まえがき
読者のあなたへ
この物語の最初のページを開いてくださり、ありがとうございます。
もし、あなたの仕事のクライアントが、言葉の通じない、気まぐれな猫だったら?
しかも、超一流の要求ばかりしてくる、プライドの高いセレブ猫だったとしたら?
「動物と関わる仕事がしたい」
そんな純粋な夢を抱いて、新しい世界に飛び込んだものの、待っていたのは想像とは少し違う、ドタバタな毎日。
この物語は、そんな、理想と現実のギャップに奮闘する一人の女性と、一匹の気高き猫のお話です。
理不尽な要求の裏に隠された、本当の気持ち。
言葉にならない心の声。
もしかしたら、それは、私たちの日常にも、あちこちに転がっているのかもしれません。
この物語が、あなたの毎日を少しだけ面白く、そして愛おしく見つめる、小さなきっかけになれたなら、作者として、これ以上の喜びはありません。

夢と現実と、分厚すぎる仕様書
四十歳。
その響きは、私にとって「不惑」というより、むしろ「大いに惑う」始まりの合図だった。
私の名前は、広田のぞみ。
十八年間勤め上げた、安定だけが取り柄の事務職という船を自ら降り、ペットシッターという未知の大海原へ、救命胴衣もつけずに飛び込んだ、無謀な四十歳だ。
「動物と関わる仕事がしたい!」
長年、心の奥底で燻り続けていた夢。
その原風景は、十八年間の無味乾燥なオフィス街での日々にあった。
私の心に唯一、小さな陽だまりを作ってくれたのが、会社の裏の路地に住み着いていた、一匹の野良猫だった。
ランチの残りのお魚を分けると、警戒しながらも少しずつ心を開いてくれた、あのザラザラした舌の感触。
冷たいアスファルトの上で、私の足にだけすり寄ってくれる、あの温もり。
それだけが、私の本当の居場所だった。
そのささやかな夢は、四十歳の誕生日を目前にしたある夜、課長が放った「広田さんも、もうベテランの域だからな。この会社に骨を埋めるんだろ?」という悪気のない一言で、ついに大爆発を起こした。
骨なんて、埋めてたまるか。
私の骨は、犬の散歩で駆け回り、猫の毛玉を掃除し、愛しい動物たちに囲まれて、賑やかに風化するのだ。
その勢いのまま退職届を叩きつけ、ペットシッター養成学校に通い、なけなしの退職金をはたいて個人事業主として開業した。
……のだが。
現実は、荒波どころか、凪だった。
凪すぎて、仕事という名の船が一隻もやってこない。
貯金の残高と反比例するように、胃の痛みだけが増えていく。
「夢だけじゃ、お腹は膨れないって、こういうことか…」
缶コーヒーをすすりながら、ため息をついた、その時だった。
スマートフォンのメール受信を知らせる、軽やかな通知音。
それは、干上がった心に染み渡る、恵みの雨の音だった。
『初めまして。ウェブサイトを拝見し、ご連絡いたしました。長期の海外出張のため、一ヶ月間、ペットのお世話をお願いできる方を探しております』
差出人の名は、高遠響子。
メールに記載された住所は、湾岸エリアにそび立つ、天空の城のようなタワーマンションだった。
キタ! これぞ、起死回生の一打! 私は小躍りし、二つ返事で面談の約束を取り付けた。
数日後、私は目眩がするような高層階のエレベーターを降り、重厚な玄関の前に立っていた。
呼び鈴を鳴らすと、現れたのは、シャープなスーツを着こなし、氷の彫刻のように美しい女性――高遠響子さん、その人だった。
「お待ちしておりました。どうぞ」
通されたリビングは、モデルルームのように生活感がなく、窓の外には東京の街並みがジオラマのように広がっている。
その部屋の主役は、部屋の中央、ベルベットのソファに鎮座する、一匹の猫だった。
雪のように白い、ふわふわの長毛。
空の色を閉じ込めたような、サファイアの瞳。
神々しい、という言葉以外に見つからないほどの、美しいペシャ猫。
「彼が、今回お願いしたい、アレクサンダーです」
「は、初めまして、アレクサンダー様…」
思わず敬語になってしまうほどの、圧倒的なオーラ。
アレクサンダーは私を一瞥すると、「ふん」と鼻を鳴らし、ぷいと顔をそむけた。
早くも、前途多難な予感がする。
「彼のお世話についてですが、こちらにまとめてありますので」 響子さんが、こともなげに差し出したのは、ファイルだった。
それも、電話帳かと見紛うほど、分厚いファイル。
表紙には、明朝体でこう記されていた。
【アレクサンダー様 お世話に関する仕様書 Ver.3.2】
……仕様書?

嫌な予感を覚えつつページをめくった私の目に飛び込んできたのは、およそ猫の世話とは思えない、びっしりと書き込まれた要求の数々だった。
私はまだ、この仕事が、夢見た「癒しのお仕事」ではなく、超一流クライアント(猫)からの、理不尽な要求に応え続ける「試練」であることを、知らなかったのだ。
クライアント(猫)は、かくも理不尽である
仕様書、もとい、アレクサンダー様の要求は、私の貧弱な想像力を遥かに超えていた。
一、飲料水について 南アルプスの天然水(硬度30)を常温にて、一日三回、新しいガラスの器に交換すること。器は毎回、無添加の洗剤で洗浄後、自然乾燥のこと。
二、食事について フランス産オーガニックチキン(パテタイプ)を、必ず人肌(36.5℃)に温めて提供すること。温度計による確認を必須とする。
三、音響環境について アレクサンダー様が起きている間は、常にモーツァルト作曲『アイネ・クライネ・ナハトムジーク(K.525)』を、音量レベル2で再生し続けること。他の楽曲は断じて認めない。
……以下、全三十八項目。
私はファイルを閉じた。
そして、天を仰いだ。
これは、猫の世話ではない。
どこかの国の王族をもてなす、主席執事の仕事だ。
響子さんが出張に発ったその日から、私の奮闘、いや、苦闘の日々が始まった。
アレクサンダー様は、まさに暴君だった。
水が少しでもぬるいと、前足で器をひっくり返す。
チキンの温度が一度でも違うと、一口も食べずにそっぽを向く。
私が少しでもマニュアルと違う動きをすると、威嚇の「フーッ!」が飛んでくる。
そして、極めつけは、わざとトイレを失敗することだった。
高級なペルシャ絨毯の上で、澄まし顔で粗相をされた時の絶望感といったら。
追い打ちをかけるように、響子さんからは毎日、衛星電話で国際チェックコールが入る。
『広田さん? アレクサンダー様のご機嫌はいかが?』
「は、はい! 本日も大変麗しく、モーツァルトを聴きながら優雅にお過ごしです!」
胃をキリキリさせながら、私は完璧なシッターを演じ続けた。
「もう、無理……。辞めたい……」
一週間が経つ頃には、私はすっかり疲弊していた。
ある日の午後、息抜きと称して逃げ込んだのは、坂の上のブックカフェ《月光蟲》。
古書のインクとコーヒーの香りに包まれながら、私はカウンター席で突っ伏した。
「クライアントが、猫なんです…」
物静かなマスターに愚痴をこぼすと、彼は静かに頷き、一杯のコーヒーを差し出してくれた。
その温かさが、ささくれだった心に染み渡った。
カフェで少しだけ正気を取り戻した私は、帰り道、衝動的にペットショップに立ち寄っていた。
そして、一本の、何の変哲もない、カラフルな羽がついた猫じゃらしを買ってしまったのだ。
マニュアル違反も甚だしい。
でも、もう、どうにでもなれ、という気分だった。
部屋に戻ると、アレクサンダー様はソファの上で、私を軽蔑するような目で見下ろしている。
「アレクサンダー様。本日は、わたくしめから、ささやかな貢ぎ物がございます」
私はヤケクソ気味に、猫じゃらしを彼の目の前で振ってみた。
最初は、「何だこれは、下賤な」とでも言いたげに、無視を決め込んでいたアレクサンダー。
しかし、目の前で揺れるカラフルな羽が、彼の猫としての本能を刺激したらしい。
サファイアの瞳が、ぐっと大きく見開かれた。尻尾の先が、ぴく、ぴくと揺れている。
そして、次の瞬間。
彼は、我を忘れたように、ソファから飛び降りると、猫じゃらしに猛然と飛びかかってきた!

床をごろごろと転がり、羽にじゃれつき、目をキラキラさせて獲物を追う。
それは、気位の高い王子様の姿ではなく、ただの、無邪気で可愛い、一匹の猫だった。
ほんの数分間の、夢のような時間。
しかし、はっと我に返ったアレクサンダーは、急に興味を失ったフリをして、「今の時間はノーカンだ」と言わんばかりに、またソファの上に戻り、ツンと澄まし顔をしてしまった。
そのあまりのツンデレっぷりに、私は思わず、声を出して笑ってしまった。
この一週間で、初めて心から笑った瞬間だった。
「……あんた、本当は、遊びたいんじゃない」
この理不尽なクライアントの、ほんの小さな「素顔」。
それに触れたことで、私の心に、ほんの少しだけ、この仕事を続けてみようか、という気持ちが芽生えていた。
嵐の夜のSOSと、破られた仕様書
響子さんの出張も、残すところあと三日。
そんな折、大型の台風が東京を直撃した。
窓の外では、風がビルにぶつかり、不気味な唸り声を上げている。
時折光る稲妻と、遅れて響く雷鳴。
その夜、アレクサンダーは異常なほど落ち着きがなかった。
部屋の中をウロウロと歩き回り、普段は決して上げないような、低く不安げな声で鳴き続ける。
モーツァルトも、まったく効果がない。
「大丈夫だよ、アレク。怖くないよ」
私がいくら声をかけても、彼の興奮は収まらない。
そして、事件は起きた。

アレクサンダーは、まるで何かに取り憑かれたようにリビングを走り回ると、サイドボードの上に置いてあった、響子さんが最も大切にしているという、ヴェネツィアングラスの馬の置物に向かって、一直線に飛び乗ったのだ。
「あっ! ダメ!」
私の制止も間に合わず、ガラスの馬は、ガシャン! という耳を塞ぎたくなるような音を立てて、床に砕け散った。
一瞬の静寂。
私は、血の気が引くのを感じた。
終わった。
クビだ。
損害賠償を請求されるかもしれない。
しかし、そんな私の絶望をよそに、アレクサンダーはただ、割れたガラスの前で呆然と立ち尽くし、体を小刻みに震わせている。
その姿を見て、私は、はっとした。
違う。
彼は、物を壊したかったんじゃない。
ただ、パニックになっていたんだ。
この雷の音と、心細さと、そして、一番頼りたい飼い主がいないという、途方もない寂しさに。
彼の鳴き声は、威嚇なんかじゃない。
助けを求める、SOSのサインだ。
私は、震える手でスマホを掴み、響子さんの国際電話番号をタップした。
『もしもし、広田さん? こんな時間にどうしまし――』
「響子さん! 大変なんです! アレクサンダーくんが、ガラスの置物を…!」
『なんですって!? あれが、どれだけ高価なものか…!』
電話の向こうで、響子さんが激昂するのが分かった。
でも、私は必死に言葉を続けた。
「違うんです! そうじゃなくて! アレクサンダーくん、すごく怖がってるんです! 雷の音と、響子さんがいなくて、ただ、寂しいんだと思います! だから、お願いです! 今だけ、マニュアルを破らせてください!」
受話器の向こうで、響子さんが息をのむのが分かった。
数秒の、重い沈黙。
そして、聞こえてきたのは、今まで聞いたこともないほどか細く、揺れる声だった。
「…あの子が、寂しい…?」
それは、問いかけというよりは、自分自身に確かめるような、途方に暮れた呟きだった。
そして、一拍の後、絞り出すような声が続いた。
『……好きに、してちょうだい』
私は電話を切ると、まず、モーツァルトを消した。
そして、スマホで、水のせせらぎと小鳥のさえずりが入った、ヒーリングミュージックを流した。
次に、キッチンへ行き、自分の夕食用に買っておいたササミを茹でた。オーガニックチキンじゃない。でも、愛情だけは込めた。
そして、リビングに戻ると、割れたガラスの破片からアレクサンダーを遠ざけ、シルクのクッションでも、カシミアのベッドでもない、私自身の膝の上に、彼をそっと乗せた。
「もう大丈夫。私がいるからね」
アレクサンダーは、最初、私の腕の中で必死に抵抗した。
しかし、背中を優しく撫で、語りかけ続けると、やがて、諦めたように体の力を抜いた。
そして、私の胸に顔をうずめ、ゴロゴロ、ゴロゴロ…と、大きな音で、喉を鳴らし始めたのだ。
それは、彼が私に初めて見せてくれた、完全な信頼の証だった。
嵐の夜、私たちは、ただ黙って、寄り添い合っていた。
不器用な家族の、虹色のはじまり
翌朝、嵐は嘘のように過ぎ去り、空には大きな虹がかかっていた。
そして、インターホンが鳴った。
響子さんが、予定を切り上げ、緊急帰国したのだ。
私は、クビを覚悟で、深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした! ガラスの置物は、必ず、弁償いたします!」
しかし、響子さんは、床に散らばったガラスの破片には目もくれなかった。彼女はまっすぐにリビングへ向かうと、私の足元に寄り添っていたアレクサンダーを、その細い腕で、ぎゅっと、固く抱きしめた。
「ごめんね、アレク。寂しかったのね…。ひとりで、怖かったわね…」

その声は震えていて、彼女の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
そして、響子さんは、私に向き直ると、もう一度、深く頭を下げた。
「広田さん、ありがとう。そして、ごめんなさい。私、あの子に一番必要なものを、与えていなかったわ」
それから、彼女はぽつりぽつりと話してくれた。
仕事が忙しく、アレクサンダーとの時間を十分に取れない罪悪感から、「せめて最高級の物を与えなければ」という強迫観念に駆られていたこと。
あの分厚いマニュアルは、彼女の歪んだ愛情表現であり、自分自身を縛り付けるための、ルールブックだったのだと。
その日以降、アレクサンダー様の仕様書は、大幅に改訂された。
『水は猫が飲めば水道水でも可』
『BGMは飼い主の好きなジャズでも可』
『一日一回、必ず猫じゃらしで五分以上遊ぶこと』。
新しいマニュアルは、温かくて、少しだけ不器用な、人間味あふれるものに変わっていた。
響子さんの出張が終わる日、私は最後の仕事として、彼女に引き継ぎを行った。
「一ヶ月間、本当にありがとうございました。これが、請求書です」
私が封筒を差し出すと、響子さんはそれを受け取らず、代わりに、新しい契約書を差し出した。
「広田さん。あなたを、アレクサンダーの、生涯公式ペットシッターに任命します。ペットシッターとして、というよりは……そうね、家族の一員として、これからも、あの子の成長を見守ってほしいの」
顔を上げると、彼女は、氷の彫刻ではなく、はにかんだ少女のような、最高の笑顔で微笑んでいた。
リビングでは、響子が、少しぎこちない手つきで猫じゃらしを振っている。
アレクサンダーは、それを、目をキラキラさせて追いかけている。
その、どこにでもある、ありふれた、でも、最高に幸せな光景を、私は胸がいっぱいになりながら見つめていた。
「ペットシッター、最高に面白い仕事かも」
四十歳から始めた、私の新しい人生。
それは、どうやら、想像していたよりもずっと、エキサイティングで、愛おしいものになりそうだ。
窓の外では、台風一過の空に、くっきりとした七色の虹が、輝いていた。

あとがき
読者のあなたへ
この物語の最後のページを、ゆっくりと閉じてくださり、ありがとうございます。
不器用で、ちょっぴりワガママなクライアント(猫)との、ドタバタな毎日。楽しんでいただけたでしょうか。
私たちは時々、愛情の示し方が分からなくなってしまうことがあります。
響子さんがそうであったように、「何かを与えること」で、心の距離を埋めようとしてしまう。
でも、本当に大切なものは、高価な物でも、完璧な環境でもなく、ただ「そばにいる時間」や、「不器用でも向き合おうとする気持ち」なのかもしれません。
物語の中盤、アレクサンダーは、マニュアルにはない「ただの猫じゃらし」に、心を奪われました。
あのシーンには、「どんなに着飾っても、心は素朴な温もりを求めている」という、この物語の小さなメッセージを込めました。
あなたの周りにいる、大切な人や、愛しいペットたちの、言葉にならない「本当は、ただ遊んでほしいだけニャ」という心の声に、耳を傾けるきっかけになれたなら、作者として、これ以上の喜びはありません。