その猫は、”推し”の香りを知っている

 

日常と推しと、運命の出会い

 

月曜日の朝。世界で一番、深いため息が似合う時間。

私、長谷川美月(はせがわみづき)、32歳。

人事部のオフィスで、無機質なノートパソコンの光を浴びながら、本日三杯目となるコーヒーを口に運ぶ。

画面には、来週に迫った新入社員研修のタイムテーブル。

一分の隙間もなく詰め込まれたスケジュールは、まるで私の心模様を映しているかのようだ。

「長谷川さん、この件、部長承認お願いできますか」 「はい、ただいま」

後輩から差し出された書類に、完璧な笑顔のハンコを押す。

人事部の長谷川美月は、いつだって冷静で、親切で、ちょっとやそっとのことでは動じない。

それが会社での私の「役割」。

分厚い仮面を被っている自覚はあるけれど、脱ぎ方なんてとうの昔に忘れてしまった。

そんな私の、荒んだ心に唯一潤いを与えてくれるもの。

それが、「推し」の存在だ。

若手俳優、橘隼人(たちばなはやと)。

今をときめく、なんてありきたりな言葉では表現できない。

彼の魅力は、涼やかな目元に宿る憂いと、笑った時にだけ現れる少年のような無邪気さのギャップにある。

ドラマや映画での彼の演技を観る時間は、私にとって聖域。

現実の悩みも、将来への漠然とした不安も、すべてが浄化されていく。

金曜の夜、仕事を終えた私は、速足で家路につく。

部屋のドアを開けるなり、ハイヒールを脱ぎ捨て、メイクもそこそこに部屋着に着替える。

そして、リビングの大きなテレビの電源を入れる。

今夜は、ハヤトの最新ドラマの放送日。

冷凍庫から取り出したご褒美の高級アイスを片手に、私は「人事部の長谷川さん」から「ハヤトを推すただの女」へと姿を変えるのだ。

SNSを開けば、同じようにハヤトを応援する仲間たちの熱いコメントが溢れている。

#ハヤトのいる生活、#橘隼人しか勝たん。そんなハッシュタグを追いながら、うんうんと頷く。

みんな、同じ気持ちなんだ。この一体感が、孤独な夜を温めてくれる。

そんな推し活一筋だった私の日常に、ある日、ささやかな変化が訪れた。

きっかけは、SNSで偶然見かけた「保護猫のオンライン譲渡会」の広告だった。

動物は好きだ。

特に、気まぐれで、それでいて甘えん坊な猫には、ずっと憧れがあった。

30歳を過ぎ、この広いマンションで一人きりの生活にも、少しだけ寂しさを感じ始めていた頃だった。

「見るだけ、見るだけだから」

誰にともなく言い訳をしながら、休日の午後、私は指定されたURLをクリックした。

画面には、様々な事情で保護された猫たちの写真とプロフィールが並んでいる。

一匹一匹の瞳の奥に、小さな物語が隠されているようで、胸が締め付けられた。

スクロールする指が、ふと、ある一枚の写真の前で止まった。

『おっとりボーイのレオくんです!』

そこにいたのは、垂れた耳と丸い顔が特徴的な、スコティッシュフォールドの男の子。

その姿を見た瞬間、心臓がどくん、と大きく跳ねた。

なぜなら、その猫は、ハヤトが半年前に出演したドラマで、彼の相棒役として共演していた猫と、驚くほどよく似ていたからだ。

ドラマの中で、ハヤトがその猫を「最高の相棒」と言って、愛おしそうに撫でていたシーンが、鮮やかに蘇る。

これは、運命?

いや、落ち着け、私。

ただの偶然だ。

でも、一度芽生えた気持ちは、春の若葉のようにぐんぐんと育っていく。

プロフィールを読むと、彼は前の飼い主が高齢で飼育困難になったため、ここにやってきたらしい。

おっとりしていて、少し臆病。

でも、心を許した相手には、ゴロゴロと喉を鳴らして甘えるのだという。

気づけば、私は申し込みフォームに指を滑らせていた。

これを「推し活の延長」だなんて言ったら、きっと真剣に猫と向き合っている人たちに怒られてしまうだろう。

でも、この出会いは、神様か、あるいは推しがくれた、特別なプレゼントのような気がしてならなかった。

その猫は、"推し"の香りを知っている

数日後、審査を無事に通過した私は、震える手でキャリーケースを抱え、レオを我が家へと迎え入れた。

ガラスの向こうの存在だった「推し」の世界と、私の現実が、この小さな命を介して、ほんの少しだけ交わった。そんな気がした。

 

君のいる日常と、お気に入りの香り

 

レオとの生活は、想像以上にドタバタで、そして想像の百万倍も愛おしいものだった。

最初の数日、彼はソファの下に潜り込み、警戒心を解こうとしなかった。

私はただ、静かに距離を保ち、美味しいごはんと新鮮な水を用意するだけ。

無理強いはしない。

彼のペースを尊重する。それは、人事部で培った「対人スキル」ならぬ「対猫スキル」だったのかもしれない。

変化が訪れたのは、三日目の夜。

私がいつものようにリビングでハヤトの出演するバラエティ番組を観ていると、ソファの下から小さな顔がぬっと現れた。

そして、おそるおそる、といった足取りでこちらに近づいてくる。

私は息を殺して、彼の行動を見守った。

レオは私の足元まで来ると、くんくんと匂いを嗅ぎ、それからおもむろに、私の膝の上に乗ってきたのだ。

「……!」

声にならない叫びが、喉の奥で詰まる。

温かくて、柔らかい、命の重み。

恐る恐る手を伸ばして背中を撫でると、彼は「ゴロゴロゴロ…」と、まるで小さなエンジンをかけたような音を立て始めた。

テレビの中ではハヤトが面白いことを言って、スタジオが笑いに包まれている。

でも、私の意識はすべて、膝の上のこの小さなぬくもりに集中していた。

「よろしくね、レオ」

そう囁くと、彼は「にゃあ」と短く鳴いた。

それは、世界で一番、心強い「うん」に聞こえた。

それからの毎日は、レオを中心に回っていた。

朝は、顔の上を歩くレオの肉球で目覚める。

仕事から帰ると、玄関でしっぽを立てて出迎えてくれる。

私がパソコンに向かえばキーボードの上で眠り、お風呂に入ればドアの前で健気に待っている。

彼の存在は、がらんとしていたこの部屋を、温かい「我が家」へと変えてくれた。

レオには、一つだけ、不思議なこだわりがあった。

それは、「香り」に対する執着だ。

特に、彼が気に入ったのは、私が気まぐれに買ってみた、とある柔軟剤の香りだった。

ベビーパウダーのような、優しくて、ほんのり甘い香り。

その柔軟剤で洗ったブランケットをソファに置いておくと、彼は必ずその上に陣取り、顔をうずめて、恍惚とした表情でふみふみと前足を踏み鳴らすのだ。

その姿が可愛くて、私はすっかりその柔軟剤のヘビーユーザーになっていた。

「レオは本当にこの匂いが好きねぇ」

ブランケットにくるまって、すやすやと眠るレオの頭を撫でながら、私はハヤトの載っている雑誌をめくる。

膝の上にはレオの重み、鼻先にはお気に入りの柔軟剤の香り、そして目線の先には最愛の推し。完璧な布陣だ。

これ以上の幸せが、この世にあるだろうか。

推し活にも、変化が生まれた。

以前は、どこか一方通行で、孤独な趣味だった。

でも今は違う。

「ハヤトくん、かっこいいねぇ、レオ」 そう語りかけると、レオは「にゃーん」と返事をする。

もちろん、彼が言葉を理解しているわけではない。

でも、私にはちゃんと「そうだね、美月。今日のハヤトも最高にかっこいいね」と相槌を打ってくれているように聞こえるのだ。

レオは、私のいちばんの「推し活仲間」になった。

SNSに、レオの写真を載せることも増えた。

「#スコティッシュフォールドのいる暮らし」「#猫と推し活」なんてハッシュタグをつけて投稿すると、同じように猫と暮らすハヤトファンから「いいね!」やコメントが届く。

『うちの子も、ハヤトくんがテレビに映ると画面の前に座ります!』

『推しと愛猫の組み合わせ、尊すぎます…!』

画面の向こうの、顔も知らない誰かとの繋がり。それが、以前よりもずっとリアルで、温かいものに感じられた。

レオが、私の世界を、少しずつ外へと広げてくれている。そんな実感があった。

不意に、レオが私の膝から降りて、窓辺へと歩いていく。

網戸の向こうの夜風に、小さく鼻をひくつかせている。

その小さな背中を見つめながら、私は思う。

彼がこの家に来る前のこと、どんな場所で、どんな匂いに包まれて生きてきたんだろう。

前の飼い主さんも、この柔軟剤を使っていたのだろうか。

それとも、彼にとって、何か特別な意味のある香りなのだろうか。

答えはわからない。

でも、彼が今、この場所で、この香りに包まれて安心している。

その事実だけで、十分だった。

私はそっとレオの隣に座り、一緒に夜の街を眺めた。

都会のネオンが、いつもより優しく瞬いているように見えた。

 

嵐の前の静けさと、最大の試練

 

レオとの穏やかな日々がすっかり板についた頃、私の日常に、突如として嵐が吹き荒れることになった。

それは、部長に呼び出された、ある日の午後だった。

「長谷川さん、君に任せたい大きな仕事がある」 そう切り出された瞬間、嫌な予感が胸をよぎった。

私の予感は、悲しいくらいによく当たる。

任されたのは、会社の創立50周年記念パーティーのプロジェクトリーダーだった。

会場の手配から、企画、運営、当日の進行まで、すべてを取り仕切る大役。

人事部だけでなく、各部署から選抜されたメンバーをまとめ上げ、この一大イベントを成功させなければならない。

「君ならできる。期待しているよ」

部長の力強い激励の言葉が、ずしりと肩にのしかかる。

断るなんて選択肢はない。

私は、いつもの完璧な笑顔で、「お任せください。全身全霊で務めさせていただきます」と答えていた。

その日から、私の生活は一変した。

連日の残業、鳴り止まない電話、ひっきりなしに届くメール。

各部署から集まったメンバーは、当然ながら考え方も仕事の進め方もバラバラで、チームを一つにまとめるのは想像以上に困難だった。

家に帰るのは、いつも日付が変わる頃。

疲れ果ててドアを開けると、レオが「にゃーん…」と心配そうな声で出迎えてくれる。

彼の柔らかい毛皮に顔をうずめる時間だけが、唯一の癒しだった。

ごめんね、レオ。最近、全然遊んであげられてないね。

心の中で謝りながら、私は彼の体を強く抱きしめた。

レオは何も言わず、ただゴロゴロと喉を鳴らし、私の疲れを吸い取ってくれるようだった。

プロジェクトが始動して一ヶ月。

様々な困難を乗り越え、パーティーの骨格がようやく見えてきた頃、事件は起こった。

その日の議題は、パーティーの目玉となる「スペシャルゲスト」の最終決定についてだった。

広報部がリストアップした候補者の中から、最もイベントを盛り上げてくれるであろう人物を選ぶ、重要な会議。

「第一候補は、今、最も勢いのある若手俳優、橘隼人さんです」

広報部長が自信満々に言ったその名前を、私は最初、正しく認識できなかった。

たちばな、はやと…?

「…え?」

思わず、素っ頓狂な声が漏れた。

会議室中の視線が、一斉に私に突き刺さる。

しまった、と唇を噛む。

「どうした、長谷川さん。何か問題でも?」 部長が訝しげに私を見る。

「い、いえ!素晴らしい人選だと思います!ただ、あまりにビッグネームだったので、驚いてしまって…」

なんとか取り繕いながら、私は激しく動揺する心を必死で押さえつけた。

嘘でしょ?橘隼人が?このイベントに?

私が運営する、このパーティーに?

脳内は、完全にパニックだ。

推しが、私の仕事場に来る。

それは、ファンとして考えうる限り、最高にして最悪のシチュエーションだった。

会いたい。一目でもいいから会いたい。でも、絶対に会いたくない。

だって、私はこのイベントの責任者なのだ。

ファンの素振りなど微塵も見せず、「人事部の長谷川さん」として、プロフェッショナルに彼と接しなければならない。そんなこと、果たして私にできるだろうか。

心臓はバクバクと暴れ、手のひらにはじっとりと汗が滲む。

他の役員たちが「彼が来てくれたら、話題性は抜群だな」「若い女性社員が喜びそうだ」などと話している声が、やけに遠くに聞こえる。

結局、スペシャルゲストは、満場一致で橘隼人に決定した。

その夜、私は幽霊のような足取りで家に帰った。

レオが心配そうに足元にすり寄ってくる。

「レオ…どうしよう…。ハヤトが、会社に来るの…」 情けない声で訴える私に、レオは「ふみゃあ?」と不思議そうに首を傾げた。

それからの日々は、まさに地獄だった。

ハヤトの所属事務所との交渉、当日の段取りの確認、警備計画の策定。

彼の名前を見るたび、彼の声(を代弁するマネージャーの声)を聞くたびに、私の心臓はジェットコースターのように急上昇と急降下を繰り返した。

イベントが近づくにつれて、私の緊張は極限に達していた。

うまく笑えているだろうか。

挙動不審になっていないだろうか。

周りに、私がハヤトの熱狂的なファンだなんて、バレていないだろうか。

パーティーの三日前。

最終確認のために、私はハヤトの楽屋として用意された部屋を訪れた。

ケータリングのメニュー、用意するドリンクの種類、そして、タオルや楽屋着。

事務所からのリクエストリストは、驚くほど細かかった。

「タオルは今治産、無香料のものを。楽屋着は肌触りの良いコットン100%。それから、リラックス効果のあるアロマを…」

マネージャーからの要求を一つ一つ確認しながら、メモを取る。

推しは、こんなにも丁重に扱われているのか。

なんだか、自分が母親にでもなったような、不思議な気持ちだった。

そのリストの中に、ふと、見慣れた単語を見つけて、私の指が止まった。

『衣類の洗濯に使用する柔軟剤は、指定の銘柄でお願いします』

そこに書かれていたのは、まさしく、私がいつも使っている、あのベビーパウダーの香りの柔軟剤の名前だった。

「え…?」

偶然?いや、でも、こんなことってある? もしかして、ハヤトも、この香りが好きなの?それとも、昔飼っていたペットが、この匂いを好んだとか…?様々な憶測が、頭の中を駆け巡る。

その瞬間、私の脳裏に、ブランケットに顔をうずめて幸せそうに眠る、レオの姿が浮かんだ。

まさか、ね。

あり得ない偶然の一致に、私は乾いた笑いを漏らすことしかできなかった。

でも、この不思議な繋がりは、張り詰めていた私の心を、ほんの少しだけ、解きほぐしてくれたような気がした。

 

奇跡の香りと、明日への一歩

 

パーティー当日。 煌びやかなシャンデリアが輝くホテルの宴会場は、多くの招待客でごった返していた。

私は、黒いパンツスーツに身を包み、インカムを装着して、会場全体に鋭い視線を走らせる。

プロジェクトリーダーとして、片時も気は抜けない。

でも、私の内心は、穏やかさとは程遠かった。

あと三十分で、橘隼人がこの会場に到着する。

心臓は、今にも口から飛び出しそうだ。

何度も深呼吸を繰り返し、鏡に映った自分の顔をチェックする。

大丈夫。

今日の私は、ただのイベント責任者。冷静に、完璧に、任務を遂行するのよ。

「長谷川さん、橘さん、ご到着です」 インカムから、後輩の弾んだ声が聞こえた。

来た。

ついに、来てしまった。

私は、スタッフ用の通路を早足で進み、楽屋へと向かう。

ドアの前で一度、大きく息を吸い込む。ノックをして、中に入る。

「橘さん、本日はお越しいただき、誠にありがとうございます。イベント責任者の、長谷川と申します」

練習通り、完璧な挨拶。

顔を上げると、そこに、いつも画面の向こうで見ていた、あの人が立っていた。

テレビで見るよりもずっと背が高くて、顔が小さくて、そして、圧倒的なオーラを放っている。

「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます。橘隼人です。今日はよろしくお願いします」

にこやかに微笑みかけられ、私の心臓は悲鳴を上げた。

だめだ、直視できない。意識が飛びそうだ。

「控室はこちらになります。何かご不便はございませんか?」

「ええ、万全です。ありがとうございます」

彼の視線が、ふと、楽屋の隅に置かれたブランケットに向けられた。

それは、事務所からのリクエスト通りに用意した、指定の柔軟剤で洗った、真新しいブランケットだった。

彼と私の間に、数秒の沈黙が流れる。

何か話さなければ。業務連絡を、何か。頭が真っ白になり、言葉が出てこない。

緊張で、指先が冷たくなっていく。

どうしよう、このままじゃ、ただの挙動不審なスタッフだ。

その、時だった。

ふわり、と。どこからか、とても懐かしい香りが、私の鼻先を掠めた。

それは、ハヤトが纏っているオーラや香水とは違う、もっと優しくて、もっと生活に根差した香り。

毎日、私の心を癒してくれる、あの香り。 レオが愛してやまない、ベビーパウダーのような、あの柔軟剤の香りだった。

おそらく、彼が羽織っている楽屋着から香っているのだろう。

事務所が指定した、あの柔軟剤の匂い。

その香りを吸い込んだ瞬間、私の脳裏に、家のソファで待っているレオの姿が、鮮明に浮かんだ。

ブランケットに顔をうずめ、ゴロゴロと喉を鳴らし、「美月、がんばって」とでも言うように、私を見つめている、あの愛おしい顔が。

すうっと、肩の力が抜けていくのがわかった。

あれほど暴れていた心臓が、穏やかなリズムを取り戻していく。

まるで、魔法が解けたように。

そうだ。私は一人じゃない。

家には、世界で一番可愛い応援団長が待っているんだ。

目の前にいるのは、確かに私の「推し」だ。

でも、今の私には、彼を神格化するのではなく、一人の「仕事相手」として、きちんと向き合える強さがある。

レオがくれた、心の余裕。レオが繋いでくれた、不思議な奇跡。

「橘さん」 気づけば、私は自然な笑顔で、彼に語りかけていた。

「実は、私もその柔軟剤、使っているんです。うちの猫が、この匂いが大好きで」

我ながら、なんて大胆なことを口走ったのだろう。でも、後悔はなかった。

私の言葉に、ハヤトは少し驚いたように目を丸くし、それから、ふっと、あの少年のような笑顔を見せた。

「そうなんですか。奇遇ですね。俺も、昔飼ってた猫が、この匂いが好きだったんです。だから、落ち着くというか…お守りみたいなものなんです」

そう言って、彼は少しだけ照れくさそうに笑った。

その瞬間、私の中で、何かが完全に繋がった。

レオがこの香りを好んだのは、偶然なんかじゃなかったのかもしれない。

前の飼い主さんが、ハヤトのファンだった?それとも、もっと不思議な縁が…?いや、そんなことはどうでもいい。

ただ、この香りが、私の推しと、私の愛猫と、そして私自身を、優しく繋いでくれた。

その事実が、たまらなく嬉しかった。

「素敵なお話ですね。きっと、その猫さんも、橘さんのこと、空から応援してますよ」

「だと、いいんですけどね」

私たちは、顔を見合わせて、小さく笑い合った。

もう、緊張はどこかへ消え去っていた。

そこにいたのは、「俳優・橘隼人」と「ファン」ではなく、猫を愛する者同士という、ささやかで温かい共感を分かち合った、ただの人間だった。

イベントは大成功に終わった。

私は最後まで冷静に、リーダーとしての役目を全うすることができた。

ハヤトはステージの上で、完璧なパフォーマンスを披露し、会場を熱狂の渦に巻き込んだ。

その姿を舞台袖から見つめながら、私は、以前とは少し違う、穏やかで誇らしい気持ちで胸をいっぱいにしていた。

深夜、タクシーでようやく家にたどり着く。

ドアを開けると、レオが「おかえり!」とでも言うように、足元に駆け寄ってきた。

私はハイヒールを脱ぎ捨てるのももどかしく、その場にしゃがみこんで、レオを力強く抱きしめた。

「ただいま、レオ。ありがとう。君のおかげだよ」

レオは、私の腕の中で、ゴロゴロゴロ…と満足そうに喉を鳴らした。

鼻先に感じる、いつもの愛おしい香り。

推しは、やっぱり遠い世界の、手の届かない星のような存在だ。

でも、それでいい。

私の日常には、この腕の中に、確かなぬくもりがあるのだから。推し活も、仕事も、そしてこの小さな家族との時間も。全部が繋がって、私の毎日を、昨日よりも少しだけ輝かせてくれている。

窓の外では、東京の夜景が瞬いている。

私はレオを抱き上げたまま、ソファに深く身を沈めた。

「さて、と。録画しておいた今日のハヤト、一緒に観よっか」

私の言葉に、レオは「にゃん」と短く鳴いた。

それは、世界で一番、心強い「いいね!」に聞こえた。

明日からまた始まる、いつも通りの日常。でも、もう何も怖くはない。そんな、確かな予感がした。

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