読者のあなたへ
この物語の、読んでくださり、本当にありがとうございます。史緒さんとユキの物語が、あなたの心の柔らかな場所に、そっと届いたならと願っています。
今回、物語を磨き上げる中で、史緒さんがミーに心で誓いを立てる最後の場面を、特に大切に描きました。彼女の誓いに、ユキがまるで返事をするかのように涙を舐める、あの小さな奇跡。それは、失った愛が決して無に帰すのではなく、姿を変えて、私たちを励まし続けてくれる証なのだと、私自身も信じたいからです。
もしあなたが今、薄荷色の孤独の中にいるとしても、大丈夫。その部屋の窓から、いつかきっと、温かいミルクティー色の光が差し込む日が来ます。
また、私の世界のどこかでお会いできる日を楽しみにしています。

薄荷色の孤独
十二月。街は、まるで誰かの幸福を見せつけるみたいに、きらきらと光の破片を散りばめていた。
ショーウィンドウにはしゃぐ恋人たち。
手袋を片方だけ外して、スマートフォンの画面をなぞる横顔。
そのすべてが、今の私には遠い国の出来事のようだった。
図書館司書という仕事は、静かで、規則正しい。本の背表紙を指でなぞり、貸出記録を打ち込む。
その変わらない日常が、以前は好きだった。
でも、今は違う。
静けさはがらんどうの部屋のようで、規則正しさは、ただ同じ悲しみを繰り返すだけの円舞曲に思えた。
宮田史緒、四十二歳。独身。
そして、三ヶ月前から、ペットロスという名の長いトンネルの住人。
部屋の空気は、ミーがいた頃より心なしか薄い気がした。
冷たく、どこかスースーと心許ない、まるで薄荷色をした孤独が、部屋の隅々にまで満ちている。
「ただいま」
古い木造アパートのドアを開けても、弾かれたように駆け寄ってくる小さな影はない。
パタパタという軽い足音も、喉を鳴らすゴロゴロという振動も聞こえない。
代わりに私を迎えるのは、しんと冷えた空気と、この部屋の主であったはずの「不在」という名の確かな存在感だけだった。
ミー。
十五年間、私の人生そのものだった三毛猫。
秋の初め、老衰で、私の腕の中で静かに眠りについた。
獣医は「大往生ですよ」と慰めてくれたけれど、そんな言葉は気休めにもならなかった。
私の世界の中心にあった温かい太陽が、ふっと消えてしまった。
それだけのことだ。
カレンダーに記された「クリスマス・イブ」の赤い文字が、棘のようにちくりと心を刺す。
ミーがいた頃は、ささやかながらも二人でパーティーをしたものだ。
猫用のケーキを前に、きょとんとした顔をするミーの写真を撮るのが、毎年の恒例だった。
今年は、一人。
友人は「うちにくる?」と誘ってくれたけれど、丁重に断った。
賑やかな場所に行けば、余計にミーの不在が際立ってしまう気がしたから。
それに、心のどこかで、この悲しみを誰にも邪魔されずに、一人でじっくりと抱きしめたいという頑なな気持ちもあった。
これは、私とミーだけの、聖域なのだと。
夕食は、コンビニで買ったパスタで簡単に済ませた。
味なんて、よく分からない。
テレビをつけると、楽しげな音楽と笑い声が溢れ出してきて、すぐに消した。
窓の外では、いつの間にか雪が舞い始めていた。
音もなく降る雪は、街の喧騒をすべて吸い込んで、世界から音を奪っていくようだった。
まるで、今の私の心の中みたいに。
「…そろそろ、片付けないと」
ぽつりと呟いた声は、静寂に吸い込まれて消えた。
クローゼットの奥にしまい込んだ、ミーの思い出の品々。
首輪、おもちゃ、使い古した毛布。
それらを整理しない限り、私は前に進めない。
分かっている。
分かっているけれど、その箱を開けることは、ミーとの思い出に、私自身の手で終止符を打つ行為に思えて、ずっとできなかった。
でも、今日なら。
この、世界から切り離されたような静かな夜なら、できるかもしれない。
私はゆっくりと立ち上がり、クローゼットの扉に手をかけた。
窓の向こうの小さな命
ぎ、と鳴る扉の音すら、この部屋ではやけに大きく響いた。
段ボール箱を取り出すと、うっすらと埃が積もっている。
たった三ヶ月。
されど三ヶ月。
箱の上には、私が知らない時間が流れていた。
蓋を開けると、最初に目に飛び込んできたのは、赤いチェック柄の首輪だった。
小さな鈴がついていて、ミーが歩くたびに、ちりんと優しい音を立てた。
その音は、私の日常の背景音楽だった。
指でそっと鈴に触れる。
記憶の中の音が、耳の奥で鮮やかに蘇って、視界が滲んだ。
次から次へと、思い出が溢れ出す。
夢中で追いかけたねずみのおもちゃ。
爪とぎでボロボロになった小さなクッション。
日向の匂いが染みついた、柔らかな毛布。
一つ一つを手に取るたびに、ミーの温もりや、喉を鳴らす振動、甘えたような鳴き声が、幻のように立ち現れる。

楽しかった。
本当に、幸せだった。
私の人生は、この小さな生き物で満たされていた。
「ミー…会いたいよぉ…」
堪えきれず、嗚咽が漏れた。
膝から崩れ落ちるように床に座り込み、ミーの毛布を顔に埋める。
もう匂いは薄れてしまっているはずなのに、不思議と、あの懐かしい陽だまりの香りがした。
涙が次から次へと溢れて、毛布に染み込んでいく。
どれくらい、そうしていただろう。
しゃくりあげる合間に、ふと、窓の外で何かが動いた気がした。
雪は、いつの間にか勢いを増している。
見間違いだろうか。涙を手の甲で乱暴に拭い、窓辺ににじり寄った。
窓の外、アパートの通路の隅で、小さな何かがうずくまっていた。
茶色くて、雪を被って、じっと動かない。
「……猫?」
目を凝らすと、それは小さな子猫だった。
生後、まだ数ヶ月だろうか。
寒さに耐えるように、体をこれでもかと丸めている。

時折、ぴく、と耳が動くのが見えた。
心が、大きく揺れた。
『助けなきゃ』という本能と、『もう二度と、飼うつもりはない』という固い決意が、胸の中で激しくぶつかり合う。
新しい子を迎えることは、ミーを裏切るような気がした。
ミーがいた場所を、他の誰かで埋めてしまうなんて、できない。
ミーの代わりなんて、どこにもいないのだから。
でも、あの小さな体は、明らかに助けを求めていた。
このままでは、朝には凍えてしまうだろう。
見て見ぬふりをする?
この、ミーを失った悲しみでいっぱいの私が?
ミーが知ったら、きっと悲しむ。
あの優しい子は、きっと「助けてあげて」と言うに違いない。
葛藤は、数分にも、数時間にも感じられた。
窓ガラスを隔てて、私と子猫は、それぞれの孤独の中にいた。
私の内側で凍てついた時間と、子猫の外側で凍てつく現実。
「……今回だけ。温まったら、保護団体に連絡する」
誰にともなく言い訳をするように呟き、私は重い腰を上げた。
玄関のドアを開けると、雪をまとった冷気が、容赦なく頬を撫でた。
溶けゆく心の氷
子猫は、驚くほど軽かった。
震える体を古いバスタオルでそっと包み、部屋に招き入れる。
最初は警戒して隅の方で固まっていたけれど、温かい部屋の空気に少し安心したのか、やがて小さな声で「みゃあ」と鳴いた。
それは、か細く、助けを求めるような声だった。
キッチンで人肌に温めた牛乳を皿に入れてやると、夢中で飲み始めた。
その小さな背中が、懸命に生きようとしている証に見えた。
牛乳を飲み干し、口の周りを真っ白にした子猫が、おずおずと私を見上げる。
その潤んだ瞳は、透き通った琥珀色をしていた。
「……ばかだな、私」
『今回だけ』なんて、心にもないことを。
こんな小さな命を前にして、見捨てることなんてできるはずがなかった。
その夜、子猫は私が用意した段ボールのベッドには目もくれず、ミーの遺品が入った箱のそばで丸くなって眠った。
まるで、そこに残るかすかな同類の匂いに、安心を求めているかのように。
その光景は、私の胸を締め付けた。
翌日から、ぎこちない共同生活が始まった。
私は仕事に行く前に、子猫のためのトイレとフードを買いに走った。
ペットショップの蛍光灯が照らす無機質な棚の前で、私は立ち尽くしていた。
ずらりと並んだキャットフードのパッケージ。
いつもミーのために買っていた銘柄が目に入り、一瞬、足がすくむ。
その時だった。ふいに鼻の奥を掠めたのは、まったく別の香り。
それは、坂の上にあるブックカフェ《月光蟲》の、あの香りだ。
古書のインクと、深く焙煎されたコーヒー豆が混じり合う、静かで知的な香り。
耳の奥には、店内に低く流れていたチェロの音色が蘇るようだった。
ミーを亡くして塞ぎ込んでいた私に、物静かなマスターは静かに語ってくれた。
「時間は、悲しみを消してくれるわけじゃない。悲しみと共に生きていく強さをくれるんですよ」。
その言葉が、カフェの感覚的な記憶と共に、温かい実感のこもった「お守り」のように、胸の内で輝いた。
そうだ、私は強くなるんだ。

私は一つ一つ成分表示を確かめながら、子猫用のミルクと柔らかいフードをカゴに入れた。
それは、悲しみとは違う、どこか前向きな責任感だった。
家に帰ると、子猫はスリッパにじゃれついて遊んでいた。
私が部屋に入ると、ぱっと顔を上げ、短い尻尾をぴんと立てて駆け寄ってくる。
その無邪気な姿に、思わず笑みがこぼれた。
そうだ、忘れていた。
猫のいる生活は、こんな風に、予測不能な喜びに満ちていたのだ。
ある晩、ソファでうたた寝をしてしまった私の頬を、子猫がそっと舐めた。
ざらりとした小さな舌の感触。
それは、かつてミーが、私が泣いているといつもしてくれたことだった。
「…ミー?」
寝ぼけ眼で呟くと、子猫は「みゃ?」とでも言うように、くりくりとした瞳で私を見つめ返した。
違う。
この子はミーじゃない。
分かっている。
でも、その温もりと優しさは、確かにミーから受け継いだ何かのように感じられた。
ミーへの罪悪感が、消えたわけじゃない。
ふとした瞬間に、どうしようもないほどの喪失感に襲われることもある。
でも、目の前の小さな命は、その悲しみに沈む私を、必死に現実へと引き戻してくれる。
凍てついていた私の時間が、この子の温もりで、少しずつ、少しずつ溶かされていくのが分かった。
不完全なまま、私たちは生きていける。
マスターの言葉と、目の前の小さな命が、そう教えてくれている気がした。
未来からの足音
クリスマスから数日が過ぎた、大晦日の夜。
子猫はすっかりこの部屋に慣れて、私の定位置であるソファの肘掛けで、満足げに喉を鳴らしていた。
窓の外では、また雪が静かに舞っている。
私はこの数日間、ずっと考えていた。
この子に、名前をつけなければ。
それは、この子を正式に家族として迎え入れる、
私にとっての儀式だった。
ふと、子猫が私の膝から降りて、窓辺へと歩いていった。
そして、窓ガラスに映る自分の姿と、その向こうでしんしんと降る雪を、じっと見つめている。
その小さな背中。
雪…。

あの日、私の凍てついた心を象徴するようだった、あの夜の雪。
でも、今は違う。
この雪は、すべての悲しみや後悔を、その白いヴェールで優しく覆い隠してくれるようだった。
そして、この雪がやがて溶けたなら、きっと新しい季節が、柔らかな日差しと共にやってくる。
悲しみを浄化する純白の静けさと、未来を約束する希望のしるし。
その両方の意味を込めて、私はそっと呼びかけた。
「ユキ…」
呼んでみると、子猫はゆっくりと振り返り、私の足元にすり寄ってきた。
まるで、ずっとその名前で呼ばれるのを待っていたかのように。
「そう、あなたの名前はユキよ。よろしくね」
私はユキをそっと抱き上げる。
腕の中の温かさと、確かな重み。
それは、命の音だった。
失った愛の記憶は、新しい扉を開く鍵になる。
ミーが、最後の力で、この子を私の元へ導いてくれたのかもしれない。
そう思うと、ミーへの愛しさと感謝が、新しい形で胸に満ちてくるのを感じた。
乗り越える、なんて大げさなものじゃない。
忘れることなんて、到底できない。
でも、それでいいんだ。ミーへの愛は、私の心の中で永遠に輝く星。
そしてユキは、その星の光に導かれてやってきた、未来からの小さな足音。
私はユキを抱きしめたまま、窓の外の雪景色を見つめた。
「ミー、見てる? 新しい家族ができたよ。あなたの思い出も、ずっと大切にしていくからね」
心の中で、けれどはっきりと、私はミーに誓った。
その瞬間だった。腕の中のユキが、まるでその誓いを聞いていたかのように、顔を上げた。
そして、私の頬にそっと近づき、小さなざらついた舌で、乾きかけた涙の跡をぺろりと舐めたのだ。
ゴロゴロ…ゴロゴロ…。
体の中から響いてくるその振動は、ただの猫の鳴き声ではなかった。
「大丈夫だよ」とでも言うような、確かな肯定の響きがあった。
薄荷色だった部屋の孤独は、いつの間にか消えていた。
代わりに、温かいミルクティーのような、甘やかで穏やかな空気が満ちている。
新しい年が、もうすぐやってくる。
ユキと共に歩む、新しい時間が始まる。
雪の足跡は、未来へと続いていた。