完璧な世界のひび割れ

ガラン、と。心の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。
高層ビルの最上階にあるオフィスの窓は、まるで一枚の巨大な絵画のように、夕暮れの東京を切り取っている。
眼下には、家路を急ぐ車の赤いテールランプが川のように流れ、ビルの灯りが地上に散りばめられた星々のように瞬いていた。
誰もが羨むような、きらびやかな景色。
一年半もの歳月を費やした大規模複合施設のプロジェクトが、今日、ついに終わった。
「お疲れ様、香子さん!さすがだね。クライアントも大絶賛だったよ」
「今回の成功は、間違いなく君のおかげだ」
同僚や上司からの賞賛の言葉が、やけに遠くに聞こえる。
私は、建築デザイナー、篠宮香子、40歳。
ただ頷き、完璧な笑顔を顔に貼り付けながら、「ありがとうございます。皆さんのサポートのおかげです」と、台本通りのセリフを口にした。
デスクに戻ると、精巧に作られたビルの模型が、スポットライトを浴びて誇らしげに立っている。
ミリ単位の狂いもなく、完璧なフォルム。
それは、この一年半、私のすべてだった。
食事も、睡眠も、プライベートな時間さえも削って、この完璧な世界を創り上げることに心血を注いできた。
やりきった。――はずだった。
なのに、胸の中にあるのは、祝祭の後のような静けさではなく、風が吹き抜けるだだっ広い空き地のような、途方もない空虚感だった。
まるで、魂だけがすっぽりと抜け落ちてしまったみたいに。
これが、世に言う「燃え尽き症候群」というものなのだろうか。他人事のように、ぼんやりと思った。
「ただいま」
オートロックのマンションの重いドアを開けても、返事はない。
しんと静まり返った部屋の電気をつけると、ふわりとした白くて柔らかい塊が、足元にすり寄ってきた。
「ソラ」
名前を呼ぶと、「にゃーん」と短い返事が返ってくる。
私の愛猫、ソラ。
その名の通り、空色をした澄んだ青い瞳を持つ、美しい白猫だ。
プロジェクトが佳境に入ってからは、この子にゆっくり構ってやる時間さえなかった。
ごめんね、と心の中で謝りながら、その柔らかな背中を撫でる。
ゴロゴロという喉を鳴らす振動が、私の冷え切った手に、じわりと温もりを伝えてくれる。
この温もりだけが、今の私の唯一の真実だった。
ソファに深く体を沈め、買ってきたコンビニのサラダを無心で口に運ぶ。
味なんてしない。
ふと、PCのスクリーンセーバーに目をやる。
それは、いつか行ってみたいと保存していた、北の果てにある静かな湖の写真だった。
風のない湖面に、緑豊かな木々と青い空が鏡のように映り込んでいる。
「……行きたいな」
無意識に、言葉がこぼれた。
ここじゃない、どこかへ。
すべてを投げ出して、この息苦しい日常から逃げ出してしまいたい。
そんな衝動に駆られて、私はスマホを手に取った。
吸い寄せられるように指が動き、「一人旅」「長期休暇」とキーワードを打ち込んでいく。
その時、偶然目に飛び込んできた広告があった。
『愛するペットと一緒に、自由な旅へ。キャンピングカー長期レンタル』
その文字を見た瞬間、心臓がとくん、と跳ねた。
私の視線は、膝の上で満足げに喉を鳴らしているソラへと移る。 ソラと、一緒に?
「……ありえない、かな」
建築デザイナーとしての理性が、即座に警鐘を鳴らす。
「〜ねばならない」という思考の癖が、頭をもたげた。
猫を連れての長旅なんて、ストレスを与えるだけだ。
そもそも、長期休暇なんて取れるわけがない。
次のプロジェクトもすぐに始まる。
私は、完璧なキャリアを維持しなければならない。
でも。 でも、と。もう一人の私が、心の奥でささやく。
このままじゃ、私は壊れてしまう。
完璧な模型を作ることはできても、自分自身の人生の設計図は、もうボロボロじゃないか。

その時、ソラが私の顔をじっと見上げ、もう一度「にゃん」と鳴いた。
その空色の瞳は、まるで湖の写真と同じ色をしていた。
澄み切った青が、私の心の澱みをすべて見透かしているようだった。
「……そっか。行きたいのは、私だけじゃないのかもね」
何かに背中を押されるように、私はレンタルサイトの予約ボタンを押していた。
行き先は、あのスクリーンセーバーの湖。
期間は、思い切って一ヶ月。
正気じゃない。
でも、これが今の私に必要なことだと、魂が叫んでいた。
「よし、行こうか。ソラ」
膝の上の温かい塊に向かって宣言すると、ソラはまるで「やっと決心したのかい」とでも言うように、ふぁ〜、と大きなあくびを一つした。
こうして、私とソラの、計画性ゼロで、目的地だけが決まっている、人生の休暇が幕を開けたのだ。
猫が教えてくれる道
出発の日は、梅雨の晴れ間の、まぶしい朝だった。
レンタルショップで受け取ったキャンピングカーは、想像していたよりもずっと大きくて、白いボディが朝日に輝いている。
名前は「カシオペア号」とプレートにあった。
なんだか、夜空を旅するみたいで素敵だ、と少しだけ心が浮き立った。
「お姉さん、猫ちゃんと旅かい。そりゃあ、いい相棒だ」
対応してくれたのは、日焼けした顔に人の良さそうなシワを刻んだ、
初老の男性オーナーだった。
一通りの説明を受けた後、彼はおもむろに言った。
「地図通りに行かなくたっていいんだよ。予定なんて、あってないようなもんさ。猫が教えてくれる道が、きっと一番いい道だから」
その言葉は、設計図通りにしか物事を進められない私にとって、まるで禅問答のように聞こえた。
ソラ専用のケージを助手席に固定し、いざ出発。都心の喧騒を抜け、高速道路に乗った瞬間、ぎゅっと握りしめていたハンドルを少しだけ緩めることができた。
風が、窓から心地よく吹き込んでくる。

これからどうなるのかなんて、全く分からない。
でも、不思議と不安はなかった。
隣でソラが、時々「なー」と鳴いて、私の顔を見上げる。
大丈夫だよ、とアイコンタクトを返しながら、私はアクセルをゆっくりと踏み込んだ。
旅は、ハプニングの連続だった。
最初に立ち寄ろうとした景色の良いオートキャンプ場は、「申し訳ありません、ワンちゃんはOKなんですが、猫ちゃんはちょっと…」と、まさかの猫NG。
理由は、他のキャンパーの犬が興奮してしまうから、らしい。
犬が良くて猫がダメなんて、そんな理不尽な!と憤慨しかけたが、ここで怒っても仕方がない。
「ごめんね、ソラ。私のリサーチ不足だ」
しょんぼりする私を、ソラはケージの中から「別に気にしてないけど?」と言いたげな顔で見ている。
結局その夜は、少し先のサービスエリアで車中泊をすることになった。
完璧な計画を立てられない自分に少し落ち込んだけれど、エンジンを止めると、思いのほか車内は静かで、ソラの寝息がすぐそばに聞こえるのが、なんだか嬉しかった。
またある時は、車内からソラの姿が忽然と消えて、心臓が凍りついた。
「ソラ!ソラ!」 名前を呼んでも返事はない。
まさか、ドアを開けた隙に外へ?血の気が引いて、半泣きで車内を探し回った末、ようやく見つけ出したのは、運転席のシートの下の、ほんのわずかな隙間だった。
丸くなって、すやすやと眠っている。
「もう、心配させないでよ…!」
抱き上げると、ソラは迷惑そうに「にゃっ」と鳴いた。まったく、このマイペースなお猫様には敵わない。
でも、そんな小さな事件が、なぜかおかしくて、一人で声を出して笑ってしまった。
会社にいた頃は、こんな風に笑うことなんて、すっかり忘れていた。
旅を続けて数日。
私は、何かを「しなければならない」という強迫観念から、少しずつ解放されているのを感じていた。
朝は、ソラが私の顔を前足でちょいちょいと叩くので目が覚める。
コーヒーを淹れて、窓の外の景色を眺めながら、ソラと一緒に朝ごはんを食べる。
昼間は、景色のいい場所を見つけては車を停め、スケッチブックを広げたり、本を読んだり、ソラと日向ぼっこをしながら昼寝をしたり。
何もしない。 ただ、そこにいる。

最初は、その時間の使い方に罪悪感すら覚えていた。
何か生産的なことをしなければ。この時間も、キャリアにとってはマイナスでしかない。
そんな声が頭の中で聞こえてくる。
けれど、隣でへそ天になって無防備に眠るソラの姿を見ていると、まあ、いっか、と思えた。
「完璧じゃなくても、死にはしない、か」
ぽつりと呟いた言葉は、風に溶けていった。
とある高原の道の駅に立ち寄った時のこと。
地元の野菜を売っていた、腰の曲がったおばあちゃんに声をかけられた。
「あらまあ、可愛い猫ちゃんだねぇ。お姉さん、器用だね、そのベッド、手作りかい?」 おばあちゃんが指差したのは、私が古いセーターで作った、即席の猫用ベッドだった。
「ええ、まあ…」 「愛情たっぷりだ。この子も幸せもんだねぇ」
その何気ない一言が、じんわりと心に沁みた。
仕事の成果を褒められるのとは全く違う種類の、温かい肯定。
私は、トマトときゅうりをいくつか買って、何度も「ありがとう」と言った。
その夜、採れたてのトマトを丸かじりすると、驚くほど濃い、太陽の味がした。
旅の折り返し地点を過ぎた頃、私は海沿いの小さな町で、一人の女性に出会った。
私より十歳は若く見える彼女は、同じように改造したバンで生活する「バンライファー」だった。
フリーランスのイラストレーターとして、好きな場所で、好きな時間に仕事をしているという。
「香子さんのそのキャンピングカー、素敵ですね!私もいつか、もっと大きいのに乗りたいな」 屈託なく笑う彼女、ミナミさんと、海岸でコーヒーを飲みながら色々な話をした。
仕事のこと、人生のこと、そして、自由のこと。
「私、会社を辞める時、すっごく怖かったんです。安定を手放すのが。でも、一度きりの人生だから、後悔したくなくて」 そう語る彼女の瞳は、キラキラと輝いていた。
「『〜ねばならない』じゃなくて、『〜したい』で生きていきたかったんですよね」
その言葉は、私の胸に鋭く突き刺さった。
そうだ、私も、ずっとそう思っていたはずなのに。いつの間にか、「ねばならない」という鎧で自分をガチガチに固めて、身動きが取れなくなっていたんだ。
「すごいね、ミナミさんは。ちゃんと、自分の人生のハンドルを握ってる」
「香子さんだって、今、こうして旅してるじゃないですか。ちゃんと、握ってますよ」
ミナミさんはにっこりと笑った。
その夜、私は久しぶりに、自分の仕事について考えた。
建築デザイナーという仕事は、好きだ。
でも、今の働き方は、本当に私が「したい」ことなのだろうか。
答えは、まだ見つからない。けれど、暗闇の中に、一筋の光が差し込んだような気がした。
嵐の夜の約束
旅の最終目的地、スクリーンセーバーで見たあの湖は、噂に違わず、神秘的な美しさを湛えていた。
まるで、世界のすべての青を集めたような湖面。
時間を忘れて、ただただ見入ってしまう。
旅の終わりが、すぐそこまで来ている。
東京の日常に戻ることを考えると、胸が少しだけざわついた。
この旅で得た、この穏やかな気持ちを、私は持ち帰ることができるのだろうか。
また、あの息苦しい日々に逆戻りしてしまうのではないか。
そんな不安を抱えたまま迎えた、湖畔での三日目の夜。
天気予報にはなかった、突然の嵐がやってきた。
ゴロゴロという地鳴りのような雷鳴が響き渡り、バケツをひっくり返したような激しい雨が、カシオペア号の天井と窓を叩きつける。
車体が、風でミシミシと揺れる。
まるで、自然という巨大な力に、木の葉のように翻弄されている感覚。
その時、パンッ、という短い音と共に、車内の明かりがすべて消えた。
停電だ。
一瞬にして、完全な暗闇と、轟音だけが支配する世界に放り込まれる。
怖い。 心臓が、早鐘のように鳴り響く。
どうしよう。
このまま、車ごと湖に落ちてしまったら?次々と湧き上がる最悪のシナリオに、呼吸が浅くなる。パニックになりかけた、その時。
私の腕の中に、温かいものが、ぐいぐいと潜り込んできた。
ソラだ。
暗闇の中で、その気配だけがはっきりと分かる。
いつもはマイペースで、クールな素振りさえ見せるソラが、明らかに怯えて、私の腕にしがみついている。
小さな体が、小刻みに震えているのが伝わってきた。
「……そっか。ソラも、怖いよね」
私は、震えるソラを、ぎゅっと抱きしめた。
大丈夫だよ。大丈夫。
私が、ついてるから。
何度も、そう言い聞かせた。
それは、ソラに対して言っているようで、本当は、自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
守ってあげなきゃ。
私が、この子を守らなきゃ。
その一心で、ソラの体を撫で続ける。
すると、腕の中で、あの音が聞こえてきた。
ゴロゴロ…ゴロゴロ…
怯えながらも、ソラは喉を鳴らしていた。
それは、不安な自分を落ち着かせるための音。
そして、私を安心させるための、信頼の音。
その小さな振動が、私のパニック寸前の心を、ゆっくりと鎮めてくれた。

ああ、そうか。私は、この子に癒やされているだけじゃなかった。支えられていたんだ。
私がソラを守っているようで、実は、この小さな命が、私のことをずっと守ってくれていたんだ。
一人で完璧に戦ってきたつもりだった。
でも、違った。
私は、一人じゃなかった。 ずっと、そばにいてくれたじゃないか。
「ありがとう、ソラ」
暗闇の中で、涙がこぼれた。
それは、恐怖の涙ではなく、温かい感謝の涙だった。
私は、ソラを抱きしめたまま、嵐が過ぎ去るのを待った。
外の轟音が、もうそれほど怖くはなくなっていた。
この腕の中にある温もりと、ゴロゴロという確かな生命の音が、私にとっての世界そのものだったから。
夜が明ける頃、嵐は嘘のように過ぎ去っていた。
新しい人生の設計図
そっと車のドアを開けると、雨に洗われた木々の匂いと、湿った土の匂いが、胸いっぱいに広がる。
空は、洗い立てのシーツのように澄み渡り、湖は、昨夜の嵐が嘘だったかのように、静かな水面を取り戻していた。
そして、私は息をのんだ。
東の空に、くっきりと大きな虹がかかっていたのだ。
湖面にまで映り込み、二重の光のアーチが、世界を祝福しているようだった。
その、あまりにも完璧な美しさの前に立った時、私の心に、すとん、と一つの答えが落ちてきた。
完璧じゃなくても、いいんだ。
計画通りにいかないハプニングも、嵐の夜の恐怖も、それがあったからこそ、今、この景色をこんなにも愛おしく感じられる。
不完全な旅路のすべてが、この美しい朝に繋がっていた。
だとしたら、私の人生も、きっと同じだ。傷ついたり、回り道したり、計画通りにいかなかったり。
そんな不完全さこそが、私だけの、美しい設計図を描き出すのかもしれない。
私は、カシオペア号に戻ると、スケッチブックと鉛筆を取り出した。
そして、夢中で一枚の絵を描き始めた。
それは、摩天楼の設計図ではない。
誰かに絶賛されるための、完璧な建築模型でもない。
窓からたくさんの光が差し込む、小さなリビング。
キャットウォークがあって、ソラが自由に駆け回れる。
庭には、小さな家庭菜園があって、あの道の駅で買ったトマトを育てるんだ。
豪華じゃなくていい。
完璧じゃなくてもいい。
私とソラが、心から笑って暮らせる家。
それが、この旅で見つけた、私の新しい人生の設計図だった。
東京への帰路は、来た時とは全く違う、晴れやかな気持ちだった。
立ち寄った道の駅で、キャンピングカーのオーナーのおじさんと、バンライファーのミナミさん、そして、野菜を売ってくれたおばあちゃんへのお土産を買った。
伝えたい「ありがとう」がたくさんあった。
一ヶ月ぶりに戻った会社で、同僚たちが「おかえり!リフレッシュできた?」と迎えてくれる。
「はい。最高の休暇でした」 私は、心の底からそう答えていた。
復帰後、最初のミーティングで、私はチームの意見にじっくりと耳を傾け、そして自分のアイデアを口にした。
「このリビング、もう少し天井を高くして、梁をむき出しにするのはどうでしょう。そこに、キャットウォークを設置できるように。完璧なデザインも素敵ですけど、そこに住む家族が…猫も含めた家族が、どう笑って暮らすかを想像する方が、もっと素敵な家になる気がするんです」
私の言葉に、一瞬、会議室が静まり返った。
けれど、すぐに若いデザイナーの一人が「それ、すごくいいですね!」と目を輝かせた。
私の内側の変化は、確実に、外の世界にも良い影響を与え始めているようだった。
週末。

私は、再びカシオペア号のレンタル手続きをしていた。
「おや、お姉さん。もう次の旅かい?」 オーナーのおじさんが、いつもの笑顔で迎えてくれる。
「ええ。もう、旅は特別なものじゃなくて、私の日常の一部になったみたいなので」
助手席には、すっかり旅慣れた顔のソラがいる。
エンジンをかけ、私は柔らかな日差しが降り注ぐ東京の街を走り出す。
「さて、ソラ」 信号待ちで、隣の相棒に語りかける。
「次の週末は、どっちの方角へ行こうか?」
ソラは、私の言葉が分かっているかのように、「にゃん」と一つ鳴いて、気持ちよさそうに目を細めた。
私の手の中には、まだ白紙のページがたくさん残された、新しい人生の設計図がある。
これから、この愛しい相棒と一緒に、どんな景色を描き込んでいこうか。
空を見上げると、どこまでも青い夏空が広がっていた。