作者より読者のあなたへ
見知らぬ街の路地裏、ふと足元で響く猫の鳴き声に、心が少しだけ和らいだ経験はありませんか。
この物語は、そんなささやかな出会いが、凍てついた心をそっと溶かしてくれるかもしれない、という願いを込めて紡ぎました。
あなたの日常にも、迷い猫が運んでくれるような、思いがけない温かな繋がりが訪れますように。
夏の陽炎と、閉ざされた部屋
八月の太陽は、容赦というものを知らなかった。
夫の転勤でこの街へ越してきて、一ヶ月が経とうとしている。
アスファルトから立ちのぼる陽炎が、見慣れない風景を歪ませて、まるで現実ではないどこかへ迷い込んでしまったような心許なさを煽った。
田中葵、三十五歳。
この街に、縁もゆかりもない。
南向きの窓から見えるのは、同じような形をしたアパートの屋根と、生い茂る夏の草いきれ。
時折、遠くを走る電車の音が、ゴトン、ゴトンと響くだけ。
その音は、自分だけがこの世界から取り残されているような、静かな孤独を際立たせた。
「……暑いね、うに」
床に寝そべり、だらしなく手足を投げ出しているサバトラの愛猫に話しかける。
返事の代わりに、うには不満げに尻尾をぱた、と一度だけ床に打ち付けた。
その琥珀色の瞳が、じっと葵を見つめている。
まるで「いつまでこんなところにいるつもり?」と問いかけているかのようだ。
この六畳一間のリビングダイニングが、今の葵の世界のすべてだった。
夫は新しい職場で忙しく、朝早くに出ては、日付が変わる頃に帰ってくる。
週末は疲れ果てて眠っているか、溜まった仕事を片付けている。
引っ越しの段ボールはあらかた片付いたというのに、この部屋には生活の匂いがしなかった。
それはまるで、誰かが仮住まいしている舞台セットのようで、葵自身も、この物語の主人公になりきれないエキストラのような気分だった。
以前住んでいた街には、気心の知れた友人がいた。
週に一度はカフェでおしゃべりをし、時にはくだらないことで涙が出るほど笑った。
スーパーの店員さんとも顔なじみで、「奥さん、今日はいいカツオが入ってるわよ」なんて声をかけられるのが、ささやかな喜びだった。
そうした、細い糸のような繋がりが、自分という人間をこの社会に縫い付けてくれているのだと、失って初めて気づいた。
今の葵の話し相手は、うにだけだ。
「ねぇ、うに。今日の晩ごはん、何にしようか。そうめんはもう飽きたよねぇ」 うには興味がなさそうに、ぷいと顔を背け、毛づくろいを始める。
その素っ気ない仕草さえもが、今の葵には愛おしかった。
この小さな命がそばにいてくれる。
それだけが、かろうじて正気を保たせてくれる錨だった。
午後三時。一番暑い時間帯。
クーラーの人工的な風が肌にまとわりつく。
何かをしなければ、このまま溶けて、蒸発してしまいそうだった。
葵は重い腰を上げ、ベランダに出た。
熱風がむわりと頬を撫でる。
小さなベランダには、前の住人が置いていったのか、ひび割れたプランターが一つ残されている。
ここに何か、ミントでも植えてみようか。
そんな考えがふと頭をよぎったが、すぐに消えた。
根付く前に、この街を去ることになるかもしれない。そう思うと、何も始める気が起きなかった。
部屋に戻ろうとした、その時だった。
「にゃあ」
足元で、うにが甘えた声を出した。
いつの間についてきたのだろう。
そして、葵が網戸を閉めようとした、ほんのわずかな隙間。
うにのしなやかな体は、葵の想像をはるかに超える速さでその隙間をすり抜け、ベランダの手すりにひらりと飛び乗った。
「あ……!」
心臓が、氷水で締め付けられたように冷たくなる。
「うに、だめ! おりて!」 葵の声は、焦りで上ずっていた。
だが、うにはまるで聞こえていないかのように、好奇心に満ちた目で下を覗き込んでいる。

彼の小さな頭の中では、新しい世界への冒険心が燃え上がっているのだろう。
葵にとっての「外」は脅威でしかなかったが、うにとっては魅力的な未知の世界なのだ。
葵がそっと手を伸ばした瞬間、うにはさらに身軽な動きで、手すりから隣のアパートの屋根へと飛び移った。
トタン屋根に、トン、と軽い着地音が響く。
「待って! うに!」
葵の叫びも虚しく、うにはあっという間に屋根の向こう側へと姿を消してしまった。
がらんとしたベランダに残されたのは、葵一人。
心臓が早鐘のように鳴り響き、耳の奥でキーンという音がした。
夏の気怠い午後が、一瞬にして悪夢に変わった。
震える声と、最初のひとしずく
パニックとは、思考が真っ白になることではないのだと、葵はその時知った。
むしろ、無数の思考が猛スピードで頭の中を駆け巡り、どれも掴むことができない状態だ。
どうしよう、どこへ行ったの、あの屋根の向こうは道路じゃないか、車に轢かれたら、誰かにいじめられたら、もう二度と会えなかったら……。
葵は靴を履くのももどかしく、玄関のドアを飛び出した。
じりじりと肌を焼く日差しが、今はもう気にならなかった。
「うにー! うにー!」
声が震える。
情けないほどか細い自分の声が、むっとする熱気の中に吸い込まれて消えていく。
アパートの周りを探す。
植え込みの下、駐車場に停められた車の下、物置の裏。
どこにも、あの見慣れたサバトラ模様は見当たらない。
知らない家々の壁が、まるで葵を拒絶しているかのように、高くそびえて見えた。
この街の地図など、頭に入っていない。
どこに何があるのか、どの道がどこに繋がっているのか、全く分からなかった。
ただ、がむしゃらに歩き回る。
汗が目に入り、視界が滲む。
それは汗のせいだけではないかもしれない。
三十分ほど経っただろうか。
絶望感がじわじわと体力を奪っていく。
アパートの前の路地で、葵は膝に手をついて荒い息をついた。
もうダメかもしれない。そう思った時だった。

「……あの、どうかしましたか?」
背後から、しわがれた、けれど温かい声がかけられた。
振り返ると、そこに立っていたのは、小柄な老婆だった。
白いブラウスに、涼しげな麻のモンペを履いている。
日除けのためだろう、麦わら帽子を目深にかぶり、その手には小さな買い物かごが提げられていた。
「猫が……うちの猫が、いなくなってしまって……」
言葉が途切れ途切れになる。
堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。
見ず知らずの人の前で泣くなんて、みっともない。
そう思うのに、涙は止まらなかった。
老婆は驚いた様子だったが、すぐにふっと目元を和らげた。
「あらあら、それは心配だこと。どんな猫さん?」
「サバトラで……男の子で、うに、っていう名前で……」
「サバトラの、うにちゃんね。わかったわ。この辺の猫のことなら、みんな詳しいから。ちょっと待ってて」
そう言うと、老婆は自分の家の引き戸をがらりと開け、中に向かって声を張った。
「おーい、鈴木さん! 聞こえるかい! 二階の田中さんとこの猫ちゃんが、迷子だそうだよ!」
すると、隣の家の二階の窓が開き、割烹着を着た恰幅のいい女性が顔を出した。
「え、本当かい、佐藤さん! どんな猫?」
「サバトラのうにちゃんだって!」
「分かった! うちの周りも見てみるよ!」 そのやり取りは、葵が想像していた「ご近所付き合い」とは全く違う、あまりにも自然で、手慣れたものだった。
葵が呆然としていると、佐藤と名乗った老婆は「さ、こっちの路地も見てみようかね」と、葵の手を引くでもなく、先に立って歩き出した。
乾ききっていた心に、冷たい水がひとしずく、ぽとりと落ちたような気がした。
路地裏の猫会議
佐藤さんに連れられて歩き始めた路地は、葵が今まで一度も足を踏み入れたことのない場所だった。
古い木造家屋が肩を寄せ合うように建ち並び、軒先には朝顔やゴーヤの緑のカーテンが涼しげな影を落としている。
あちこちの家の玄関先や窓辺に、水を入れた皿が置かれているのに気づいた。
「この辺はね、猫が多いのよ。飼い猫もいれば、そうじゃない子もいるけど、みんなで勝手に見守ってるの」 佐藤さんは、こともなげに言った。
「あの子たち、暑いのは苦手だからねぇ。夏バテしないように、みんなで気をつけてるのさ」
歩いていると、「あら佐藤さん、どうしたの?」と、また別の家の窓から声がかかる。
佐藤さんが事情を説明すると、「うちの裏の物置、よく猫が涼みに来てるから見てみるわね!」とすぐに返事が返ってくる。
葵は、ただただ圧倒されていた。
自分がこの一ヶ月間、息を潜めて暮らしていた壁の向こう側には、こんなにも温かい世界が広がっていたのだ。
それは、都会の希薄な人間関係しか知らなかった葵にとって、ほとんど奇跡のように思えた。
陽が傾き、アスファルトを焼いていた熱が少しだけ和らぎ始めた頃。
「ああ、あそこじゃないかね」 佐藤さんが指差したのは、小さな神社の境内だった。
夕暮れの光が、木々の間から筋になって差し込んでいる。
そこには、信じられない光景が広がっていた。

手水舎の周りや、拝殿の縁側に、五、六匹の猫たちが集まっていたのだ。
三毛が香箱座りをし、黒猫がごろりと寝転がり、茶トラが退屈そうにあくびをしている。
そして、その輪の中心に――いた。 見慣れたサバトラ模様。
他の猫と鼻先をくっつけ、挨拶を交わしている。うにだった。
「うに……!」 葵は駆け寄ろうとして、佐藤さんにそっと腕で制された。
「しーっ。今、大事な会議中だからね」 佐藤さんは悪戯っぽく笑う。
見れば、うにの他にも、先ほど見かけた鈴木さんの家の窓辺にいたキジトラや、佐藤さんの足元にいた三毛猫もいる。
どうやら、この神社の境内が、彼らの定例の集会所らしい。
「よかった……」 葵の全身から、強張っていた力がふっと抜けた。
安堵で、また涙が滲む。
でも、今度の涙は、さっきとは違う、温かい涙だった。
うには、葵が知らない世界で、ちゃんと自分の居場所を見つけていた。
そして、そのうにのおかげで、葵もまた、この街の秘密の扉を開けることができたのだ。
しばらくして、猫たちの会議はお開きになったらしい。
猫たちは三々五々、思い思いの方向へと帰っていく。
うにも、葵の存在に気づくと、「にゃあ」と一声鳴いて、てとてとと駆け寄ってきた。
葵がしゃがみこんで腕を広げると、その胸にぽすりと飛び込んでくる。
ゴロゴロと喉を鳴らす音と、太陽の匂いがする温かい体温が、何よりの言葉だった。
「ご心配おかけしました。本当に、ありがとうございました」
うにを抱きしめながら、葵は佐藤さんや、集まってきてくれた他のご近所さんたちに、何度も頭を下げた。
「いいのよ、お互い様だから」 鈴木さんが笑う。
「この子の夏バテ対策、どうしてる? 最近、食欲がなくって」
「うちでは、ウェットフードを少し凍らせてシャーベットみたいにしてあげてるわよ」
「あら、それいいわね!」 自然に、猫の健康管理についての情報交換が始まる。
葵は、うにを撫でながら、その会話の輪の中にいた。
孤立していた自分と、この温かい輪の間にあった透明な壁が、音もなく消えていくのを感じていた。
私の居場所
その日の夜、夫が帰宅すると、玄関のたたきに小さな保冷剤の箱が置かれているのに気づいた。
「これ、どうしたの?」
「お隣の鈴木さんが、うににって。猫用の栄養ドリンクが入ってるの」
キッチンで夕食の支度をしながら、葵は今日の出来事を話した。
驚き、感心し、そして安堵する夫の顔を見ながら、葵は思った。
この部屋に、ようやく生活の匂いがし始めた、と。
翌日の午後、葵は麦茶の入ったポットを手に、佐藤さんの家を訪ねた。
「昨日は、本当にありがとうございました」
「あらあら、ご丁寧に。さ、上がって」 佐藤さんの家の縁側は、涼しい風が通り抜ける、
最高の特等席だった。

二人で麦茶を飲みながら、他愛もない話をした。
佐藤さんがこの街に嫁いできた頃の話。
昔はこの路地も子供たちの声で賑やかだったという話。
そして、猫の話。
「あの子たちは、言葉を話さないでしょう。だから、こっちがよーく見て、気持ちを察してあげないといけないの。それが、人間同士の付き合いでも、案外大事なことなのかもしれないないねぇ」
佐藤さんの言葉が、すうっと心に染み渡った。
葵の足元では、うにが気持ちよさそうに昼寝をしている。
庭の向こうでは、白い洗濯物が夏の風に揺れている。
新しい街は、もう陽炎の向こうの得体のしれない場所ではなかった。
路地を一本曲がれば、そこには優しい笑顔と、猫たちの静かな会議がある。
葵は、この街で生きていける。
いや、生きていきたい、と初めて思った。
うにが繋いでくれた、細くて強い縁。
それは、葵にとって、この街で自分の物語を始めるための、確かな鍵だった。
窓を開けると、心地よい風が入ってきた。
遠くで聞こえる電車の音は、もう孤独の響きではなく、この街の暮らしを彩る、愛おしいBGMのように聞こえていた。
