読者のあなたへ
坂の上のブックカフェ、《月光蟲》のドアを開け、しおりとヨルの物語にお付き合いくださり、本当にありがとうございます。
私たちは皆、心の中に描きかけの「未来の設計図」や、いつしか忘れてしまった夢の切れ端を持っているのかもしれません。
しおりのように、「もう夢なんて見ても仕方ない」と、そっと蓋をしてしまった心の引き出しが、誰にでもあるのではないでしょうか。
物語の最後、叔父さんがしおりに言った「扉を開けて、人の心に言葉を届けたのは、あなただ」というセリフがありました。
あそこには、実は、この物語を通して私が一番伝えたかった想いを込めました。
人生には、ヨルのように、そっと「こっちだよ」と不思議な扉を示してくれる出会いが訪れることがあります。
でも、その扉を開けて、新しい一歩を踏み出す勇気は、他の誰でもない、あなた自身の心の中に眠っているのだと、私は信じています。
この物語が、あなたの心の本棚の片隅で、ふとした時に背中をそっと押してくれるような、そんな一冊となれたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。あなたの明日にも、心躍る謎と、優しいコーヒーの香りがありますように。
本嫌いと猫マスター、奇妙な出会い
「だから! なんで私が、叔父さんのバカンスの後始末をしなきゃいけないわけ?」
園田しおり、三十二歳。派遣社員。
平日のルーティンは、当たり障りのない挨拶と、誰かのサポート業務と、時々鳴る無機質な電話の応対。
プライベートのそれは、コンビニの新商品チェックと、飼い主の顔色をうかがうように回る洗濯機と、サブスク動画の垂れ流し。
人生の大きな目標もなく、かといって日々の生活に致命的な不満もなく、ただ、緩やかな下り坂を、特に抵抗もせずに下っているような、そんな毎日。
昔は、違った。
スケッチブックを抱えて、一日中絵を描いていた頃があった。
小さな町の、さらに小さなアトリエで、誰かの物語の挿絵を描くイラストレーターになるのが夢だった。
でも、コンテストに落ち、持ち込みに断られ、自分より遥かに才能のある同級生が軽々と夢を叶えていく姿を見るうちに、私の鉛筆は、いつしかその熱を失っていた。
「夢なんて、コスパが悪い」。
そう結論づけてからは、ずいぶん楽になった。
傷つくことも、焦ることもない。
ただ、心のどこかが、少しずつ、すり減っていくような気はしていた。
そんな私のスマホに飛び込んできたのは、一ヶ月後に世界一周旅行へ旅立つという、能天気な叔父からのビデオ通話だった。
叔父さんは、坂の上にあるブックカフェ《月光蟲》のマスターをしている。
何を隠そう、この私、叔父の姪でありながら、極度の活字アレルギーなのだ。
細かい文字の集合体は、かつて私の夢を打ち砕いた「才能」という名の評価表のようで、無意識に脳が受け取りを拒否する。
「お店、一ヶ月も閉めるわけにはいかないだろう? 頼む、しおりちゃん! この通り!」
画面の向こうで手を合わせる叔父に、私はうんざりして答えた。
「いやいや、無理! 本嫌いに書店の店番は務まらないし、そもそも猫に店番が務まるわけないでしょ!」
「ははは、大丈夫。あの店は僕じゃなく、ヨルが本当のマスターだからね。彼によろしく言っておいてくれ」
一見ただの冗談に聞こえる叔父さんの言葉と、「家賃一ヶ月分を前払い」という悪魔の囁きに屈し、私は結局、このありえないオファーを引き受ける羽目になったのだ。
子供の頃、両親に言えないような悩みも、この叔父さんだけは「そうかそうか」と笑って聞いてくれた。昔から、私はこの人にだけは、どうしようもなく甘いのだ。
そうして迎えた、梅雨入り前のよく晴れた日。 キャリーケースを引いて坂道を上り、古びた木製の看板が掲げられた店の前に立つ。深呼吸をして、重いドアを引いた。

からん、と少し寂しげなドアベルの音。
途端に、古書のインクと、深く焙煎されたコーヒー豆の香ばしい匂いが、私をふわりと包み込んだ。
店内は、静かな時間の堆積でできていた。
艶を帯びた木の床は、歩くたびに「キュッ」と優しい音を立てる。
壁一面、天井まで届く本棚には、古今東西の物語が、出番を待つ役者のように息を潜めていた。
窓の外では、季節外れの紫陽花が青い花を咲かせている。
カタン、コトン、と壁の古い柱時計が時を刻む音だけが、やけにクリアに聞こえた。
「……で、本当のマスターはどこ?」
私が独り言を呟いた、その時だった。
本棚の最も高い場所から、ぬるり、と漆黒の塊が床に舞い降りた。
音も立てずに。ビロードのような光沢を放つ毛並み、しなやかな長い尻尾、そして、夜空に浮かぶ月を溶かし込んだような、神秘的な金色の瞳。
彼こそが、この店の「本当のマスター」、黒猫のヨルだった。
ヨルは私を一瞥すると、「ふん」とでも言うように鼻を鳴らし、悠然とカウンターの上へ。
そして、一番日当たりの良い場所に、するりと体を丸めてしまった。
その仕草には、王者のような貫禄さえ漂っている。完全に、ナメられている。
「どーも、一ヶ月よろしく。派遣社員のスキル、なめないでよね。猫のお世話くらい、完璧にこなしてみせるから」
もちろん、返事はない。
ただ、ぴくりと動いた耳だけが、私の宣戦布告を聞き届けたことを示していた。
こうして、夢を諦めた現実主義者の私と、プライドの高そうな猫マスターによる、奇妙で、そして忘れられない一ヶ月が、その幕を開けたのだった。
猫探偵、最初の事件と退屈な午後
最初の数日は、驚くほど平穏で、そして驚くほど暇だった。
常連さんたちは、さすがに叔父さんの長年の顧客だけあって、私がズブの素人だと見抜いている。
セルフサービスのコーヒーを片手に、勝手に本を選び、思い思いの時間を過ごしていく。
私の仕事といえば、レジで会計をすることと、時々コーヒーの粉を補充すること、そして、ヨルのご飯とトイレの世話くらいだ。
あまりに手持ち無沙汰で、私は店のベストセラーコーナーにあった話題のミステリー小説を手に取ってみた。
表紙の煽り文句には「驚愕のラスト!」とある。
「ふーん。まあ、時間つぶしにはなるか」 革張りの椅子に腰かけ、ページを開く。
一ページ、二ページ……ふぁ〜あ、と大きなあくびが出る。
三ページ目で、私の意識は完全にシャットダウンした。
カクン、と心地よい衝撃で顔を上げると、目の前のテーブルで、黒猫のヨルが「やれやれだ」とでも言いたげな、最高に呆れた顔で私を見ていた。
ちくしょう、猫にまで同情されるとは。
「しょうがないでしょ、活字アレルギーなんだから」 言い訳をしてみても、ヨルは興味なさそうに「なぅ」と短く鳴き、毛づくろいを始めてしまった。
私はスケッチブックを取り出し、ペンを走らせた。
昔の癖だ。
何かに行き詰まると、こうして落書きをしてしまう。
描いたのは、ふてぶてしい顔で香箱座りをする、目の前の黒猫。その隣に、小さく『上司(猫)』と書き加えた。
そんな退屈を打ち破るように、からん、とドアベルが鳴った。
入ってきたのは、常連客の一人、ミホさん。
しかし、今日の彼女はいつもの明るい笑顔がなく、どんよりと落ち込んでいる。
「いらっしゃいま……どうしたんですか、そんなにしょんぼりして」 思わず声をかけると、彼女は今にも泣き出しそうな顔で訴えてきた。
「しおりさん……どうしよう。彼にプレゼントしてもらった、大事な万年筆を失くしちゃったんです…」

聞けば、昨日デートした時に使ったのは覚えているが、帰り道に寄った場所が多くて、どこで失くしたか見当もつかないらしい。
「ただの万年筆じゃないんです。彼、建築家なんですけど、いつか『この万年筆で、二人の家の設計図を書こう』って言ってくれた、お守りみたいなもので…」
設計図、か。
私の心に、その言葉がチクリと刺さった。
私も、自分の未来の設計図を描こうとして、描けなかった人間だ。
彼女の喪失感が、自分のことのように感じられた。
「うーん、とりあえず、警察に遺失物届を出して、昨日立ち寄ったお店に片っ端から電話してみるとか…」
結局、出てくるのはありきたりなアドバイスだけだ。
私の無力さに、ミホさんの肩が、さらにがっくりと落ちた。
その、まさにその時だった。
さっきまで私をさんざん見下していたヨルが、すっくと優雅に立ち上がった。
そして、しなやかな足取りで床に降り立つと、まっすぐ文庫本のコーナーへ。
いくつかの本棚の前で立ち止まり、匂いを嗅ぐような仕草をした後、最終的に一冊の古い旅行記の前に移動し、ひらりとその上に飛び乗った。
そして、ちょこんと香箱座り。
「え? なに?」 ミホさんと顔を見合わせる。
ヨルはただ、金色の瞳でじっと私を見つめている。
半信半疑のまま、私はその本を手に取った。
ドイツの古城を巡る、古びた旅行記。
ぱらぱらとページをめくると、あるページの一文に、前の持ち主が引いたらしい赤線が残っていた。
『旅の忘れ物は、意外なほど近くにある。灯台下暗し、とはよく言ったものだ』
「灯台下暗し…」 ミホさんが、その言葉を呟いた瞬間、はっと目を見開いた。
「……! もしかして!」 彼女は何かを閃いたらしく、「しおりさん、ヨルくん、ありがとう!」と叫ぶと、風のように店を飛び出していった。
あっけにとられる私を残し、ヨルは満足げにあくびを一つ。
そして、また日当たりの良い場所へ戻り、眠りの続きを始めてしまった。
「……まさか、ねぇ」 私はスケッチブックの『上司(猫)』の隣に、『兼、名探偵?』と書き足した。
さっきより少しだけ、この退屈な店番が楽しくなりそうな予感がしていた。
猫探偵の助手、時々、セラピスト
数日後の昼下がり。ミホさんが、満面の笑みで彼氏さんと一緒にやってきた。
「しおりさん! ありました! 万年筆、昨日着てたコートの内ポケットに!」 まさに、灯台下暗し。
彼女は最高級の猫用おやつを差し出し、ヨルは「当然だ」と言わんばかりの顔でそれを受け取っていた。
なんだかムカつくけど、二人の幸せそうな顔を見たら、まあ、いっか、と思えた。
その一件以来、私はヨルの行動から目が離せなくなっていた。
彼の気まぐれに見える動き一つ一つに、何か意味があるんじゃないか。
そう思うと、退屈だった店番が、俄然、スリリングな謎解きゲームに思えてきた。
そんなある日、上品な老婦人のハルさんが、沈んだ顔で来店した。
長年の親友と、些細なことで口論になってしまったらしい。
「もう五十年来の付き合いなのよ。それなのに、あんなことで…。謝りたいのだけれど、なんと切り出していいものか…」
ハルさんは、親友との思い出をぽつりぽつりと語ってくれた。
スマホなんてない時代、毎日交換した手紙のこと。
喧嘩の原因も、その思い出の手紙を「もう捨てたでしょう」とハルさんが言ってしまったことだという。
「捨てられるわけないじゃない。宝物なのに…。でも、意地を張ってしまって」 俯くハルさんに、私は「ヨル探偵の出番かも」と、内心少しワクワクしていた。
私の期待に応えるように、ヨルが動いた。
今度は、植物図鑑のコーナーへ向かい、一冊の分厚い図鑑の上で、ごろんと仰向けになって伸びをする。
その姿は、まるで「ここだよ」と指し示しているかのよう。
私が図鑑を手に取り、ページを開くと、そこには青く可憐な花の写真。

勿忘草(わすれなぐさ)。
添えられた花言葉は、『私を忘れないで』『真実の友情』。
ああ、そういうことか。
ヨルは、言葉じゃなくて、この花を贈ってはどうか、と教えてくれているんだ。
以前の私なら、ただ「この本だそうです」と差し出しただろう。
でも、今の私は、ほんの少しだけ違った。
「ハルさん」 私は、自分でも驚くほど、穏やかな声で話しかけていた。
「昔、交換していたお手紙みたいに、言葉にしなくても気持ちが伝わるものって、素敵ですよね。このお花、勿忘草っていうんですって。花言葉は、『真実の友情』。言葉でごめんなさいって言うのが気まずかったら、まずこのお花を贈るのはどうでしょう。
『あなたのことを、今も宝物みたいに大切に想ってるよ』って、きっと、伝わると思います」
イラストで気持ちを伝えたかった、昔の自分。
ハルさんの手紙に込めた想い。それが、静かに重なった気がした。
ハルさんは、目に涙を浮かべて「ありがとう」と私の手を握ってくれた。
足元では、ヨルが私の足に、そっと頭を擦り付けていた。
それはまるで、「助手として、まあまあやるじゃないか」という、彼なりの賛辞のように感じられた。
その数日後には、卒業論文のテーマに悩む男子大学生のケンタ君が、ヨルが偶然(?)本棚から落とした郷土史の本をきっかけに、「このカフェの歴史をテーマにします!」と目を輝かせて帰っていく、なんていう一幕もあった。
人の未来が、目の前でキラリと光る瞬間。それは、私がすっかり忘れていた、胸のときめきだった。
猫が選んだ、私の未来の設計図
あっという間に、約束の一ヶ月が過ぎた。
店番最終日。
開店準備をしながら、私はこの店での日々を振り返っていた。
カウンターを磨きながら、ミホさんやハルさん、ケンタ君の笑顔を思い出す。
私の言葉で、誰かの心が少しだけ軽くなる。
そんな瞬間が、確かにあった。「悪くないな」という気持ちは、いつの間にか、確かな「愛おしさ」に変わっていた。
その日は、ひっきりなしに常連客が挨拶に来てくれた。
「しおりさん、ありがとう! 今度、本当に家の設計図、描いてもらうんです!」とミホさん。
「あなたのおかげよ。親友と、また手紙の交換を始めたの」と、親友と連れ立って現れたハルさん。
「卒論、最高の評価もらえそうです! これ、つまらないものですけど…」と、猫用おもちゃをくれたケンタ君。
彼らの言葉が、すり減っていたはずの私の心を、じんわりと満たしていく。
夕方、世界一周旅行で真っ黒に日焼けした叔父さんが、陽気に帰ってきた。

「やあ、しおりちゃん! 助かったよ! どうだった、ヨルはいい子にしてたかい?」
「まあね。常連さんたち、ヨルに助けられてたみたいよ」 私がそう言うと、叔父さんは店の奥からコーヒーを淹れながら、にっこりと笑った。
「いや、ヨルと、君に、だよ。ヨルは扉を示すだけ。その扉を開けて、人の心に言葉を届けたのは、しおりちゃんだ」 そして、こう続けた。
「ヨルが、君を選んだのさ。あいつは、本当に心を許した人間にしか、謎解きの手伝いはしないんだ」
その言葉に、私はビデオ通話での叔父の言葉を思い出した。
『あの店は僕じゃなく、ヨルが本当のマスターだからね』
――あの時の言葉は、こういう意味だったのか!
いよいよ、お別れの時だ。
荷物をまとめ、帰り支度をする。
ヨルは、カウンターの上から、ただ黙って私を見ていた。
「じゃあね、ヨル。最高のマスター。元気でね」
別れの挨拶をして、ドアに向かおうとした、その時。
とんっ、と軽い衝撃。
見ると、ヨルが私のショルダーバッグの上に飛び乗り、断固として動かない、という強い意志を示していた。
「ちょ、ちょっと、ヨル! 重いんだけど!」 私が困惑していると、ヨルは前足で、ちょいちょい、とカウンターの上に置いてあった一冊の求人雑誌を示した。
それは、叔父さんが私のためにと取っておいてくれたものだった。
そして、ヨルが示していたページには、奇しくも、市立図書館の司書(契約職員)募集の案内が。
「……猫にまで、私の将来、心配されてどうすんのよ」

呆れたような、泣きたいような、でも、どうしようもなく可笑しいような。
いろんな感情がごちゃ混ぜになって、私はその場にしゃがみこんだ。
ヨルがバッグから降りて、私の膝にそっと頭を乗せてくる。
ああ、そうか。
ただ本を管理するだけじゃない。
このカフェがそうであるように、誰かの人生がちょっとだけ上を向くような、そんな「一冊」をそっと手渡せる場所。
答えそのものではなく、答えに続く「扉」の案内人。
それなら、絵を描けなくなった私にも、できるかもしれない。
ヨルの、最高の助手として。
「また、遊びに来るから」 ヨルのビロードのような頭をそっと撫でると、ゴロゴロ、ゴロゴロ、と満足そうな音が、静かな店内に響き渡った。
本が苦手だった私が、本と猫に導かれて、新しい未来の設計図を描き始めようとしている。
悪くない。
いや、むしろ、最高に面白い人生かもしれない。
私はヨルにもう一度笑いかけ、新しい未来へと続くカフェのドアを、そっと開けた。
