金木犀と、それぞれの言い分
四十歳になった今でも、実家の自分の部屋の窓から見える金木犀の木が好きだった。
毎年、秋の初めに甘い香りを律儀に届けてくれるその木は、変わらないものの象身のように思えた。
けれど、変わらないものなんて、本当はどこにもない。
そのことを、この一年で嫌というほど思い知らされている。
「沙耶、またそんなもの見てるの?目が悪くなるわよ」
リビングのソファで分厚い文庫本を読んでいた母・千代子が、老眼鏡の奥からちらりと私を一瞥した。
その声には、小言と心配が半分ずつ含まれている。
手の中にあるのは、私のスマートフォン。

画面に映し出されているのは、『猫のための防災完全ガイド』なんていう、少々大げさなタイトルのウェブサイトだ。
通勤電車の中で見つけて以来、ブックマークしては読み返すのが日課になっていた。
「見てるだけじゃなくて、準備しないとと思って。最近、地震も多いし、それにほら、台風のニュースだって……」
「大げさねえ。この家は、お父さんが頑丈に建ててくれたんだから、大丈夫よ」
そう言って母は、ふいと視線を文庫本に戻してしまう。
その素っ気ない態度が、私にはかえって饒舌に聞こえた。
「あなたももう四十なんだから、猫のことばっかりじゃなくて、自分の将来を心配なさい」。
言葉にしないそのメッセージが、ちくりと胸を刺す。
わが家の三毛猫「まる」は、その名の通り、ふっくらとした体が自慢の十歳になるオス猫だ。
ソファの、母が座っているのとは反対の端で、香箱座りをしながらうつらうつらしている。
時折、耳だけをぴくりと動かして、私たちの会話を聞いているらしい。
その穏やかな寝息と、窓から差し込む午後の陽だまり。
この平和が永遠に続くような錯覚に陥る。
でも、永遠じゃないから、守りたいのだ。
契約社員として働くデザイン事務所の日常は、良くも悪くも安定している。
けれど、その安定が、薄氷の上にあることは知っていた。
会社の業績、更新される契約書、そして、じわじわと身体に蓄積していく、若い頃にはなかった疲労。
先日も、一つ年下の後輩が寿退社し、そのまた別の同僚は二人目の産休に入った。
祝福の言葉を口にしながら、心のどこかで焦りのようなものが渦巻くのを止められない。
まるで、自分だけが時の流れから取り残されていくような、底の浅い沼に足を取られたような感覚。
そんな漠然とした不安の受け皿になってくれるのが、この実家の、そして、まるの存在だった。
仕事でささくれた心を、まるの柔らかい毛皮に顔をうずめるだけで、どれだけ癒されてきたことか。
「まるは怖がりだから、いざという時、パニックになっちゃうかもしれないし。それに、母さんだって、一人じゃ大変でしょ。この間の定期健診でも、血圧が少し高いって言われてたじゃない」
「あら、私のことはいいの。それより、あなたこそ。
そんなに心配なら、早くいい人でも見つけたらどうなの。
一人より二人の方が、何かと安心でしょうに」
まただ。
母の万能薬のようなその言葉。
悪気がないのは分かっている。
分かっているけれど、それは時に、どんな小言よりも深く私を傷つける。
私が一人でいることが、すべての不安の根源であり、解決策は「誰かを見つけること」だと断定されているようで。
「……そういう問題じゃないよ」
私は小さく呟いて、スマートフォンの電源を落とした。
まるが小さく身じろぎをして、「ふぁ〜」と可愛らしくもない大きなあくびをする。
そして、おもむろに立ち上がると、私と母の間を通り抜け、キッチンの水飲み場へと歩いていった。
そのマイペースな後ろ姿が、この家の少し気まずい空気を「はいはい、おしまい」と断ち切ってくれたようだった。
言葉に詰まって、意味もなくフローリングの木目を指でなぞる。
ひんやりとした感触が、ささくれだった心に少しだけ沁みた。
私が自分のために淹れたインスタントコーヒーの、香ばしいとは言えない香りが立ち上る。
母は、私が飲むものとは違う、静岡産の深蒸し茶を、きちんとした急須で淹れて飲む。
そんな些細な、けれど決して交わることのない好みの違いが、今の私たち親子の距離そのもののように感じられた。
この家を包むのは、古い木の匂いと、畳と陽光が混じり合った、懐かしい香り。
でも、その懐かしさの中に、時々、言いようのない息苦しさを感じてしまう自分がいた。
それはきっと、変わっていく自分と、変わらない(ように見える)母との間で、どうしようもなく生まれてしまう歪みのせいなのかもしれない。
揺れる世界と、小さな命の重さ
その夜、警告音は唐突に鳴り響いた。
眠りの縁をたゆたっていた意識が、一瞬で覚醒する。
けたたましいアラームが、私と母のスマートフォンから同時に迸った。
ほぼ同時に、ぐらり、と家が大きく横に揺さぶられる。
縦揺れではなく、船に乗っているかのような、ねっとりとした長い横揺れ。
「きゃっ」
母の短い悲鳴。

本棚から、数冊の本が雪崩を打って落ちた。
リビングのテーブルに置いてあった湯呑が床に滑り落ち、ガシャンと甲高い音を立てて割れる。
ミシミシと家全体がきしむ音が、骨が軋む音のように聞こえて、生きた心地がしない。
揺れは数十秒だっただろうか。体感では、永遠よりも長く感じられた。
揺れが収まった時、部屋は奇妙な静寂に包まれた。
散らばった本、割れた湯呑の破片、少しずれた壁の額縁。
幸い、大きな被害はなさそうだ。私が安堵のため息をつこうとした、その時。
「シャーッ!」
ソファの下から、聞いたこともないような威嚇の声がした。
まるだ。
スマートフォンのライトで照らすと、暗がりに真ん丸になった瞳が二つ、爛々と光っている。
身体を低くして、全身の毛を逆立て、まるで見たこともない敵に遭遇したかのように唸っていた。
「まる、大丈夫よ。もう揺れてないから。怖かったね」
私がそっと手を伸ばそうとすると、まるはさらに低い唸り声をあげてソファの奥へと引っ込んでしまう。
完全にパニックに陥っているのは明らかだった。
その姿に、昼間の自分の懸念が、一気に現実味を帯びて胸に迫る。
「……沙耶」
か細い声に振り返ると、母が寝室のドアに手をつき、リビングの入り口に立ち尽くしていた。
顔は青ざめ、その手は小刻みに震えている。
いつもは「大丈夫」と気丈に振る舞う母の、見たことのない動揺した姿だった。
「母さん、大丈夫?怪我はない?」
「ええ……。でも、心臓が……どきどきして……」
母をソファに座らせ、水を一杯飲ませると、少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。
けれど、その目は虚ろで、焦点が合っていない。
テレビをつけると、震源地や各地の震度を伝える速報が、不安を煽るテロップと共に流れていた。
ソファの下からは、依然としてまるの怯えた唸り声が聞こえてくる。
もし、これがもっと大きな地震だったら?
もし、家が倒壊する危険があって、すぐに避難しなければならなくなったら?
怯えるまるを無理やりキャリーに入れ、震える母の手を引いて、私はこの瓦礫の散らばる部屋から無事に逃げることができるのだろうか。
想像しただけで、背筋が凍る思いがした。
「大げさ」なんかじゃない。
これは、私たちの命の問題だ。
あの時、母の言葉に反発した自分を、今は褒めてやりたいとさえ思った。
その夜、私はほとんど眠れなかった。
母も同じだったようで、隣の部屋から時折、小さなため息が聞こえてきた。
翌朝、食卓は重い空気に包まれていた。
私は、ほとんど眠れずに考え抜いた結論を、宣言するように口にした。
「私、本気で防災の準備をする。まるの分も、私たちの分も」
母は、味噌汁の椀を持ったまま、何も言わなかった。
ただ、疲れた顔で小さく頷いただけだった。
反対されなかったことに安堵しつつも、その無気力な肯定が、かえって私の心を重くした。
その週末から、私の奮闘が始まった。
まずは、まるの避難用リュックの準備だ。
インターネットで専門家の記事を読み漁り、必要なもののリストを作る。
折り畳み式のトイレ、携帯用の砂、数日分のフードと水、常備薬、そして、まるの匂いがついたお気に入りのタオル。
リストを手に、私は一人でペットショップやホームセンターを梯子した。
「猫ちゃんの防災グッズですか?最近、探される方、多いですよ」
ペットショップの若い店員さんは、親切に色々と教えてくれた。
アレルギー対応のフード、ストレスを軽減するというサプリメント。
勧められるままにカゴに入れていると、金額はあっという間に膨れ上がった。
でも、躊躇はなかった。これが、まるを守るための投資なのだ。
リュックはずしりと重くなった。これが、小さな命の重さなのだと実感する。
次に、最大の難関であるキャリーケースへの訓練だ。
まるはキャリーケースが大嫌いだった。
動物病院へ行く時のものだと覚えているからだろう、ケースを物置から出しただけで、その気配を察知して蜘蛛の子を散らすように逃げてしまう。
「まるー、おいでー。これは怖くないよー。新しいおうちだよー」
おやつで釣ろうとしても、またたびを振りかけても、お気に入りのおもちゃで気を引こうとしても、断固として入ろうとしない。
リビングの真ん中でキャリーケースと格闘する私を、母は遠巻きに、まるで他人事のように眺めているだけだった。
「そんなことして、可哀想に。ストレスになるだけじゃないの」
「可哀想なのは、いざという時に何もできなくて、まるを危険な目に遭わせることだよ!」
自分でも驚くほど、声が尖っていた。
母は少し驚いたような顔をして、また口を噤んでしまった。
気まずい沈黙が、割れた湯呑の代わりに部屋に転がっている。
まるは、そんな私たちの間の空気を敏感に感じ取ったのか、さっとテーブルの下に隠れてしまった。
まただ。
また、この空気だ。
分かり合えない。
そう思うと、胸の奥がぎゅっと締め付けられるようだった。
リュックに詰めた防災グッズの重さが、今はただ、私一人が背負うべき責任の重さのように、ずしりと肩に食い込んでいた。

金曜の夜と、母の告白
膠着状態が続いたまま、一週間が過ぎた金曜日の夜。私は相変わらず、リビングでキャリーケースと格闘していた。
まるは今日も、絶対に中に入らないという固い意志を全身で示し、テーブルの脚の陰から私を睨みつけている。
もう半ば意地になっていた。
「はあ……もう、なんでわかってくれないのよ……」
深いため息が漏れた、その時だった。
「……それ、そんなにすぐ慣れるものなの?」
キッチンで夕食の片付けをしていた母が、ぽつりと言った。いつものような、棘のある響きではなかった。
責めるのでもなく、呆れるのでもなく、純粋な疑問、というような声色だった。
「……さあ。でも、ネットには、毎日少しずつ慣れさせないとって」 「ふうん……」
母は布巾で濡れた手を丁寧に拭くと、こちらへやってきて、キャリーケースをじっと見つめた。
そして、食器棚から猫の絵が描かれた小さな小皿を一枚取り出すと、冷蔵庫から猫用のかつお節のパックを取り出した。
「ちょっと、貸してごらんなさい」
母は小皿にかつお節を少しだけ乗せると、それをキャリーケースの入り口、ギリギリのところにそっと置いた。
私がおやつで釣ろうとした時よりも、ずっとさりげない仕草だった。
「まる。ほら、好きなものでしょう」
テーブルの下から、まるがひょっこりと顔を出す。
鼻をひくひくとさせ、警戒しながらも、かつお節の抗いがたい匂いに引かれてゆっくりと近づいてきた。
そして、キャリーケースの入り口で、おそるおそる小皿からかつお節を食べ始めた。
「……あ」
「この子は食いしん坊だけど、臆病なのよ。焦らしちゃ駄目。こうやって、まずは『ここは安全な場所だ』って、時間をかけて教えてあげないと」
母はそう言うと、まるの頭を優しく撫でた。
まるはかつお節を味わいながら、気持ちよさそうに目を細めている。
その光景は、あまりにも自然で、穏やかだった。
私が何日もかけて力ずくでやろうとしていたことが、母の長年の経験と知恵一つで、いとも簡単に解決の糸口を見つけたのだ。
その日から、家の空気が少しずつ、けれど確実に変わり始めた。
母は、私が買ってきた猫用の防災グッズを一つひとつ手に取り、
「これは便利ね」
「あら、このウェットフードは塩分が多くないかしら」
「このタオルより、あの子はこのひざ掛けの方が好きよ」などと、具体的な意見を言うようになった。
まるで、これまで閉じていた心の扉が、ほんの少しだけ開いたようだった。
週末には、私が一人で見ていた防災サイトを、隣に座って一緒に覗き込むようにさえなった。

次の土曜日、私たちは二人で買い物に出かけた。
目的は、防災グッズの追加購入と、リストの見直しだ。
「まるのトイレ砂、こっちの固まるタイプの方がいいかもしれないわ。災害時は、掃除が楽な方がいいもの」
「あ、本当だ。こっちにしよう。母さん、よく知ってるね」
「当たり前でしょう。あの子のトイレ掃除、もう十年やってるんだから」
並んでカートを押しながら、あーでもない、こーでもないと話す。
それは、何年ぶりかの、ごく自然な母娘の会話だった。
ホームセンターの帰り道、少し遠回りして、川沿いの公園に立ち寄った。
母が、自販機で温かいお茶を二本買ってきてくれた。
私には、私が好きな少し甘めのミルクティーを。
ベンチに並んで座り、他愛もない話を少しした。
そして、母がぽつりと呟いた。
「……ごめんね、沙耶」
「え……?」
「今まで、大げさだなんて言って。本当はね、怖かったのよ」
母は、膝の上に置いた自分の手を見つめていた。
その手は、私が知っているよりも、ずっと小さく、皺が増えているように見えた。
「この間の地震の時も、あなたより、私の方がずっと動揺してた。年を取ると、駄目ね。頭では分かっていても、とっさに体が動かないの。もし、本当に何かあったら、あなたとまるの足手まといになるんじゃないかって……」
その告白は、いつも気丈な母からは想像もできない、弱々しいものだった。
「だから、あなたがあれこれ準備しているのを見て、目を背けたかったのね。私がちゃんとできないことを、あなたが黙々とやっているのが、なんだか、情けなくて。……それに、まるのことだって」
母は言葉を切り、川の向こう岸をぼんやりと見つめた。
「あの子も、もう十歳でしょう。人間で言ったら、還暦も近いのかな。最近、高いところに上るのも、ちょっと億劫そうにしてる時があるじゃない。いつ何があるか分からない。そう思うと、怖くて。防災の準備をするってことは、そういう『もしも』をちゃんと見つめることでしょう。それが、私には辛かったのよ」
老猫との暮らし。
それは、いつか来る別れを意識しながら、一日一日を大切に過ごすこと。
母は、まるの緩やかな老いと、自分自身の避けられない老いを、静かに重ね合わせていたのだ。
「ごめん、母さん。私、自分のことばっかりで、全然気づかなかった」
「いいのよ。あなたがしっかりしてくれて、本当は、安心したんだから。……お父さんがいたら、きっと同じことをしたわ。『備えあれば憂いなしだ』って、口癖だったから」
亡くなった父の話が出たのは、久しぶりだった。
母の横顔が、少しだけ潤んでいるように見えた。
家に帰ると、まるが玄関で待っていたかのように「にゃあ」と出迎えてくれた。
まるで、「ちゃんと話せて良かったね」と言っているように。
その夜、私たちはリビングのテーブルを囲んで、改めて防災グッズのリストを見直した。
母は老眼鏡をかけ、真剣な顔でペンを走らせる。
私は、その横顔を眺めながら、母が淹れてくれた温かい緑茶を一口飲んだ。
もう、一人で戦っているような孤独感はなかった。
これは、私だけの準備じゃない。
「私たち」の準備なのだ。金曜の夜のリビングは、いつしか「家族防災会議」の、温かい会場になっていた。
リュックに詰めた、未来への道しるべ
すべての準備が整ったのは、それから二週間後の、よく晴れた日曜日の午後だった。
リビングの床には、二つの防災リュックが並んでいる。
一つは私と母のためのもの。
そしてもう一つは、まる専用の、鮮やかなオレンジ色のリュック。
中には、母と二人で厳選したフードと水、薬、携帯トイレ、そして母が「これがないと、あの子は絶対に落ち着かないから」と言って譲らなかった、父が昔使っていた古びたフリースのひざ掛けが詰まっている。
完成したリュックを前に、母と私は顔を見合わせて、どちらからともなくふっと笑った。
「なんだか、すごい達成感ね。これで一安心だわ」
「うん。本当に。ここまでやれば、大丈夫だよね」
完璧な準備なんてないのかもしれない。
本当に大きな災害が来たら、これでも足りないのかもしれない。
でも、「やれるだけのことはやった」という確信が、不思議なほどの安心感をもたらしてくれていた。
それは、ただの防災グッズのリストが埋まったことによる安堵ではなかった。
ソファで日向ぼっこをしていたまるが、のっそりと起き上がると、オレンジ色のリュックに鼻先をすり寄せ、クンクンと匂いを嗅いでいる。
まるで、自分のものだと分かっているかのようだ。
そして、驚いたことに、リビングの隅に扉を開けたまま置いてあったキャリーケースの中に、自分からそろりと入っていった。
中でくるりと一回転すると、香箱座りをして、こちらを満足そうに見ている。
「見て、母さん!まるが自分で入った!」
「あらまあ。あの子も、分かってるのね。これが自分の『安全な場所』だって」
母は嬉しそうに目を細めた。
ふと見ると、母がテーブルの上に、一冊のノートを広げている。
エンディングノート、と表紙には書かれていた。
「私もね、少しずつ準備しておこうと思って。あなたに、迷惑かけたくないから」
以前なら、そんな言葉を聞いたら、胸が締め付けられるように痛んだだろう。
でも、今は違った。
それは、母が未来から目を背けるのではなく、きちんと向き合おうとしている証拠に思えた。
「そっか。じゃあ、今度一緒に、書き方とか調べてみようか」 「そうね。お願いしようかしら」
そんな会話が、ごく自然にできるようになったことが、何よりも嬉しかった。
窓の外では、あの金木犀の木が、西日に照らされてキラキラと輝いている。
将来への不安が、すっかり消えたわけじゃない。

契約社員のままの自分、年老いていく母、そして、いつか必ず訪れる、
まるとの別れ。考え出すと、胸がちくりと痛むこともある。
でも、今はもう、あの頃のような息苦しさはない。
隣には、同じ未来を見つめようとしてくれる母がいる。
足元には、信頼しきったように喉を鳴らす、温かい命がある。
そして、リビングの片隅には、私たちの「覚悟」と「絆」が詰まった、オレンジ色のリュックがある。
それだけで、十分じゃないか。
私たちは、家族なのだ。
どんなことがあっても、この三人でなら、きっと乗り越えていける。
防災リュックは、災害のためだけのものじゃない。
それは、不器用な母娘が、言葉にできなかった想いを伝え合い、未来に向かって一緒に歩き出すための、ささやかな、だけど、とても確かな道しるべなのだ。
私はそっと立ち上がり、オレンジ色のリュックを手に取った。
ずっしりとした、愛おしい重さ。
それをクローゼットの、すぐに取り出せる場所にしまいながら、心の中で呟いた。
「大丈夫。私たちは、きっと大丈夫」
その声は、もう誰に聞かせるためでもない、私自身の、力強い確信に満ちていた。