黒猫が灯した、かぼちゃ色の夜

読者のあなたへ

この物語は、私の部屋で眠る愛猫が、時々、とんでもない寝相をしているのを見て生まれました。計画通りにいかない毎日も、彼らの気まぐれな行動ひとつで、忘れられない特別な日に変わることがあります。あなたの日常にも、そんな愛おしいハプニングが隠れているかもしれません。この物語が、あなたの足元で眠る小さな家族への、温かい気持ちのきっかけになれたなら幸いです。

 

完璧な十月のためのプレリュード

十月の声を聞くと、私の心には小さな舞台監督が住み着く。

アパートの窓から差し込む光が、夏のそれとは違う、どこか物静かで思慮深い色合いを帯び始める頃。

雑貨店「ルミエール」の店長でもある私は、一年で最も心躍る季節の到来を、誰よりも敏感に感じ取っていた。

そう、ハロウィンだ。

伊藤千尋、三十三歳、独身。

人からは「イベント事に全力投球だね」と、呆れ半分、感心半分といった顔で言われるけれど、私にとって季節の行事を祝うのは、単調になりがちな日々に自分自身で祝祭を与えるための、大切な儀式だった。

乾いた土に水をやるように、心にも特別な潤いが必要なのだ。

今年も、店のディスプレイをオレンジと黒に染め上げながら、自宅でのパーティー計画を着々と進めていた。

メニューはかぼちゃのグラタンと、蜘蛛の巣を模したチョコレートケーキ。

BGMは少し古びたジャズ。

そして、部屋の飾り付けは、完璧でなければならない。私の美学だった。

「…だからジジ、それはダメだってば」

私の完璧な計画に、唯一にして最大の問題提起をしてくれる存在。

それが、同居人である黒猫のジジだ。

艶やかな黒い毛皮は夜の闇を溶かし込んだようで、その中に光る金色の瞳は、まるで熟したカリンの実のようだった。

賢くて、静かで、そしてとんでもない、いたずら好き。

床に置いたばかりの、手のひらサイズの観賞用かぼちゃを、ジジは前足でそろり、と転がした。

コロン、と乾いた音を立ててフローリングを滑るオレンジ色の球体。

それを追いかける黒い弾丸。

楽しそうなのは結構だけれど、そのかぼちゃはソファの足元に飾る、計算され尽くした配置の一部なのだ。

「こら、ジジ。それはおもちゃじゃないの」

言いながらも、本気で怒れない自分に気づいて苦笑する。

ジジは私の足元にすり寄り、「僕は何も知りません」とでも言いたげな顔でひとつ、にゃあ、と鳴いた。

その計算された愛らしさに、私はいつも負けてしまう。

窓の外では、夕暮れが街をセピア色に染めていた。

遠くで聞こえる電車の通過音。

部屋に漂う、古書のインクと、先ほど淹れたばかりのコーヒーが混じり合う、私だけの世界の香り。

この静かな時間も好きだけれど、もうすぐこの部屋は、大切な友人たちの笑い声で満たされるのだ。

スマートフォンの画面には、友人たちとのグループチャットが表示されている。

『千尋、今年の仮装テーマは?』と美咲。

『千尋のことだから、また完璧な計画立ててるんでしょ? ほどほどにね(笑)』と沙織が茶化す。

キーボードを叩きながら、自然と口元が緩む。

今年のパーティーには、高校時代からの友人である美咲と沙織が来てくれる。

美咲は最近、白猫の「ルナ」を家族に迎えたばかりだった。

『美咲、よかったらルナちゃんも一緒にどう? ジジも会いたがってる…たぶん』

送信ボタンを押すと、すぐに『いいの!? 連れてく!』というスタンプ付きの返信があった。

『沙織、あんまり千尋をいじめないの!』という美咲の言葉に、沙織がひらひらと手を振るスタンプを返す。

気心の知れたやりとりに、胸が温かくなる。

黒猫のジジと、白猫のルナ。

モノクロームの猫たちが同じ部屋にいる光景を想像して、胸がときめいた。

これが、いわゆる「多頭飼い」の予行演習になるのかもしれない。

いつかは、ジジにも弟か妹を、なんて夢想することもあるのだ。

「ジジ、お友達が来るよ。仲良くするんだよ」

言い聞かせると、ジジは私の膝の上で喉を鳴らし、金色の瞳を細めた。

その瞳の奥に、どんな企みが隠されているのか、この時の私には知る由もなかった。

ただ、最高のパーティーになるだろうという、日曜の夜のような静かな高揚感が、胸を満たしていた。

完璧な一日になるはずだったのだ。

いたずら猫と進まない準備

パーティー開催まで、あと三日。

仕事から帰った私は、クローゼットの奥からハロウィン用の飾り付けが入った段ボール箱を引っ張り出した。

蓋を開けると、フェルトでできた黒猫のガーランドや、キラキラ光る蜘蛛の巣、そしてオレンジ色の小さなLEDライトが顔を出す。

「さて、始めますか」

独りごちて、まずは壁にガーランドを飾ろうと画鋲を手に取った。

その時だ。

背後で、ガサガサ、と段ボールを漁る音。

振り返ると、ジジが箱の中にすっぽりと収まり、満足げな顔でこちらを見上げていた。

「ジジ…そこは君のベッドじゃないんだけどな」

私が手を伸ばすと、ジজিは素早く身を翻し、口にキラキラの蜘蛛の巣を一枚くわえて飛び出した。

「あっ、こら!」

追いかける私。

逃げる黒い影。

まるでトムとジェリーのようで、我ながら滑稽だとは思う。

ようやく捕まえて蜘蛛の巣を取り返すと、それはもうジジのよだれでしっとりと湿っていた。

はあ、とため息をついて、ティッシュでそっと拭く。

猫のいる暮らしとは、こういうことだ。思い通りにいかないことの連続。

でも、その予測不能な動きに、心がふっと軽くなる瞬間があるのも事実だった。

「猫のしつけ、なんて言うけど、結局は人間の方が猫の流儀に合わせるしかないのかもね」

拭き終えた蜘蛛の巣を壁に貼り付けながら、ぽつりと呟く。

ジジはそんな私の独り言など気にも留めず、今度は仮装用に用意していたシルクハットのリボンにじゃれつき始めた。

紫色のサテンリボンが、ジジの俊敏な猫パンチによって小刻みに揺れている。

パーティー前日。

なんとかケーキを完成させ、冷蔵庫で冷やす。

ふとリビングに目をやると、ソファの上に置いたはずの私の魔女の帽子が、床に落ちていた。

そして、その上でジジが香箱座りをしている。

まるで、自分の戦利品だとでも主張するように。

「……もう、好きにしてちょうだい」

諦めに似ているけれど、どこか温かい、日向水のような安堵感が胸に広がった。

完璧な準備なんて、この賢くて愛らしい妨害者と暮らしている限り、土台無理な話なのだ。

私は強張っていた肩の力をふっと抜き、ジジの隣に腰を下ろして、その柔らかい背中を撫でた。

ゴロゴロ、という満足げな振動が、私の手のひらに伝わってくる。

まあ、いいか。

少しくらい散らかっていても、計画通りに進まなくても。

みんなが笑ってくれれば、それで。

そう思い直した矢先、ジジがすくりと立ち上がり、何かを企むように耳をぴんと立てた。

その金色の瞳が、部屋の隅に置かれた、パーティーの切り札ともいえる「ある物」に向けられていることに、私はまだ気づいていなかった。

トリック・オア・トリート、時々、大騒動

パーティー当日。

午後六時。

チャイムの音が、祭りの始まりを告げた。

「いらっしゃーい!」 ドアを開けると、魔女の帽子をかぶった沙織と、少し緊張した面持ちの美咲が立っていた。

美咲の腕には、真っ白な毛玉…ではなく、思ったよりも堂々とした白猫のルナが抱かれている。

「お邪魔しまーす! うわ、すごい! 千尋の部屋、もうハロウィン一色じゃん!」 沙織が歓声を上げる。

美咲も「すごいね、毎年思うけど、お店みたい」と感心してくれた。

乾杯の音頭と共に、パーティーは和やかに始まった。

手作りのグラタンもケーキも好評で、高校時代の思い出話や、最近見た映画の話で盛り上がる。

猫たちはといえば、ジジは相変わらず窓辺で静かに香箱座り。

キャリーケースから出されたルナは、ソファの下の薄暗い空間が気に入ったのか、そこから用心深く顔を出すだけ。

まるで示し合わせたかのように、お互い不干渉を貫いている。

事件は、唐突に起きた。

部屋の隅に置いてあった、私のとっておきの仕掛け。

それは、人が近づくとセンサーが反応して、不気味な笑い声と共に蓋が開き、中から骸骨の手が飛び出してくる、というおもちゃのゴミ箱だった。

そのゴミ箱に、ゆっくりと、しかし確信に満ちた足取りで近づいていく黒い影があった。

ジジだ。

ジジはゴミ箱に向かう前、ソファの下で息を潜める小さな白い塊に、一瞬だけ視線を送った。

まるで、何かを確かめるように。そして、くるりと向き直ると、ゴミ箱の前でぴたりと止まった。

「え、ジジ? 何してるの?」

ジジは器用に前足を伸ばし、センサー部分をポン、と叩いたのだ。

『ギャハハハハハ!』

けたたましい笑い声が部屋に響き渡り、バンッ!と音を立てて蓋が開いた。

中から白い骸骨の手が、にゅっと突き出る。

「「「きゃあああああ!」」」

私と友人たちの悲鳴が重なった。

驚いたのは人間だけではない。

ソファの下にいたルナが、文字通り飛び上がって部屋の中を猛ダッシュし始めた。

白い稲妻のように、テーブルの下をくぐり、カーテンに駆け上る。

「ルナ、落ち着いて!」

美咲の悲鳴も虚しく、パニック状態のルナは、壁に飾ってあったガーランドに前足を引っかけてしまった。

ビリッ、という音と共に、フェルトの黒猫たちが床に散らばる。

そして、騒動の火付け役であるジジはというと、すべての惨状を見下ろせる冷蔵庫の上にいつの間にか移動し、実に満足げな顔でちょこんと座っているではないか。

その姿は、まるでオーケストラの指揮者のようだった。

一瞬の静寂。

散らばったガーランド。

カーテンにしがみつく白猫。

冷蔵庫の上でふんぞり返る黒猫。

そして、呆然と立ち尽くす私たち三人。

その奇妙な光景に、誰からともなく、くすっ、と笑いが漏れた。

やがて、一つの声が弾けた。

「あー、お腹痛い! 最高じゃない、ジジ!」

一番に声を上げて大爆笑したのは、昔から私の性格を誰よりも理解してくれている沙織だった。

「こういうハプニングこそ、千尋のパーティーの醍醐味じゃない! 完璧なんて、あなたらしくないって!」

沙織の言葉が、魔法の鍵になった。

堰を切ったように、美咲も私も笑い出した。

涙が出るほど笑った。

計画も、飾り付けも、スマートな進行も、すべてがめちゃくちゃになった。

けれど、部屋に満ちているのは、失敗への落胆ではなく、心からの笑い声と、不思議な一体感だった。

強張っていた肩の力が、完全に抜けていくのを感じた。

ジジの仕掛けた、最大級のトリック。

それは、私たちに最高のトリート(おもてなし)をプレゼントしてくれたのだ。

冷蔵庫の上から私たちを見下ろすジジの金色の瞳が、得意げに細められたように見えた。

心の聖域に灯るもの

大騒動の後、パーティーはさらに盛り上がった。

床に散らばったガーランドを拾い集めながら、「これはこれで、現代アートみたいじゃない?」と笑い合い、カーテンにしがみついたまま降りてこられなくなったルナを、

三人で協力して救出した。

すっかり落ち着きを取り戻したルナは、なぜか騒動の張本人であるジジの隣に寄り添い、小さな頭をすり寄せている。

ジジも、今度は逃げもせず、まんざらでもない顔でそれを受け入れていた。

まるで、共に大きな仕事を成し遂げた共犯者同士のように見えて、また笑ってしまった。

友人たちが帰った後、部屋には心地よい静けさが戻ってきた。

窓を開けると、ひやりとした夜風が流れ込み、遠くの喧騒を運んでくる。

さっきまでの賑わいが嘘のようだ。

シンクには洗い物が山積みで、床にはケーキの食べこぼしが少し。

でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。

むしろ、この散らかった部屋こそが、今日の楽しかった時間の証のように思えて、愛おしいとさえ感じた。

ソファに深く身を沈めると、ジジがとてとてと歩いてきて、私の膝の上にぴょんと飛び乗った。

そして、くるりと丸くなる。

ゴロゴロという、世界で一番安心する音が、私の体にもじんわりと響いてくる。

「ジジ。君は本当に、すごい猫だね」

語りかけると、ジジは眠そうにひとつ、にゃ、と返事をした。

もしかしたら、と私は思う。

ジジは、私が「完璧」にこだわりすぎて、心を窮屈にしているのを見抜いていたのかもしれない。

そして、それだけじゃない。

部屋の隅で固まっていた、小さな白いお姫様の心を解きほぐすための、彼なりの荒療治だったのではないだろうか。

あのけたたましい騒動は、私たち全員を、それぞれの殻から解き放つための、賢い黒猫からの贈り物だったのだ。

膝の上で眠るジジと、彼がいた場所に残るルナの白い毛を、そっと指で撫でる。

いつかジジに弟か妹を、という漠然とした夢が、今日、確かな輪郭を持った未来予想図になった気がした。

「予行演習」は、予想外の形で大成功だったのかもしれない。

「ありがとう、ジジ。最高のハロウィンだったよ」

この温かい気持ちを、どうしたら形にできるだろう。

ふと、店のことが頭に浮かんだ。

明日、店のディスプレイを少しだけ変えてみよう。

完璧な配置の隅に、クスッと笑えるような小さな遊び心を置いてみるのはどうだろう。

この散らかった部屋が愛おしいように、ほんの少しの「隙」や「物語」こそが、誰かの心をふっと温めるのかもしれない。

窓の外では、月が街を静かに照らしている。

この部屋は、私の城であり、戦場であり、そして、かけがえのない「心の聖域(サンクチュアリ)」だ。

ジジが灯してくれた、かぼちゃ色の温かい光が、今も胸の奥で揺らめいている。

それはきっと、明日からの私の道を、そしていつか訪れるかもしれない、もっと賑やかな未来を、優しく照らしてくれるのだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です