第一章:がらんどうの箱と鳴かない猫

東京という街の巨大さを、沙耶は引越しの段ボール箱を解き終えたがらんどうの部屋で、初めて本当の意味で理解したのかもしれない。
窓の外には、名前も知らない家々の屋根が、おし黙ったままどこまでも続いている。
以前暮らしていた街の風景とは、何もかもが違っていた。
三十八歳の春。
五年付き合った恋人との別れと、十五年勤めた会社を辞めたタイミングが、まるで示し合わせたかのように重なった。
すべてをリセットしたくて、ほとんど衝動的にこの街へ来た。
古い木造アパートの二階、角部屋。
不動産屋のサイトで見つけた「陽当たり良好」の文字と、窓から見える大きな桜の木が気に入った。
それだけが、この街との唯一の繋がりだった。
新しい職場は、街の図書館。
司書という仕事は、昔からの夢ではあったけれど、現実は静寂と同じくらい、人との微細な距離感でできている。
同僚たちは皆親切だが、その優しさは薄いガラスの壁の向こう側から差し伸べられる手のようで、沙耶はいつも、どう応えればいいのか分からなかった。
休憩時間に交わされる会話は、この街の美味しいパン屋の話や、週末に行ったカフェの話。
沙耶にはまだ、そのどれもが自分の物語になっていない。
部屋に帰ると、冷蔵庫の低い唸り声だけが、沙耶の帰りを待っていた。
それがこの部屋で唯一の「音」だった。
元恋人と暮らしていた部屋では、いつも彼の好きな音楽が流れていた。
テレビの音があった。
くだらないことで笑い合う声があった。
失って初めて、それらがどれほど大切なもので満たされた「静寂」であったかを知る。
今のこの静けさは、ただの「無音」だ。
心の隙間に、冷たい空気が吹き込んでくる。
夕食を一人で食べ、風呂に入り、ベッドに潜り込む。
天井の木目を数えているうちに、決まって過去の記憶が甦る。
『沙耶のそういうところが、重いんだよ』
別れ際に彼が放った言葉が、棘のように胸に刺さったままだ。
優しくありたいと願うほど、それは相手を縛り付ける鎖になるのだろうか。
愛そうとすればするほど、その重さで相手を沈めてしまうのだろうか。
だとしたら、自分はもう、誰とも深く関わるべきではないのかもしれない。
そんな自己嫌悪が、日曜の夜のように心を沈ませていく。
期待と不安が入り混じった、新しい週の始まりを待つあの静かな憂鬱。
今の沙耶にとっては、毎日が日曜の夜だった。
ある日の昼下がり、アパートの窓から外を眺めていると、目の前の桜の木の下に、一匹の三毛猫が座っているのが見えた。
陽だまりの中で、満足げに毛づくろいをしている。
その自由な姿に、どうしようもなく惹きつけられた。
その日から、窓辺に立つことが沙耶の習慣になった。
猫は毎日同じ時間に現れては、同じ場所で日向ぼっこをし、やがてどこかへ去っていく。
沙耶は、その猫に「ミケ」と心の中で名前をつけた。
ミケは、沙耶の唯一の話し相手のようだった。
ミケは、誰かに媚びるように鳴いたりしない。
ただ、そこにある陽光を、全身で静かに受け止めている。
その満ち足りた孤独が、今の沙耶には眩しかった。
要求することで関係を築くのではなく、ただ存在することで完結しているその姿に、かすかな憧れを抱いた。
第二章:臆病な瞳との出会い
四月に入り、アパートの前の桜が満開になった。
風が吹くたびに、薄紅色の花びらが雪のように舞い、世界がほんの少しだけ優しくなったように見える。
その日、沙耶は休日を利用して、少し遠くの海辺の公園まで足を延ばしてみることにした。
人混みは苦手だったが、このまま部屋にいても、沈むだけだと思った。
公園は、春の陽気を楽しむ家族連れやカップルで賑わっていた。
その喧騒から逃れるように、沙耶は公園の隅の方へ歩いていく。
すると、小さな広場でテントがいくつか張られ、「保護猫譲渡会」と書かれたのぼりが立っているのが目に入った。
吸い寄せられるように、テントの中へ入る。
様々な大きさのケージが並び、その中には、人懐っこく鳴いてアピールする猫もいれば、緊張した面持ちで固まっている猫もいた。
一匹一匹の紹介文には、彼らが辿ってきた過酷な運命が、淡々とした言葉で記されている。
胸が、きゅっと締め付けられた。
そして、一番奥の、最も薄暗いケージの隅で、沙耶はその子を見つけた。
キジトラ柄の、小柄な猫だった。

他の猫のように鳴きもせず、ただひたすらに体を小さく丸め、ケージの隅に溶け込むようにしてじっとしている。
まるで、自分はここにいないのだと、世界に訴えかけているかのようだった。
紹介文には、「さくら・推定二歳・メス」とある。
多頭飼育崩壊の現場からレスキューされた子で、人間への恐怖心が強い、と書かれていた。
沙耶は、ケージの前にそっとしゃがみ込んだ。
その琥珀色の瞳は、ただ一点、虚空を見つめている。
怯えきった、絶望の色をしていた。
その瞳を見た瞬間、沙耶は自分の心の奥底にしまい込んでいた感情と、はっきりと目が合ってしまった気がした。新しい街、新しい職場。
平気なふりをして笑いながらも、本当はずっと怖かった。
誰も私のことなど見ていない。
私はここにいなくても、世界は何も変わらずに回っていく。
その途方もない孤独感が、目の前の小さな猫の瞳の中に、凝縮されて映し出されていた。
「……怖かったね。ずっと、怖かったんだよね」
それは、猫に言っているのか、自分に言っているのか、分からなかった。
ボランティアの女性が、心配そうに声をかけてきた。
「その子、とっても怖がりさんで……。触られるのも、まだダメなんです」
「そう、なんですね」
「でも、本当はすごく優しい子なんですよ。他の猫には、威嚇したりしないんです」
沙耶はしばらく、ただ黙ってさくらを見つめていた。
自分にこの子を幸せにできるだろうか。
また、誰かをその重さで苦しめてしまうのではないか。
ためらいと怖れが、波のように押し寄せる。
けれど、さくらの震える背中を見ていると、どうしても放っておけなかった。
この子を、この冷たいケージの中から、温かい場所へ連れ出してあげたい。
それは同情や憐れみとは少し違う、もっと切実な願いだった。
この子を救うことが、もしかしたら、自分自身を救うことになるのかもしれない。
「この子を……家族に、迎えたいです」 気づいた時には、言葉が口から滑り出ていた。
第三章:静かなる語り部
さくらとの生活は、想像していた以上に静かに始まった。
新しい部屋に来ても、さくらはすぐにソファの下の暗がりに潜り込み、出てこようとしなかった。
沙耶は、さくらが安心できるよう、部屋の隅に水とフード、トイレを置き、あとはそっとしておくことに決めた。
最初の三日間、沙耶はさくらの姿をほとんど見ることがなかった。
ただ、夜中に沙耶が眠りにつくと、ソファの下から出てきて、こっそりとフードを食べ、トイレを済ませているようだった。
その小さな生活の痕跡だけが、この部屋にもう一つの命が存在していることを教えてくれた。
沙耶は、焦らなかった。
さくらのペースに合わせようと、心に決めていた。
図書館から帰ると、まずはソファの下に向かって、「ただいま、さくら」と声をかける。
返事はない。それでも、毎日続けた。
ある雨の日の夜。
雷の音に怯えているのか、ソファの下からか細い鳴き声が聞こえた。
「大丈夫だよ、さくら。怖くないよ」 暗闇に向かって語りかけると、琥珀色の二つの光が、じっとこちらを見つめている。
初めて、さくらと目が合った気がした。
その夜を境に、さくらは少しずつ、ソファの下から出てくるようになった。
そんなある日、沙耶は気分転換に、同僚から教えてもらったブックカフェを訪れてみることにした。

アパートから少し歩いた、坂の上にある月光蟲という名の、古民家を改装した店だ。
扉を開けると、古書のインクと、淹れたてのコーヒーが混じり合う、懐かしい香りに包まれた。
沙耶は窓際の席に座り、物静かなマスターが淹れたブレンドコーヒーを注文した。
深く、澄んだ味がした。
陽だまりに温められた木製家具の感触、遠くで鳴く電車の音。
そのすべてが、ささくれ立っていた沙耶の心を、優しく撫でていくようだった。
(ああ、この街にも、こんな場所があったんだ)
それは、小さな発見であり、大きな救いだった。帰り道、沙耶の足取りは、来た時よりも少しだけ軽くなっていた。
部屋に帰ると、珍しくさくらが、部屋の真ん中で香箱座りをしていた。
沙耶の姿を見ると、すぐに立ち上がってソファの下へ向かおうとしたが、途中でぴたりと動きを止めた。
そして、何かを確かめるように、沙耶の足元の匂いをくんくんと嗅いだ。
沙耶が纏う、カフェのコーヒーと古書の残り香を、確かめているかのようだった。
「ただいま、さくら。いい匂いがする?」
沙耶がそっと呟くと、さくらは「にゃあ」と、小さく、短く鳴いた。
譲渡会の日以来、初めて聞いた、さくらの声だった。
沙耶は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。
涙が、とめどなく溢れてくる。
それは、悲しい涙ではなかった。諦めに似ているけれど、どこか温かい、日向水のような安堵感に満たた涙だった。
言葉を持たない静かなる語り部は、沙耶が外の世界と繋がり、ほんの少しだけ心を開いたことを、ちゃんと見抜いていたのだ。
第四章:「重さ」の正体
さくらが声を発したあの日から、二人の距離は、目に見えて縮まっていった。
さくらはソファの下から、日当たりの良い窓際のキャットタワーへと、その居場所を移した。

まだ触らせてはくれないけれど、同じ空間で、同じ時間を共有してくれる。
それだけで、がらんどうだった部屋は、温かい「我が家」に変わっていった。
沙耶自身にも、変化が訪れていた。
図書館での休憩時間、同僚たちの会話に、自然と加われるようになっていた。
「この間、《月光蟲》っていうカフェに行ってみたんです。すごく素敵でした」 そう切り出すと、会話は弾んだ。ガラスの壁が、少しだけ薄くなった気がした。
しかし、穏やかな日々は、予期せぬ形で揺さぶられる。
ある週末の夜、スマートフォンの画面に、元恋人からの着信があった。
「久しぶり。元気にしてるか?」 何気ないその声を聞いた瞬間、沙耶の心臓は凍りついた。
「……どうして、今さら」
「いや、別に深い意味はないんだけど。ただ、どうしてるかなって。俺、来月結婚するんだ」
その言葉に、頭が真っ白になった。
おめでとう、と言うべきなのだろう。
でも、言葉が出てこない。
代わりに口をついて出たのは、自分でも驚くほど冷たい声だった。
「そう。よかったわね。もう、かけてこないで」
一方的に電話を切り、ソファに崩れ落ちる。
どうして、自分はいつもこうなのだろう。
素直に祝福することもできず、相手を突き放してしまう。
『沙耶のそういうところが、重いんだよ』 あの言葉が、脳内でこだまする。
沙耶は思い出す。
彼が「重い」と言った、あの日のことを。
彼が仕事の大きなプロジェクトで壁にぶつかり、憔悴していた夜。
沙耶は彼の話を、夜が明けるまで聞いた。
ただ聞くだけでなく、彼の業界の専門誌を読み漁り、参考になりそうな海外の事例まで調べて、数日後、「こんなのはどうかな」と分厚い資料を差し出したのだ。
その時の、彼の引きつったような、困惑した顔。
「すごいな、沙耶は……。でも、俺、そこまでは求めてないっていうか……。お前のそういうところが、ちょっと、重いんだよ」
善意だった。
彼を助けたい一心だった。
けれど、その深い共感と行動は、彼が一人で乗り越えるべき領域を侵し、彼のプライドを傷つけ、そして彼を疲れさせてしまったのだ。
「私なんて……誰かを幸せにする資格なんて、ないんだ……」 膝に顔を埋めて、嗚咽を漏らす。
私のこの「深さ」は、人を遠ざけるだけの、呪いでしかない。
その時だった。 ふわり、と。 膝の上に、柔らかな重みを感じた。
驚いて顔を上げると、そこに、さくらがいた。
琥珀色の、澄んだ瞳で、じっと沙耶の顔を見上げている。
そして、おずおずと、その小さな前足を沙耶の膝に乗せた。
今まで、決して自分からは触れてこなかったさくらが。
「……さくら?」

沙耶が震える声で呼びかけると、さくらは、まるで「大丈夫だよ」とでも言うように、ゴロゴロと、喉を鳴らし始めた。
その優しい振動が、沙耶の心の奥深くまで、じんわりと染み渡っていく。
さくらも、人間に酷い目に遭わされて、傷ついて、怖くて、ずっと心を閉ざしていた。
それなのに今、泣いている私のそばに、自ら寄り添ってくれている。
この小さな体で、私の大きな悲しみを、丸ごと受け止めようとしてくれている。
沙耶は、そっと手を伸ばし、初めてさくらの背中を撫でた。
柔らかくて、温かい。
さくらは逃げなかった。
それどころか、もっと撫でてほしそうに、すり、と頭を擦り付けてくる。
ああ、そうか。
この「重さ」は、この「深さ」は、呪いなんかじゃなかったのかもしれない。
相手を深く思い、真剣に向き合いすぎてしまうこの不器用な性質は、受け止めきれない人にとっては「重荷」でも、こうして静かに受け止めてくれる存在にとっては、ただの「温もり」になるのかもしれない。
私のこの部分は、欠点なんかじゃなかった。
ただ、それを分かち合う相手が、違っただけ。
沙耶は、さくらを抱きしめた。
さくらは、沙耶の腕の中で、安心したようにゴロゴロと喉を鳴らし続けた。
長年、自分を縛り付けていた呪いが、ふっと解けていく。
それは、弱さの肯定ではない。自分自身が持つ、愛すべき性質の再発見だった。
第五章:春の陽だまりに、猫は鳴く
翌年の春。
あの日と同じように、アパートの前の桜が満開の時を迎えていた。
部屋の窓は大きく開け放たれ、春の柔らかな風が、レースのカーテンを優しく揺らしている。
窓辺のキャットタワーの上では、さくらが気持ちよさそうに日向ぼっこをしていた。
すっかり毛艶も良くなり、その姿にはもう、かつての怯えの影はどこにもない。
沙耶が淹れたコーヒーの香りが、部屋に満ちている。
沙耶は、さくらの隣に腰を下ろし、その柔らかな背中を撫でた。
さくらは心地よさそうに目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らす。
この命の音が、今では沙耶にとって、何よりの宝物だ。
ここには、温かい陽だまりがある。
コーヒーの香りがある。
そして、静かに寄り添ってくれる、かけがえのない存在がいる。
ここが、私の「居場所」だ。
失ったものを嘆くのではなく、今ここにある温もりを、深く、深く、味わう。
私の「深さ」は、そのためにあるのかもしれない。
「さくら」 沙耶が優しく呼びかけると、さくらは、沙耶の顔をじっと見上げ、まるで返事をするかのように、「にゃーん」と長く、そして優しく鳴いた。
それは、何かを要求する声ではなかった。
かつて窓から眺めたミケのように、ただ存在を肯定し、満ち足りた孤独を享受する「鳴かない猫」の段階は、もう超えた。
これは、信頼する相手にだけ聞かせる、
安心と愛情に満ちた「対話」の声だ。 存在そのもので肯定し合う関係性の、美しい完成を告げる音だった。
私たちは、過去の傷を抱えたまま、新しい温もりを信じ、自分の手で幸せを育むことができるのだろうか?
あの日の問いへの答えは、今、この陽だまりの中にある。
沙耶は、窓の外に舞う桜の花びらに目を細めた。
一年前、孤独の中で見上げた桜。
今、隣にいる温もりを感じながら見上げる桜。
同じ桜なのに、世界はこんなにも、鮮やかで、愛おしい。
物語は、まだ始まったばかり。
この温もりを道しるべに、沙耶とさくらの新しい日々は、ゆっくりと、でも確かに続いていく。