その肉球がほどいた、金曜午後の魔法

読者のあなたへ

この物語を読んでくださり、ありがとうございます。

在宅で仕事をしていると、時々、画面の向こうの相手との間に、見えない壁を感じることがあります。

そんな壁を、いとも容易く飛び越えてしまうのが、気まぐれで、愛おしい猫という存在なのかもしれません。

美紀を救ったソラのあの肉球には、「完璧じゃなくても、大丈夫だよ」という、一番大切なメッセージが込められていたように思います。

あなたの日常にも、予期せぬ小さな魔法が訪れますように。

 

完璧な金曜日のための序曲

金曜日の午後。私の仕事部屋は、古い木造アパートの二階にある。窓から差し込む光が空気中の細かな埃を照らし出し、まるでスノードームの中にいるような、静かで穏やかな時間が流れていた。

フリーランスの翻訳家、高橋美紀、三十五歳。

今日の私は、いわば大事な戦いを控えた武将のような心境だった。

デスクの上には、万全の準備が整えられている。

分厚い辞書、資料の束、そして今日の主役であるノートパソコン。

画面には、ドイツの大手製薬会社との、絶対に失敗できないオンライン会議の待機室が表示されていた。

気合を入れるため、戸棚の奥からとっておきのコーヒー豆を取り出す。

それは、昨日、坂の上にあるブックカフェ《月光蟲》で手に入れたものだ。

古書のインクとコーヒーの香りが混じり合う、あの店の静かな空間が好きだった。

物静かなマスターは、私の顔を見るなり、カウンターの奥から小さな紙袋を取り出した。

「高橋さん、お待ちしてました。とっておきの豆です」

「ありがとうございます。明日、大事な仕事なんです」

そう答えた私の顔が、よほど強張っていたのだろう。

マスターは、柔らかな笑みを浮かべて、こう言ったのだ。

「また、戦に行くような顔をしてますね。これはお守りの豆ですが……覚えておいてください。一番大切なのは、きっと、楽しむことですよ」

楽しむこと、か。

フリーランスの仕事は、楽しむなんて悠長なことを言っていられない。

結果がすべてだ。

私はマスターの言葉を心の隅に追いやり、豆を挽く硬質な音に意識を集中させた。

ふわりと立ち上る芳醇な香りが、私の心のスイッチを「日常」から「戦闘モード」へと切り替える。

「よし…」

淹れたてのコーヒーを一口含み、深く息を吸う。

期待と不安が入り混じった、日曜の夜のような静かな高揚感。

完璧な資料、完璧な応答シミュレーション、そして完璧な私。大丈夫、やれる。

その時、足元でふわりと柔らかな何かが動いた。

「ソラ」

見下ろすと、そこにいたのは私の唯一の同居人、アメリカンショートヘアのソラ。

御年三歳、プライドが高くクールな性格の、小さな豹のような美しい猫だ。

彼は、私が仕事中は決して邪魔をしない。

それが、彼との暗黙のルールだった。

ソラは、まるで戦いの重要性を理解しているかのように、私の足に一度だけすり、と身体を寄せると、窓辺の一番日当たりの良い場所へと移動した。

そして、優雅に香箱座りを決め込むと、ふぁ、と小さなあくびを一つ。

その姿は、「我関せず」を貫く孤高の賢者のようだった。

「ありがとう、ソラ。すぐ終わらせるからね」

私はその賢い同居人に微笑みかけ、再び画面に向き直った。

開始時刻の午後二時半まで、あと五分。

心臓の音が、冷却ファンの静かな音にかき消されていく。

この完璧な静寂こそが、私の城を守る城壁なのだ。

この時の私は、まだ知る由もなかった。

私の鉄壁の城が、一番信頼していたはずの、その小さな賢者の柔らかな肉球によって、いとも容易く崩されることになるなんて。

そして、マスターの言葉の本当の意味を、この後すぐに知ることになるなんて。

 

氷の会議室と、沈黙の賢者

 

午後二時半、定刻通りに画面が切り替わり、三つの顔が映し出された。

中心にいるのが、プロジェクト責任者のヘルマン・シュナイダー氏。

彫りの深い顔に、怜悧な眼光。

背景のミニマルなオフィスが、彼の厳格な性格を物語っている。

その両脇を固める法務担当の女性と技術担当の男性も、同じように硬い表情だ。

「Guten Tag, Frau Takahashi.(こんにちは、高橋さん)」

シュナイダー氏の低い、氷のような声が響く。私は背筋を伸ばし、練習通りの完璧な笑顔と流暢なドイツ語で挨拶を返した。

会議は、膨大な契約書の条文を一つ一つ確認していく、一言一句も聞き逃せない緊張感に満ちたものだった。

私は神経を研ぎ澄まし、的確に相槌を打ち、質問には淀みなく答えていく。

(いける…! 準備通りだわ)

手応えを感じていた。

シュナイダー氏も時折小さく頷いている。

この調子なら、無事に終えられる。

安堵しかけた、その時だった。

にゃーん…

か細い、しかしやけに甘えた声が、部屋の隅から聞こえた。

ちらり、と視線を窓辺に向ける。

さっきまで賢者のように鎮座していたはずのソラが、いつの間にか立ち上がり、こちらをじっと見つめていた。

その金色の瞳が、何かを訴えかけている。

(だめよ、ソラ。今だけは、お願いだから…)

心の中で念じるが、ソラは優雅な足取りで、しかし真っ直ぐに、私の方へと歩みを進めてくる。

その一歩一歩が、私の心臓に杭を打ち込む音のように聞こえた。

「……失礼。それで、第15条の機密保持契約についてですが……」

私は動揺を悟られまいと声を一段張るが、ソラはもう私の足元だ。

スラックスの裾に、ふわりと柔らかな毛が触れる。

「にゃっ」

今度は、もっとはっきりとした要求の声。

そして、ごり、ごりと頭を私の脛に擦り付けてくる。

いつもなら骨抜きにされる仕草だが、今は冷や汗が背中を伝うだけだ。

シュナイダー氏の眉が、僅かにひそめられた気がした。

(どうして? いつもはこんなことしないじゃない!)

焦りと、裏切られたような気持ちが胸をざわつかせる。

ソラは私の膝に前足をかけ、よじ登ろうとしてくる。

私は机の下でそっとソラを押し留めようとするが、彼は液体のようにその手をすり抜け、ついに私の膝の上へと軽やかに飛び乗ってきた。

私は画面に向かって微笑みながら、膝の上の約五キロの温かい毛玉の存在を、全身全霊で気配を消していた。

だが、賢者ソラは、そんな私の必死の抵抗を嘲笑うかのように、次の行動に出た。

「にゃーーーお!」

今度は、全世界に届けとばかりの、堂々たる一声。

そして、満足げに私の膝の上で身体の向きを変えると、おもむろにデスクの上へとその美しい前足をかけたのである。

万事休す。

モニターの向こうで、三対の目が、訝しげに私を見つめていた。

 

肉球が奏でた、予期せぬ狂詩曲(ラプソディ)

 

「……Frau Takahashi, 何か問題でも?」

シュナイダー氏の鋭い声が、私の混乱を貫いた。

私の思考は完全にフリーズしていた。

膝の上のソラは、今や上半身をデスクに乗り出し、獲物を狙う豹のように、ノートパソコンのキーボードを観察している。

その金色の瞳が、怪しくきらめいた。

(やめて、お願い、そこだけは……!)

心の悲鳴は、声にならない。

私が何か言葉を発するより早く、ソラは軽やかに、しかし断固たる意志を持って、キーボードの中央に着地した。

『dふぁsぢfはlっkhじゃs度fぃh!!!!!!!!』

チャットウィンドウに、意味不明の文字列が乱れ飛ぶ。

さらに、ソラが器用に身体の向きを変えた瞬間、そのふわふわの尻尾が、電源ボタンのすぐそばを掠めた。

青いランプが、ちかちかと不穏に点滅する。

「あ、あの、申し訳ありませ……!」

私がパニック混じりの声で謝罪しようとした、その刹那。 事件は起こった。

ソラは、まるで「仕上げだ」とでも言うように、ふに、と柔らかな肉球で、一つのキーを優雅に、しかし的確に、押したのである。

カチッ。

次の瞬間、私の画面に表示されていた共有資料が消え、代わりに映し出されたのは、焦りと混乱で顔面蒼白になった、私自身のドアップだった。

ミュートが解除され、カメラがオンになったのだ。

しかも、カメラのすぐ目の前には、フレームいっぱいに、ソラの満足げな顔と、ピンク色の小さな肉球が鎮座している。

「…………」 「…………」 「…………」

モニターの向こうの三人が、完全に沈黙した。

永遠にも感じられる数秒間。

私の頭の中では、「契約破棄」「違約金」「フリーランス人生終了」という絶望的な単語が、高速で回転していた。

ああ、終わった。

私の完璧な金曜日は、この小さなテロリストの肉球一つで、木っ端微塵に砕け散ったのだ。

諦めに似た感情で、ぐったりと肩を落とした、その時だった。

「……ぷっ」

スピーカーから、押し殺したような音が聞こえた。

見ると、画面の向こうで、一番若手の技術担当の男性が、必死に笑いを堪えて肩を震わせている。

法務担当の女性も、固く結んでいた口元が緩み、手で口元を覆っていた。

そして、信じられないことに。 氷のようだったヘルマン・シュナイダー氏が、その怜悧な目を細め、静かに、しかし確かにつぶやいたのだ。

「……American Shorthair,ですね?」

「え?」

予想外の言葉に、私は素っ頓狂な声を上げた。

シュナイダー氏は、先程までの厳格な表情が嘘のように、穏やかな笑みを浮かべていた。

「美しいシルバータビーだ。うちにもいるんですよ、二匹」

そう言うと、彼はくるりと自分の椅子を回転させた。

そして、カメラに映し出されたのは、シュナイダー氏の足元で、気持ちよさそうに昼寝をしている、二匹のメインクーンの姿だった。

「あ……」

呆然とする私に、シュナイダー氏は悪戯っぽく笑いかける。

「失礼。自己紹介が遅れましたね。ヘルマン・シュナイダー、猫アレルギーの妻に内緒で、オフィスをキャットシェルター代わりにしている、ただの猫好きです。あなたの猫くんは、私があなたをいじめているとでも思ったのかな?」

その言葉を皮切りに、まるでダムが決壊したかのように、場の空気が一気に和らいだ。

「うちの実家もアメショでした!」と技術担当の男性が言えば、「私は犬派ですけど、猫の肉球は正義だと思います」と法務担当の女性が微笑む。

私の膝の上では、英雄ソラが「ふん、当然だ」とでも言いたげに、毛づくろいを始めている。

キーボードの上には、彼の犯行の証拠である、小さな抜け毛が数本、誇らしげに残されていた。

私は、あまりの展開に、ただただ、瞬きを繰り返すことしかできなかった。

焦りと愛情がごちゃ混ぜになった、悲鳴を飲み込むような混乱の後に訪れたのは、諦めに似ているけれど、どこか温かい、まるで日向水のような安堵感だった。

議事録に残るであろう、意味不明の文字列『dふぁsぢfはlっkhじゃs度fぃh』。

それは、ソラがこの氷の会議室にかけた、最高に愉快な魔法の呪文だったのかもしれない。

 

完璧じゃない、金曜日の祝福

 

その後の会議は、嘘のようにスムーズに進んだ。

シュナイダー氏たちは、時折「ところで、猫くんの名前は?」などと雑談を挟みながらも、仕事は驚くほど迅速かつ的確だった。

あれほどまでに分厚く感じられた彼らの鎧はすっかり脱ぎ捨てられ、そこにいたのは、誠実で、ユーモアのセンスもある、一人のプロフェッショナルだった。

「では、高橋さん。この内容で契約を締結させていただきたい。今後のあなたの翻訳、楽しみにしていますよ。……猫くんにも、よろしく」

最後のシュナイダー氏の言葉に、私は深く、深く頭を下げた。

「こちらこそ、ありがとうございます。今後とも、よろしくお願いいたします」

会議が終了し、画面がデスクトップに戻った瞬間、私は全身から力が抜けるのを感じた。

強張っていた肩がふっと軽くなり、深い溜め息が漏れる。

「……はぁ〜〜〜……」

静寂を取り戻した部屋で、私はゆっくりと膝の上を見下ろした。

すべての元凶であり、そして最大の功労者であるソラは、私の安堵した様子を察したのか、ゴロゴロと満足げに喉を鳴らしている。

その小さな頭を撫でると、柔らかい毛の感触と、確かな温もりが手のひらに伝わってきた。

「ソラ……あなた、全部わかってたの?」

私がどれだけ肩に力を入れていたか。

完璧であろうとするあまり、見えない壁を作っていたこと。

ソラはもちろん答えない。ただ、ゴロゴロという喉の音が、まるで「そうだよ」と言っているように聞こえた。

その時、ふと、脳裏にブックカフェのマスターの言葉が蘇った。

——一番大切なのは、きっと、楽しむことですよ。

ああ、そうか。

私は、心の底から、すとんと何かが腑に落ちるのを感じた。

楽しむ、というのは、ただヘラヘラと笑うことじゃない。

完璧な準備をした上で、予期せぬハプニングさえも受け入れ、面白がる心の余裕を持つこと。

相手の人間らしさに触れ、自分の人間らしさも見せること。

そうやって生まれる温かい空気の中でこそ、最高の仕事が生まれるのかもしれない。

マスターが言っていたのは、こういうことだったんだ。

そして、それを教えてくれたのは、言葉を持たない、この小さな賢者だった。

私は、たまらない愛しさに包まれて、ソラをぎゅっと抱きしめた。

「ありがとう。もう、めちゃくちゃ焦ったけど……本当に、ありがとう」

窓の外は、いつの間にか優しいオレンジ色の光に包まれていた。

金曜日の午後、戦いは終わり、穏やかな週末が始まろうとしている。

完璧じゃなくてもいい。ままならないことだってある。

不完全な自分と、不完全で愛おしいこの世界。それらを丸ごと受け入れて、生きていく。

ソラの柔らかな肉球が教えてくれたのは、そんな、ささやかで、けれど何よりも大切な、金曜午後の魔法だった。

これからの仕事も、きっと山あり谷ありだろう。

でも、この温かい毛玉の同居人がいれば、どんなハプニングも笑い飛ばせる気がした。

私は立ち上がり、ソラのためにとっておきのカツオ節を用意しに、キッチンへと向かった。

私のフリーランス人生は、この魔法のおかげで、まだまだ楽しく続きそうだ。

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