カレンダーアプリの通知が、無機質な音で今日の終わりを告げる。
午後七時。
画面の向こうで「お疲れ様でした」と言葉を交わした部下のアイコンが次々と消えていくのを眺めながら、高橋美咲は深く、重たい息を吐き出した。
凝り固まった肩を回すと、ゴリ、と嫌な音がする。
今年で三十九歳。大手化粧品メーカーの最年少女性管理職なんて、響きのいい肩書とは裏腹に、現実は泥臭いことばかりだ。
上からは成果を、下からは働きやすさを求められ、その板挟みで心身はすり減る一方。
まるで、自分という個性を殺し、会社という巨大な機械の潤滑油になるために生きているみたいだった。
「ただいま、カイ」
玄関のドアを開けると、かすかにカタン、と音がした。
廊下の先、リビングの入り口から、クリーム色のラグの上で香箱座りをしていたキジトラ猫が、ゆっくりとこちらを見ている。
私の相棒、カイ。今年で十八歳になる、人間でいえば八十八歳のおじいちゃん猫だ。
かつては玄関まで全力で走ってきては、私の足にスリスリと体をこすりつけてくれたものだけれど、ここ数年はもっぱらこの定位置からの「お出迎え」が彼のスタイルになっている。
「えらいね、ちゃんと起きててくれたの」ジャケットを脱ぎ、ハイヒールを放り出すと、足早にカイの元へ駆け寄った。
その頭をそっと撫でると、ゴロゴロ、というエンジンのような音が、静かな部屋に響き渡る。
この音を聞くためだけに、私は毎日、満員電車に揺られ、終わりの見えない会議を乗り越えているのかもしれない。
カイの柔らかな毛並みは、ささくれだった私の心を優しく撫でつけてくれる、
世界で一番効果のある精神安定剤だった。

彼の穏やかな琥珀色の瞳は、私がキャリアの階段を駆け上がっていく様子も、恋に破れて泣きじゃくった夜も、ただ静かに、ずっとそばで見守ってくれていた。
けれど、最近のカイは寝ている時間がめっきりと増えた。
大好きだったはずの焼きカツオのおやつにも口をつけなくなり、日に日にその体は小さくなっているように感じる。
動物病院の先生は、「年齢的なものですよ。腎臓の数値も少しずつ悪くなっていますから、上手に付き合っていくしかありません」と穏やかに告げた。
分かっている。
永遠なんてないことくらい、大人だから痛いほど分かっている。そ
れでも、カイのいない生活なんて、想像するだけで胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
この部屋からカイのゴロゴロ音が消えてしまったら、私は一体、何を楽しみに家に帰ればいいのだろう。
それは、輝かしいキャリアも、昇進の喜びも、到底埋めることのできない、巨大な空洞だった。
「カイ先生、お薬の時間ですよー」
翌週から、カイとの新しい日常が始まった。
「猫の健康管理」なんて言葉をネットで検索しては、老猫用のフードをいくつも取り寄せ、少しでも食べてくれるものを探す。
そして、一日二回の投薬。最初は素直に飲んでくれた薬も、三日もすればカイの知恵が勝るようになった。
フードに混ぜればそこだけ残し、おやつに仕込んでも器用に吐き出す。
最終手段として、口をこじ開けて喉の奥に放り込むという強硬策に出るのだが、これがまた一苦労だった。

「うにゃっ、やめろー!」とでも言いたげな声で抵抗するカイを膝の間にそっと挟み、「大丈夫、大丈夫だからね。すぐ終わるからね」と、まるで自分に言い聞かせるようになだめすかす。
小さな錠剤を押し込み、口を閉じて上を向かせ、ごっくんと喉が動くのを確認するまでの一連の動作は、毎朝毎晩、私とカイとの真剣勝負だった。
薬を飲ませ終えた後は、決まって私の腕には細い引っ掻き傷が二、三本。
けれど、カイは何事もなかったかのように私の膝の上で丸くなり、ゴロゴロと喉を鳴らすのだから、思わず笑みがこぼれてしまう。
「まったく、ちゃっかりしてるんだから」
会社の昼休み、私はスマホでカイの見守りカメラの映像を確認するのが日課になっていた。
ほとんどの時間は、お気に入りのクッションの上で眠っている。
その穏やかな寝息を立てる胸の上下運動を確認するたびに、安堵のため息が漏れた。
ある日の午後、重要なオンライン会議の最中、スマホが震えた。
実家の母からだった。親の介護問題。
これもまた、私の肩に重くのしかかる、もう一つの現実だ。
父が最近、少し物忘れがひどくなったらしい。会議に集中しなければならないのに、カイのこと、そして実家のことが頭をよぎり、上司の話が右から左へと抜けていく。
「高橋さん、聞いてる?」
ハッとして顔を上げると、画面の向こうの上司が訝しげな顔でこちらを見ていた。
慌てて「はい、申し訳ありません」と頭を下げる。完
璧な私、仕事のできる私。
そうやって築き上げてきたキャリアの城が、ガラガラと音を立てて崩れていくような気がした。
どうして、全部一度にやってくるのだろう。
仕事も、カイのことも、親のことも。どれも私にとっては大切なことなのに、すべてを完璧にこなそうとすればするほど、心がパンクしそうだった。
そんなある日、後輩の佐藤さんが、私のデスクにそっと缶コーヒーを置いて言った。
「高橋さん、最近お疲れじゃないですか?顔色、あんまり良くないですよ」その何気ない一言に、張り詰めていた糸がぷつりと切れる音がした。
「ごめん、ちょっと……」
私は言葉を詰まらせ、給湯室へと逃げ込んだ。
完璧な上司でいなければ。弱音なんて吐いてはいけない。
そう固く誓っていたはずなのに、涙が勝手に溢れてくる。
情けなくて、悔しくて、でも、佐藤さんの優しさが温かくて、声を殺して泣いた。
ひとしきり泣いて顔を上げると、鏡の中にはアイメイクが崩れ、目の真っ赤な、見るも無惨な三十九歳の女がいた。
完璧とは程遠い、ただの疲れ切った人間だ。
その時、ふと、カイの顔が浮かんだ。
カイは、私が泣いている時、いつもただ静かに側にいて、そっと体を寄せてくる。
完璧じゃなくてもいいんだよ、とでも言うように。
その夜、家に帰ると、カイが珍しく玄関までとぼとぼと歩いてきて、私の足に一度だけ、こてん、と頭をこすりつけた。
まるで、「お疲れさん」と言ってくれているかのようで、私はその場にしゃがみこみ、カイを力いっぱい抱きしめた。
温かくて、確かな命の重み。
効率や成果ばかりを追い求めてきた日々の中で、私が一番手に入れたかったものは、案外こんな、ささやかで温かいものだったのかもしれない。
季節は巡り、固く閉じていた蕾がほころび始める三月の終わり。
私のマンションのベランダからは、公園の大きな桜の木が見える。
毎年、カイとその桜を見るのがささやかな楽しみだった。

「カイ、今年も桜が咲きそうだね。満開になったら、一緒にお花見しようね」眠っているカイの耳元で囁くと、カイはぴくりと耳を動かした。
しかし、その約束が果たされることは、ないのかもしれない。
獣医から告げられたのは、腎臓の数値の急激な悪化だった。
自宅での皮下点滴を勧められたが、針を刺すなんて、私にできるだろうか。
震える手で説明書を読み、消毒液の匂いに吐き気を催しながらも、私はカイのために覚悟を決めた。
その日は、私がリーダーを務める大型春季キャンペーンの最終プレゼンの日だった。
このプレゼンが成功すれば、部長への道も開けるかもしれない。
朝から念入りに資料を確認し、スーツに袖を通す。
鏡の中の私は、いつもの「仕事のできる高橋美咲」だった。しかし、その足元で、カイが小さく、か細い声で鳴いた。
見ると、ぐったりとして呼吸が浅い。血の気が引くのが分かった。
スマホが鳴り、部下からの「高橋さん、そろそろ時間です!」という焦った声が聞こえる。
役員たちが待っている。
私のキャリアにとって、今日という日がどれだけ重要か。
頭では分かっている。分かっているのに、足が動かない。
ぐったりとしたカイの小さな体を見つめる。
この十八年間、どんな時も私を待っていてくれたカイ。
私が恋に破れて帰りが遅くなった日も、仕事の付き合いで朝帰りした日も、文句一つ言わずに、この部屋でたった一人で、私を待っていてくれた。
今、カイが一番私を必要としている時に、私は彼を置いていけるのだろうか。
「……ごめん。あとは、任せた」
私はスマホに向かって、それだけ告げた。
受話器の向こうの部下の驚いたような声が聞こえた気がしたが、構わずに電話を切る。
スーツを脱ぎ捨て、部屋着に着替えると、カイをそっと、柔らかな毛布でくるんだ。
そして、タクシーを呼び、かかりつけの動物病院へと向かった。
窓の外を流れる景色の中で、公園の桜が、昨日よりもずっと濃いピンク色に染まっているのが見えた。
病院での処置が終わり、カイを抱いて家に帰る頃には、もう日はとっぷりと暮れていた。
カイの容態は、予断を許さない状況だった。
私は会社に長期休暇の連絡を入れた。
もう、どうなってもいい。
部長の椅子も、周りからの評価も、今はどうでもよかった。
私にとって、今一番大切なものは、この腕の中にいる小さな命なのだから。
その夜、私はカイを腕に抱いたまま、ほとんど眠らずに夜を明かした。
カイは時折、苦しそうに息をしたが、私の腕の中で、確かにまだ温かかった。
夜が白み始め、窓の外が藍色に染まる頃、カイがふと、もぞりと身じろぎをした。
そして、最後の力を振り絞るように私の顔を見上げ、一度だけ、「にゃあ」と鳴いた。
それは、初めてこの家にやってきた日の、あの愛らしい子猫の声と、少しだけ似ていた。
「カイ、ありがとう。ずっと、大好きだよ」
涙が次から次へと溢れ、カイの毛を濡らす。
カイは、私の涙を拭うように、ザラリとした舌で私の頬を一度だけ舐めた。
そして、まるで眠るように、そっと、静かに、息を引き取った。
腕の中の温もりが、少しずつ、冷えていく。
部屋にはもう、あのエンジンのようなゴロゴロ音は響かない。
それでも不思議と、私の心は穏やかだった。
後悔は、ひとかけらもなかった。
私はカイの最期に、ちゃんと寄り添うことができたのだから。
ベランダの向こうで、満開の桜が、朝日に照らされてキラキラと輝いていた。

カイは、満開の桜を待たずに旅立ってしまった。
けれど、彼はその命の灯火で、私に本当に大切なものが何かを、そのしっぽで、最後の最後まで、教えてくれた気がした。
カイがいなくなってから、一週間が経った。
部屋はがらんとして、静かすぎた。
朝、目覚めても、足元にカイの重みを感じない。
コーヒーを淹れても、「早く朝ごはんをくれ」と催促する声も聞こえない。心にぽっかりと穴が空いたようで、涙が止まらない日もあった。
休暇が明け、久しぶりに出社すると、デスクの上には「お疲れ様でした」というメッセージカードと共に、春季キャンペーンの成功を伝える報告書が置かれていた。
私が不在の間、佐藤さんをはじめとするチームのメンバーが、見事にプレゼンを成功させてくれたのだという。
報告書を読みながら、私は部下たちの成長を、心の底から「すごいな」と素直に喜んでいる自分に気づいた。以前の私なら、きっと悔しさや焦りを感じていたはずだ。
「高橋さん、お帰りなさい」
佐藤さんが、少しはにかみながら声をかけてきた。
「あの、これ、みんなからです」。
そう言って渡されたのは、小さな猫の形をしたクッキーの詰め合わせだった。
その不器用な優しさに、また涙がこぼれそうになるのをぐっと堪える。
その日の午後、私は上司に辞職を願い出た。
驚く上司に、私は正直に話した。
これまでは仕事がすべてだったけれど、これからはもっと、自分の心に正直に、自分のペースで生きていきたいこと。
管理職という重圧から解放され、もう一度、現場で商品企画に携わりたいこと。
それは、カイが私にくれた、新しい一歩を踏み出すための勇気だった。
数ヶ月後。
私は、管理職から降り、企画部の一担当として働いていた。
給料は少し減ったけれど、心はずっと軽かった。
定時に会社を出て、スーパーで買い物をして帰る。そんな当たり前の日常が、今はとても愛おしい。
ある晴れた週末の午後、私はベランダに出て、新しいマグカップでハーブティーを飲んでいた。
カイがいつも日向ぼっこをしていた場所には、今は小さなローズマリーの鉢植えが置いてある。
風が吹くと、爽やかな香りが鼻をかすめた。
カイはもういない。けれど、目を閉じれば、腕の中にあの柔らかな毛の感触と、確かな重みが蘇る。
カイが教えてくれた温もりは、私の心の中で生き続けている。
ふと、マンションの下の路地から、か細い鳴き声が聞こえた。
覗き込んでみると、段ボール箱の中で、三毛の子猫が不安そうに鳴いている。
私は、はっと息を飲んだ。
そして、気づけば階段を駆け下りていた。
すぐにこの子を家族に迎えることはできないかもしれない。
でも、放っておくことはできなかった。
まずは保護して、動物病院へ連れて行こう。
そして、もし縁があるのなら――。
子猫をそっと抱き上げると、手のひらに温かい命の重みが伝わってきた。

見上げた空は、どこまでも青く澄み渡っている。
カイ、見てる?私、また一歩、前に進めそうだよ。心の中でそう呟くと、腕の中の子猫が、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
それは、新しい物語の始まりを告げる、希望の音のように聞こえた。