。
電話を終え、ぐったりとソファに倒れ込んだマキに、ユキが、静かに、しかし、少しだけ咎めるような声で言った。
「…週末くらい、仕事、忘れられないの?」
その一言が、マキの張り詰めていた琴線に、触れてしまった。
「は? なに、その言い方。私が好きでやってると思ってんの? あんたみたいに、毎日子供と歌って踊って、お昼寝してるような仕事と、一緒にしないでよ!」
言ってはいけない言葉だった。
頭では分かっていた。でも、一週間の疲れとストレスが、毒となって、口から溢れ出てしまった。
ユキの顔から、すっと表情が消えた。
「…ひどい。マキちゃんなんて、大嫌い」
彼女も、震える声で、そう言い返した。
「保育士の仕事が、どれだけ大変か、知らないくせに。人の気持ちも考えないで、数字ばっかり追いかけてる、冷たい人!」
売り言葉に、買い言葉。
もう、誰も、二人を止められない。
お互いを、最も深く傷つける言葉を、投げつけ合った。
長年の友情が、まるで薄いガラスのように、音を立てて砕けていく。
激しい口論の後、リビングには、重苦しい沈黙だけが残った。

マキは自室に閉じこもり、ユキは、膝を抱えて、ソファの上で泣いていた。
どれくらい、そうしていただろう。 ふと、ユキは、ある違和感に気づいた。
いつもなら、こんな時、必ず足元に寄り添ってくるはずの、ウミの姿が見えない。
「…ウミ?」
まさか、と思って、家の中を探す。
いない。
マキの部屋のドアを、おそるおそるノックする。
「…マキちゃん、ソラ、いる?」
ドアの向こうから、くぐもった声が返ってきた。
「…いない。さっきから、見てないけど」
二人の胸に、同じ、冷たい予感が突き刺さる。
まさか。
嵐のような口論の最中、玄関の引き戸が、少しだけ開いていたのを、二人は思い出していた。
「ソラ!」「ウミ!」
二人は、パジャマのまま、家の外へ飛び出した。
夜の闇が、ひやりと肌を撫でる。
さっきまでの喧騒が嘘のように、海辺の街は、しんと静まり返っていた。
名前を呼んでも、返事はない。
近所を探し回り、いつも散歩する海辺の公園へ向かう。
街灯が、頼りなく二人の足元を照らすだけだ。
「私のせいだ…」
マキが、絞り出すように言った。
「私が、ひどいこと言ったから。あの子たち、きっと、怖くなって、逃げちゃったんだ…」
「ううん、私のせい。私が、マキちゃんの気持ち、考えないで…」
ユキも、涙声で答える。
暗闇の中で、二人は、初めて、お互いの弱さを見せ合っていた。
強がりのマキも、我慢強いユキも、そこにはいなかった。
ただ、大切なものを失うかもしれないという恐怖に、震えている、
二人の臆病な女の子がいるだけだった。
当たり前のように隣にいると思っていた、温かい存在。
それは、猫たちのことでもあり、そして、今、隣を歩いている、この親友のことでもあった。
「…ごめん、ユキ。本当に、ごめん」
「私も、ごめんね、マキちゃん…」
暗い公園のベンチで、二人は、子供のように、声を上げて泣いた。
夜の果てに見つけた、本当の宝物
どれくらい、探し回っただろうか。
夜は、その深い藍色を、少しずつ、白ませ始めていた。
心も体も、疲れ果てた二人が、半ば諦めかけたように、家の近くの路地裏を通りかかった、その時だった。
どこか懐かしい、カビと土の匂いがする、その暗がりから、か細い、聞き慣れた鳴き声が聞こえた気がした。
「…いまの…」
声のする方へ、二人は駆け寄る。
それは、空き地の隅に置かれた、古いブリキの物置小屋の中からだった。
錆びた扉を、そっと開ける。 暗闇の中に、二つの、宝石のような瞳が、光っていた。
ソラと、ウミだった。
二匹は、狭い物置の隅で、ぴったりと、体を寄せ合っていた。

いつもは、あれほど微妙な距離を保っていた二匹が、不安な夜の闇の中で、互いの体温だけを頼りに、寄り添い合っていたのだ。
クールなソラが、甘えん坊のウミを、守るように、そっと抱き込んでいる。
ウミは、ソラの胸に顔をうずめて、安心したように、喉を鳴らしていた。
その光景を見た瞬間、マキとユキは、言葉を失った。
そして、二人の姿を認めた、その時。
いつもはクールなソラが、安堵したように「にゃっ」と、短く、か細く鳴いた。
そして、甘えん坊のウミは、一目散に、ユキの腕の中へと飛び込んできた。
猫たちは、知っていたのだ。
テリトリーや、プライドよりも、ずっと大切なものを。
いざという時、最後に信じられるのは、隣にいる、仲間の温もりだけだということを。
「…よかった」
涙でぐちゃぐちゃの顔で、二人は、どちらからともなく、笑い合った。
そして、そっと、自分たちの猫を、抱きしめた。
「おかえり、ソラ」「おかえリ、ウミ」
四つの魂は、夜明け前の、一番静かな光の中を、ゆっくりと、自分たちの聖域へと帰っていった。
その日以来、二人の関係は、少しだけ、変わった。
相変わらず、マキはストレートで、ユキは少しだけ回りくどい。でも、相手の言葉の裏にある、疲れや、寂しさを、ほんの少しだけ、想像できるようになった。
そして、猫たちの関係も、少しだけ、変わった。
相変わらず、ソラはクールで、ウミは甘えん坊だ。
でも、時々、二匹が、同じ出窓のクッションの上で、少しだけ距離を空けながら、でも、確かに同じ方向を向いて、外を眺めている姿が見られるようになった。
ある週末の午後。縁側で、マキとユキは、並んで座っていた。
マキの膝の上にはソラが、ユキの膝の上にはウミが、それぞれ丸まっている。
「ねえ、ユキ」
「なあに、マキちゃん」
「私たちって、あの子たちに、似てるね」
「うん、本当にね」
マキは、膝の上のソラを優しく撫でながら、空を見上げて呟いた。
「でも、大丈夫。私たちには、この場所があるからね」
二人は、顔を見合わせて、柔らかく笑った。
平日は、それぞれの戦場で、それぞれの鎧を着て戦う。
でも、金曜日の夜になれば、帰る場所がある。
「おかえり」と「おつかれさま」を、心から言い合える、大切な友がいる。
それだけで、また、新しい一週間を、戦っていける。
二人の、そして二匹の、週末リセットハウスの物語は、これからも、続いていく。

あとがき
読者のあなたへ
この物語の最後のページを、ゆっくりと閉じてくださり、ありがとうございます。
二人の女性と、二匹の猫が紡ぐ、友情の物語。楽しんでいただけたでしょうか。
大人になるにつれて、私たちは、素直に「寂しい」とか「疲れた」とか、言えなくなっていきます。
強がって、平気なふりをして、一人で戦おうとしてしまう。
でも、本当は、誰だって、心を許せる聖域(サンクチュアリ)と、その温もりを分かち合える、かけがえのない友人を求めているのかもしれません。
物語の中で、ソラとウミは、不安な夜に、互いのプライドを捨てて寄り添いました。
あのシーンには、「どんなに違う者同士でも、最後に信じられるのは、隣にある温もりだけ」という、この物語のささやかな祈りを込めました。
この物語が、あなたが、あなたのたいせつな友人のことを、ほんの少しだけ、いつもより愛おしく思う、小さなきっかけになれたなら。
そして、次の週末に「会いたいな」と、連絡を取ってみる勇気になれたなら、作者として、これ以上の喜びはありません。
