母が残した猫マニュアル〜ご長寿猫ミーコと私の、ぎこちない一週間〜

まえがき

読者のあなたへ

この物語の最初のページを開いてくださり、ありがとうございます。

あなたの実家には、どんな「ルール」がありましたか?

「九時までには帰りなさい」という門限や、「テレビは一日一時間まで」といった、誰もが経験するようなルール。

それから、言葉にはされないけれど、家族の間だけで通じる、ささやかなお約束。

大人になるにつれて、少し窮屈に感じられたり、お節介だと思ってしまったりした、あの無数のルールたち。

でも、もしその一つひとつが、不器用な愛情でできた、小さなリボンだったとしたら。

この物語は、そんな、家族の間の「言葉にならないルール」に隠された想いを、一匹の賢いご長寿猫が、そっと紐解いていく、ある一週間の記録です。

物語を読み終えた時、あなたが、あなたのたいせつな家族との関係を、ほんの少しだけ、温かい気持ちで振り返るきっかけになれたなら、作者として、これ以上の喜びはありません。


母の入院と、解読不能な『ミーコさん』マニュアル

 

高橋千夏、三十五歳。

結婚して三年。

優しい夫と、猫が一匹飼えるくらいの、日当たりの良いマンションで、平穏な毎日を送っている。

ただ一つ、心の隅に、小さなささくれのように引っかかっているものがあるとすれば、それは実家の母との関係だった。

母は、典型的な「お節介」な人だった。

電話をすれば「ちゃんと食べてるの?」から始まり、季節の変わり目には「風邪ひかないように」という言葉と共に、段ボールいっぱいの野菜や、趣味の悪い柄のセーターが送りつけられてくる。

そのすべてが愛情から来ていることは、頭では分かっている。

でも、三十五歳にもなって子供扱いされることへの苛立ちと、そんな母を素直に受け入れられない自分への罪悪感とが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、ここ数年、私は意識的に実家から距離を置いていた。

そんなある夏の日、父から一本の電話がかかってきた。

『千夏か? 実は、お母さんが、ぎっくり腰でな。一週間ほど入院することになったんだ』 驚きと心配が、同時に胸を突く。

『それで、頼みがあるんだが…』 父が言いたいことは、聞くまでもなかった。

実家には、もう一人の家族がいる。

私が物心ついた時から、常に家のどこかにいて、気ままに我が家を支配してきた、女王様が。

『ミーコのこと、頼めないか?』

ミーコ。

推定年齢、二十歳。

酸いも甘いも噛み分けた、三毛柄のご長寿猫。

彼女は、もはやただの猫ではない。

高橋家の歴史を見守り続けてきた、生き字引であり、威厳に満ちたヌシのような存在だ。

父は仕事で数日家を空けるという。

夫に相談すると、「お義母さん、心配だね。ミーコちゃんのためにも、行っておいでよ」と、快く背中を押してくれた。

こうして私は、少しの気まずさと、ほんの少しの懐かしさを胸に、数ヶ月ぶりに実家の玄関をくぐることになった。

「ただいまー…」

誰もいない家は、しんと静まり返っていた。

でも、そこには、古い柱と、母が愛用する金木犀の石鹸と、陽だまりの匂いが混じり合った、紛れもない「実家の匂い」が満ちていた。

リビングのテーブルの上に、一冊の大学ノートが置かれている。

母の、丁寧で丸っこい文字で、こう書かれていた。

『ミーコさん お世話マニュアル』

さん付け…! 私は思わず吹き出してしまった。

相変わらず、ミーコへの敬意がすごい。

しかし、その中身を見て、私は笑顔を凍りつかせることになる。

【ルール一:朝食について】 午前七時半厳守。ウェットフード(お魚グルメ・シニア用)と、ドライフード(腎臓ケア・小粒タイプ)を、必ず黄金比7:3で混ぜ合わせること。その際、ぬるま湯を「森永のおいしい牛乳」のペットボトルキャップに半分だけ加え、全体を優しく馴染ませること。

……以下、二十三項目にわたる、細かすぎる箇条書き。

私はノートをぱたりと閉じた。

深いため息が漏れる。

「相変わらず、過保護で、お節介なんだから…」 その時、足元に、ふわりとした感触。

見下ろすと、女王ミーコが、大きなアクビをしながら、私の足にのっそりと体を擦り付けていた。

「新入りのメイドか。まずは、その腕前、見せてもらおうかニャ」とでも言うような、尊大な眼差しで。

こうして、私とご長寿猫との、マニュアルに縛られた奇妙な一週間が、幕を開けた。

 

ルールに隠された、母の愛情の形跡

 

最初の二日間は、私にとって苦行そのものだった。

「ウェット7に、カリカリ3…って、こんなの、計量カップでもなきゃ無理でしょ!」

「お腹のブラッシングは嫌がるじゃない! ほら、威嚇された!」

私は、いちいちマニュアルの細かさに文句をつけ、自分流でやろうとしては、ミーコにそっぽを向かれる、というループを繰り返していた。

彼女は、母の定めたルールから少しでも外れた食事には一切口をつけず、ブラッシングの順番を間違えれば、さっとどこかへ消えてしまうのだ。

三日目の朝。

苛立ちがピークに達した私は、父に電話をかけた。

「お父さん! お母さんのマニュアル、細かすぎて無理! アイドルのステージ衣装の取り扱い説明書じゃないんだから!」 電話の向こうで、父は朗らかに笑った。

『ははは、お母さんは昔からそうだよ。お前が小さい頃のキャラ弁だって、海苔の切り方から、ウインナーの足の角度まで、全部ノートにびっしり書いてたんだぞ』

「え…そうなの?」

『そうさ。お前もミーコも、お母さんにとっては、ちょっとでも手順を間違えたら壊れちゃう、ガラス細工みたいなもんなんだよ。不器用だからな、お母さんは』

父の言葉に、私は少しだけ、胸のつかえが下りるのを感じた。

その日から、私はマニュアルへの態度を改めた。

これは、母の不器用な愛情を解読するための、翻訳機なのだと。

【ルール四:午後三時には、おやつの時間】 「煮干しは頭と内臓を取り除き、二匹まで与えること」。棚の奥から出てきたのは、母がわざわざ買っている「猫用プレミアム減塩煮干し」だった。ただの煮干しじゃないのか…。私は、自分が少し恥ずかしくなった。

【ルール五:夜、私たちが寝た後は、リビングのソファの、母の席で寝ることを許可する】 その夜、リビングを覗くと、ミーコは当たり前のように、母の定位置だったソファのその場所で、くるりと丸まっていた。そこだけ、クッションが少しだけへこんでいて、ミーコの白い毛がたくさんついている。母が、毎晩ここでテレビを見ながら、ミーコを撫でていた光景が目に浮かぶようだった。

マニュアルのルールを一つひとつ、パズルを解くようにこなしていくうちに、私の心境は、苛立ちから、次第に感心へと変わっていった。

これらは、ただのルールじゃない。

母が、二十年という長い年月をかけて、言葉を話さないミーコと対話し、築き上げてきた、信頼と愛情の儀式(ルーティン)なのだ。

出窓の特等席も、減塩の煮干しも、ソファの上の定位置も。

すべてが、ミーコが一番快適で、一番安心できるための、母なりの、不器用で、最大限の愛情表現。

そのことに気づいた時、私は、ふと、自分自身の子供時代を思い出していた。

偏食がひどかった私のキャラ弁。

お気に入りのワンピースの、可愛い刺繍。

風邪をひいた夜の、ぬるめの麦茶。

母の愛情は、いつだって、少しだけ過保護で、少しだけお節介で、そして、最高に丁寧だった。

私は、いつから、そんな当たり前のことを、忘れてしまっていたのだろう。

 

マニュアルにない、たった一つのルール

 

一週間の折り返し地点。

入院中の母から、毎日決まった時間に電話がかかってくる。

『ミーコ、ご飯食べた?』

『ブラッシングはちゃんとした? 毛並みに逆らってないでしょうね?』

その声は、以前なら監視のように聞こえたが、今の私には、ただただミーコを心配する、切実な声に聞こえた。

「大丈夫だよ、お母さん。マニュアル通り、完璧にやってるから」

そんな会話をした日の午後だった。

ミーコの姿が、どこにも見えなくなったのだ。

「ミーコ? ミーちゃん!」 名前を呼んでも、返事はない。家中の部屋を探し回るが、見つからない。

私の心臓は、嫌な音を立てて早鐘を打ち始めた。

そうだ、昔も、こんなことがあった。

まだミーコが若かった頃、ほんの少しの窓の隙間から家出してしまい、家族総出で、泣きながら夜通し探したことがある。

あの時の、心臓が凍りつくような感覚が、鮮明に蘇ってきた。

「どこ行ったのよ、ミーコ…!」

半泣きで家中を探し回り、最後に思い当たったのは、二階の、今は物置になっている部屋の押入れだった。

恐る恐る襖を開けると、その奥、古いアルバムがぎっしり詰まった段ボール箱の中で、ミーコは、小さな球のように、くるりと丸まっていた。

「……こんなところにいたの」

安堵のため息をつきながら、私はアルバムを一冊、手に取った。

セピア色の写真の中には、日に焼けた父と、今よりずっと若くて、幸せそうに笑う母、そして、母の腕に抱かれた、小さな赤ん坊の私。

その私の足元で、まだ子猫だったミーコが、おもちゃを追いかけている。

この猫は、私の成長のすべてを、この家で、ずっと見ていてくれたんだ。

そして、母が、私を慈しむのと同じだけの愛情を、この猫にも注ぎ続けてきたんだ。

その事実が、すとんと胸に落ちてきた。

その時だった。ポケットのスマホが震えた。

母からだった。

『千夏? もしかして、ミーコ、いなくなった?』 その声は、不安に揺れていた。

「ううん、大丈夫。押入れの中にいたよ」

私がそう答えると、電話の向こうで、母がホッと息を吐くのが分かった。

『ああ、よかった…。』 そして、続けた。

『やっぱり、あそこなのね。あの子、不安になると、いつもあそこに隠れるのよ。あなたの赤ちゃんの頃の洋服とかが入ってるから、あなたの匂いが残ってるの』

母の、優しい声。

その言葉に、私は、マニュアルの本当の意味を理解した。

マニュアルに書かれた無数のルール。

それは、母が長年かけて築き上げてきた、ミーコとの「安心」の儀式。

そして、そのマニュアルには書かれていなかった、たった一つの、最も大切なルール。

それは、「不安な時は、そばにいてあげること」。

「……お母さん」

「なあに?」

「私も、小さい頃、よく押入れに隠れてたよね。お母さんに叱られた後とか」

『そうよ。あなたもミーコも、そっくりなんだから。手のかかる、私の、大事な宝物よ』

電話越しに、母と私の間に、何年ぶりかの、温かい沈黙が流れた。

それは、金木犀の香りがする、優しい沈黙だった。

 

不器用な家族の、新しいページ

 

一週間後、母は無事に退院してきた。

玄関で出迎えた私に、母は少し驚いたような顔をした。

「あら、千夏。まだいてくれたの」

「まあね。女王様からの引き継ぎ、ちゃんとしとかないと」 私は、少し照れながら、そう言って笑った。

母は、チリ一つない部屋と、つやつやした毛並みで出迎えたミーコを見て、もう一度驚き、そして、本当に嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう、千夏。完璧ね」

「マニュアルのおかげよ」

私は、母のために、少しぬるめの麦茶を淹れた。

昔、風邪をひいた私に、母がいつもしてくれたように。

母は、それを一口飲むと、「あら、美味しい」と、子供のように笑った。

私たちの会話は、まだ少し、ぎこちないかもしれない。

長年の空白は、そんなに簡単には埋まらない。

でも、その間を、まるで「まあ、ぼちぼちやりなさいよ」とでも言うように、ご長寿猫のミーコが、のっそりと歩いていく。

そして、母の足に、私の足に、順番に、その温かい体を、ゆっくりと擦り付けていくのだった。

実家を去る日。

荷物をまとめ、最後にリビングのテーブルに目をやる。

そこには、一週間、私を振り回し、そして導いてくれた、『ミーコさん お世話マニュアル』が置かれていた。

私は、ふと、いたずらっぽい笑みを浮かべると、ペンを取り、その最後の、白紙のページを開いた。

そして、母の丸っこい文字を真似て、新しいルールを書き加えた。

【ルール二十四】:お母さんが疲れている時は、娘が、ぬるめの麦茶を淹れること。

これで、マニュアルは完成だ。

玄関で見送る母が、冗談めかして言った。

「また、ミーコさんの世話、頼むかもしれないわよ」 私は、満面の笑みで振り返った。

「いつでもどうぞ。ただし、日当はきっちり請求するからね!」 母が、声を上げて笑う。

その笑顔を見るのは、本当に久しぶりだった。

母と娘の、少しだけ止まっていた時間が、またゆっくりと、確かに動き出した。ご長寿猫の、悠然としたペースに合わせて。


 

あとがき

 

読者のあなたへ

この物語の最後のページを、ゆっくりと閉じてくださり、ありがとうございます。

実家の匂い、母親の小言、そして、当たり前のようにそこにいた、ペットとの記憶。

あなたの中の、懐かしい風景に、少しだけ触れることができたでしょうか。

家族の間の「お節介」や、少しだけ窮屈に感じた「ルール」。

その一つひとつは、きっと、言葉にするのが下手な人たちの、不器用で、精一杯の愛情表現なのかもしれません。

物語の中で、千夏は母が残したマニュアルに、母自身の姿を重ねていきました。

あなたの周りにある、当たり前すぎて見過ごしてしまいがちな、ささやかなルール。

その裏に隠された「言葉にならない想い」に、改めて目を向けるきっかけに、この物語がなれたなら。

そして、あなたのたいせつな家族との関係を、ほんの少しだけ、温かい気持ちで振り返ることができたなら、作者として、これ以上の喜びはありません。

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