空っぽの私と、夕暮れの街
平日の夜。カレンダーアプリに登録された会食の通知が、スマートフォンの画面を無機質に光らせる。
今日お会いするインフルエンサーは、たしかフォロワーが30万人。
相槌は多めに、褒め言葉は具体的に。そんなシミュレーションを頭の中で繰り返しながら、私は、鏡の中の自分に問いかけた。
「ねぇ、今日の私、イケてる?」
鏡に映るのは、アパレルブランドのプレスとして完璧に武装した、相武詩織、33歳。
今年流行りのラベンダー色のセットアップに、おろしたてのピンヒール。広報用の笑顔を貼り付けた顔は、我ながら上出来だ。
でも、その瞳の奥には、誰にも見せられない淀みが揺れていた。
キラキラした世界。それが、私の職場。
シーズンごとに目まぐるしく入れ替わるトレンドを追いかけ、雑誌やSNSで自社の商品をアピールする。
一見、華やかで誰もが羨むような仕事。でも、その実態は、常に数字と評価に追われる消耗戦だ。
『詩織って、本当に楽しそうだよね』
友人はそう言うけれど、本当の私は、空っぽだった。
流行りの服を着て、話題のレストランで食事をして、SNSには「#充実した毎日」なんてハッシュタグを並べる。
けれど、心のグラスはいつだって乾いていて、どんなに高価なシャンパンを注いでも、ちっとも満たされることはなかった。
「なんだか、疲れちゃったな……」
ぽつりと呟いた言葉は、広すぎるワンルームの部屋に吸い込まれて消えた。
このままじゃ、ダメだ。何かが違う。
心の奥で鳴り響く警鐘に、ずっと気づかないふりをしていた。
そんな思いがピークに達した、ある週末の午後。
クローゼットの奥で埃をかぶっていた、父の形見の一眼レフカメラを、ふと手に取った。
ずしりと重いその感触が、妙に心地いい。
「そうだ、写真を撮りに行こう」
行き先は、ずっと気になっていた谷中。
SNSで「#エモい街」としてよく見かけるけれど、訪れたことはなかった。
目的は、もちろんSNSにアップする「それらしい」写真を撮ること。
そうでもしないと、休日を無為に過ごしてしまった罪悪感に苛まれるから。
電車を乗り継ぎ、日暮里駅に降り立つ。
ざわめき立つ駅前を抜け、夕やけだんだんの階段に差し掛かった時、ふわりと風が頬を撫でた。
そこには、都心とはまるで違う、穏やかで、どこか懐かしい時間が流れていた。
商店街の店先で丸くなる猫。
軒先に吊るされた風鈴の涼やかな音色。カメラを構え、ファインダーを覗き込む。
でも、なぜかシャッターが切れなかった。切り取られた四角い世界が、途端に色褪せて見えたのだ。
「何、やってるんだろう、私……」
自嘲気味に呟き、カメラを下ろしたその時だった。
視線の先に、すっと一本の白い光が横切った。
目を凝らすと、それは一匹の白猫だった。
夕陽に照らされた毛並みは、まるでシルクのようにつややかに輝き、空の色を映したような青い瞳が、じっと私を見つめている。

その神秘的な美しさに、私は息をのんだ。
猫は、まるで「こっちへおいで」とでも言うように、しなやかな尻尾を一度揺らすと、くるりと身を翻し、細い路地裏へと消えていく。
私は、何かに強く引かれるように、その白い背中を追いかけていた。
ゆうやけ色のカフェと、気まぐれなセラピスト
白猫を追って迷い込んだ路地裏は、まるで異世界への入り口のようだった。
入り組んだ道の両脇には、昭和の面影を残す木造家屋が並び、どこからか醤油の香ばしい匂いが漂ってくる。
コツ、コツ、と私のヒールの音だけが、やけに場違いに響いていた。
白猫は、時々こちらを振り返り、私の歩みを確認するかのように、また前へと進んでいく。
まるで、熟練のガイドのようだ。
そして、一つの古民家の前でぴたりと足を止めると、「にゃあ」と短く鳴いて、私を見上げた。
そこは、蔦の絡まる木製の看板に「古民家カフェ ゆうやけだんだん」と手書きの文字が踊る、趣のある店だった。
猫は、慣れた様子で小さな引き戸の隙間から、すいっと中へ入ってしまう。
どうしよう。
一瞬ためらったけれど、ここまで導いてくれた猫に挨拶くらいはしたい。
それに、歩き疲れた足は、甘いものと休息を求めていた。
私は意を決して、軋む引き戸に手をかけた。
「いらっしゃいませ」
カラン、という鈴の音とともに、優しく穏やかな声が私を迎えた。
店内は、木の温もりと珈琲の香ばしいアロマに満ちていて、窓から差し込む西日が、空間をノスタルジックなセピア色に染めている。
「あの、白い猫を追いかけてきたら、ここに……」 「あら、ユキに呼ばれたのね。あの子、時々素敵なお客さんを連れてきてくれるのよ」
そう言って微笑んだのは、結い上げた髪に銀色のかんざしを挿した、柔和な雰囲気の女性だった。
年の頃は50代くらいだろうか。
店主の聡子さんだ。
カウンターの隅に目をやると、さっきの白猫が、香箱座りをして満足げに喉を鳴らしている。
その足元には「看板猫 ユキ」と書かれた小さな木の札が置かれていた。
「どうぞ、お好きな席へ」
聡子さんに促され、窓際の席に腰を下ろす。
注文したクリームソーダは、夕焼け空を溶かしたような茜色で、キラキラと輝いていた。
それから私は、週末になると「ゆうやけだんだん」に通うようになった。
聡子さんの淹れる珈琲は格別だったし、何より、気まぐれなユキの存在が、私のささくれた心を少しずつ癒やしてくれたのだ。
最初のうちは、警戒して遠くから私を眺めているだけだったユキ。
けれど、私が何もせず、ただ静かにそこにいることを覚えると、少しずつ距離を縮めてきた。
ある日、私が仕事のトラブルで落ち込んでいると、ユキはそろりと足元にやってきて、私の足にすり、と頬を寄せた。
その温かくて柔らかな感触に、張り詰めていた涙腺が、いとも簡単に決壊してしまった。
「……っ、う……」
声を殺して泣く私の膝に、ユキはひらりと飛び乗ってきた。
そして、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、私の涙を舐めるでもなく、ただじっと、そこにいてくれた。
まるで、「大丈夫だよ」とでも言うように。

このカフェには、私以外にも様々な常連客がいた。
夢を追いかけるフリーのイラストレーターの美咲さん。
彼女は、締め切り前になるとよくこのカフェで最後の追い込みをかけていて、
「ユキは私の女神様なの。煮詰まった時に撫でると、アイデアが降ってくるのよ」なんて笑っていた。
妻に先立たれたという高橋さんは、いつも窓際の同じ席で文庫本を読んでいた。
「あいつが猫好きでね。ユキを見ていると、あいつと一緒にいるような気がするんだ」と、少し寂しそうに、でも幸せそうに話してくれた。
誰もが、何かを抱えながら、このカフェで穏やかな時間を過ごしている。
ここでは、誰も私の仕事や年収を気にしない。
流行遅れの服を着ていても、誰も笑わない。
ただ、「詩織さん」として、そこにいることを許される。
ある日のこと。私が、会社のブランド物のバッグを無造作に床に置いていると、ユキがそれに気づき、バリバリと爪を研ぐような仕草を見せた。
「あーっ! ユキちゃん、ダメダメ! それ、今シーズンの新作なの!」
慌ててバッグを抱きかかえる私を見て、聡子さんや美咲さんがくすくすと笑う。
「詩織さん、必死ね」
「だって、これ、傷でもついたら……」
言いかけて、私はハッとした。
傷ついたら? 誰かに何かを言われるわけでもない。
ただ、私自身が「プレスのくせに」と自分を責めるだけだ。
そんな見栄やプライドが、今の私をどれだけ縛り付けているんだろう。
膝の上で、ユキが「にゃあ?」と不思議そうに私を見上げる。
その青い瞳は、まるで私の心の中を見透かしているようだった。
「ごめんね、ユキ。もう大丈夫」
私はユキの頭をそっと撫でた。
ゴロゴロという心地よい振動が、手のひらから伝わってくる。
それは、どんな高級ブランドのバッグよりも、ずっと温かくて、価値のあるものに思えた。

消えた白猫と、本当の気持ち
季節は巡り、谷中の街路樹が鮮やかな紅色に染まる秋の午後。
私はいつものように「ゆうやけだんだん」の扉を開けた。
しかし、その日のカフェは、いつもと様子が違った。
「いらっしゃい、詩織さん……」
聡子さんの声には元気がなく、カウンターに座っていた美咲さんも、不安げな表情で窓の外を見つめている。
そして、いつもなら出迎えてくれるはずのユキの姿が、どこにも見当たらなかった。
「どうかしたんですか? ユキは?」
「……それが、昨日の夜から帰ってこないのよ」
聡子さんの言葉に、心臓がどきりと音を立てた。
ユキは時々、長時間の散歩に出ることはある。
けれど、一晩帰ってこないなんて、今まで一度もなかった。
「まさか、事故にでも……」
「縁起でもないこと言わないでよ、美咲!」
聡子さんが声を荒らげる。
その必死な様子に、ユキがどれだけ大切に思われているかが伝わってきて、胸がぎゅっと締め付けられた。
その日から、私たちのユキ探しが始まった。
高橋さんも加わり、手分けをして近所を探し回る。
私は、仕事の合間を縫って、毎日谷中に通った。
「ユキー!」「ユキちゃーん!」

名前を呼びながら、路地裏を、公園を、神社の境内を歩き回る。
けれど、あの美しい白い姿を見つけることはできなかった。
ユキがいなくなって、初めて気づいた。
私がどれだけ、あの子の存在に救われていたのか。
仕事で心がささくれだった日も、将来に不安を感じる夜も、ユキのゴロゴロという喉の音を聞けば、不思議と心が凪いでいった。
それは、SNSの「いいね」の数でも、新作のバッグでも決して得られない、確かな安らぎだった。
「私の居場所は、会社じゃなくて、あそこだったんだ……」
捜索の途中、美咲さんがぽつりと言った。
「私ね、イラストレーターとして早く有名にならなきゃって、ずっと焦ってた。でも、ユキを探してこの街を歩いてたら、そんなことどうでもよくなっちゃった。夕焼けが綺麗だなとか、キンモクセイの香りがするなとか……そういうのを感じられるだけで、十分幸せなのかもなって」
高橋さんも、静かに頷いた。
「見栄や肩書なんて、人生の最後には何も残らんよ。残るのは、誰かと心を通わせた、温かい記憶だけだ。私にとっては、それが妻であり、ユキなんだ」
二人の言葉が、私の心に深く突き刺さる。
私は、何のために働いているんだろう。
誰かの評価を気にして、自分を偽って、すり減らして。そうやって手に入れたいものって、一体何だったんだろう。
ユキのいないカフェは、明かりが消えたように静かだった。
私たちはただ黙って、ユキが好きだった窓際の席を眺めていた。
失って初めて気づく、かけがえのなさ。胸にぽっかりと空いた穴は、あまりにも大きかった。
「私、会社を辞めようと思います」
その言葉は、自分でも驚くほど、自然に口からこぼれ落ちた。
聡子さんと美咲さんが、驚いて私を見る。
「もう、疲れちゃったんです。誰かのための『キラキラ』じゃなくて、自分のための『ほっこり』が欲しい。ユキが……ユキが教えてくれたんです。本当に豊かな暮らしっていうのは、もっと足元にあるんだって」
涙が、止まらなかった。
それはもう、悲しみの涙ではなかった。
やっと、自分の本当の気持ちに正直になれた、安堵の涙だった。
その時だった。
カラン、と店の扉が開き、近所の八百屋のおばちゃんが息を切らして駆け込んできた。
「聡子さん! 大変だよ! あんたんとこのユキちゃん、うちの裏の神社の縁の下に……!」
新しい命と、私の道しるべ
私たちは、おばちゃんの言葉に導かれるように、神社へと走った。
息を切らしながら、古びた社の縁の下を覗き込む。
薄暗いその奥に、見慣れた白い毛玉がうずくまっていた。
「ユキ……!」
私が呼びかけると、ユキは弱々しく「にゃあ」と鳴いた。
そして、そのユキの体に寄り添うように、小さな、小さな、三つの毛玉が動いているのが見えた。
「……赤ちゃん?」
そう、ユキは子猫を産んでいたのだ。
心配でたまらなかった失踪は、新しい命を育むための、母猫としての静かな準備だった。
「よかった……本当によかった……」
聡子さんはその場に泣き崩れ、美咲さんと私は、顔を見合わせて笑いながら泣いた。
高橋さんは、「おめでとう、ユキ」と、優しい声で呟いた。
安堵と感動が、その場にいた全員を温かく包み込む。
夕暮れの光が、生まれたばかりの子猫たちを祝福するように、キラキラと降り注いでいた。
数週間後。私は、正式に会社に辞表を提出した。
あれだけ執着していたはずのプレスの仕事も、いざ手放してみると、驚くほど心は軽やかだった。
「ゆうやけだんだん」の扉を開けると、そこには幸せな光景が広がっていた。
元気にじゃれ合う三匹の子猫たちと、それを見守る母の顔をしたユキ。

その周りを、聡子さんや常連客たちが、笑顔で囲んでいる。
「詩織さん、お疲れ様」
「ありがとうございます。なんだか、やっと自分の人生が始まった気がします」
私は、父の形見のカメラを構えた。
ファインダー越しに見えるのは、愛おしい日常の一コマ。
でも、シャッターは切らなかった。
この幸せは、四角く切り取って誰かに見せるためのものじゃない。
この胸に、この心に、直接焼き付けるものだ。
「これから、どうするの?」
美咲さんの問いに、私は微笑んで答える。
「まだ、決めてないんです。でも、まずはこの谷中の街のことを、もっと知りたくて。私の言葉で、この街の魅力を伝えるような、そんな仕事ができたらいいなって」
膝の上には、いつの間にかユキが乗っていた。
ゴロゴロという安心する振動を感じながら、私は窓の外に広がる夕焼け空を眺める。
流行の最先端にいた頃には、決して見つけることのできなかった、穏やかで、温かいグラデーション。
私の「本当の豊かさ」は、きっとこの景色の中に、このカフェの中に、そしてこの温もりの中にある。
一匹の白猫が示してくれた道しるべは、私の心のコンパスに、いつまでも確かな方角を指し示してくれるだろう。