元カレの置き土産は猫でした。~39歳、失恋から始まる幸せな毎日~

置き去りの手紙と、灰色の瞳

元カレの置き土産は猫でした。~39歳、失恋から始まる幸せな毎日~

「ごめん」

たった三文字。

テーブルの上に置かれた素っ気ないメモ用紙が、私たちの七年間に下した判決だった。

インクの滲みは、彼がほんの少しだけ迷った証だろうか。

いや、感傷に浸っている場合じゃない。涙は、もう三日三晩流し尽くして、すっかり枯れてしまった。

私、坂本葉月、39歳。

都心から少し離れた商店街で、小さなフラワーショップ「Hidamari」の店長をしている。

この部屋も、彼と一緒に選んだ。

日当たりが良くて、植物を育てるのが好きな私にぴったりだって、彼が笑っていたはずなのに。

彼の荷物は、綺麗さっぱり消えていた。

残っているのは、私があげたマグカップと、読みかけの本が数冊。

そして、この「ごめん」という置き手紙だけ。…そう、思っていた。

「にゃあ…」

か細い、不安そうな声。

声のした方へ視線を向けると、ソファの陰に、小さな灰色の塊がうずくまっていた。

銀色の毛並みに、黒い縞模様。大きな緑色の瞳が、怯えたように私を見つめている。

アメリカンショートヘア…だろうか。

ペットショップのウィンドウでしか見たことのない、気品のある猫。

「…なんで、あなたがここにいるの」

思わず漏れた声は、自分でも驚くほど冷たかった。

この猫は、私への最後の嫌がらせなのだろうか。

それとも、新しい彼女が猫アレルギーだったとか?

最低な想像ばかりが頭を駆け巡り、腹の底からじわじわと怒りが込み上げてくる。

猫は、私の殺気立った雰囲気を察したのか、さらに体を小さく縮こまらせた。

その瞳が、まるで「ごめんなさい」と言っているように見えて、私は唇を噛みしめた。

あなたに謝られても困る。悪いのは、あなたをここに置き去りにした、あの薄情な男なのだから。

腹いせ半分、そして七年分の愛情が一瞬にして行き場を失った寂しさ半分で、私はこの猫を「仕方なく」引き受けることにした。

彼への怒りを、この猫を完璧に幸せにすることで見返してやる。

そんな歪んだ決意が、空っぽになった心のかろうじての支えだった。

名前のない猫と、不器用な同居生活

猫との生活は、想像以上に手がかかった。

とりあえず必要なものを買いにペットショップへ向かうと、店員さんに「お名前は?」と聞かれて言葉に詰まる。

名前なんて、考えてもいなかった。

「…まだ、ないんです」 「そうですか。じゃあ、早く素敵な名前、付けてあげてくださいね」

優しい店員さんの言葉が、なぜだか胸に突き刺さる。

元カレの影がちらつくこの猫に、私はどんな名前を付ければいいのだろう。

結局、名前は付けられないまま、私たちは奇妙な同居生活を始めた。

猫は私を警戒して、いつも部屋の隅から様子を窺っている。

私も私で、どう接していいのか分からず、ただ黙々と餌と水の世話をするだけ。

会話のない、気まずい時間が流れた。

ある日のこと。

仕事で疲れて帰宅すると、彼が残していった観葉植物の鉢が床に落ちて割れ、土が散乱していた。

そして、土まみれになった猫が、バツが悪そうにちょこんと座っている。

「…っ、あなたねぇ!」

思わず声を荒らげた瞬間、猫はビクッと肩を揺らし、シュルシュルとソファの下に隠れてしまった。

その怯えた姿に、ハッとする。

怒りをぶつける相手が違う。この子だって、望んでここにいるわけじゃないのに。

溜め息をつきながら、黙って床を掃除する。

部屋の隅で小さくなっている猫に、「もういいから、出てきなさい」と声をかけた。

私の声が少しだけ優しかったからか、猫はおずおずと顔を出す。

その鼻の頭に、ちょこんと土が付いているのを見て、思わずフッと笑ってしまった。

失恋してから、初めて心から笑った瞬間だったかもしれない。

「ふふっ、泥棒さんみたい」

私が笑うと、猫は不思議そうに首を傾げた。

その仕草がなんだかおかしくて、また笑いがこみ上げる。

「あなた、名前、‘ルナ’にしない?月みたいに、静かで綺麗だから」

私の言葉が分かったのかは分からない。

けれど、ルナと名付けた猫は、「にゃん」と短く鳴いて、初めて私の足にそっと頭を擦り付けてきた。

硬くて不器用な、でも確かな愛情表現。その温かさに、堪えていた涙が、またポロリと一粒こぼれた。

それから、私たちの距離は少しずつ縮まっていった。

私がパソコンで店の経理作業をしていると、決まってキーボードの上に乗ってくる。

追い払っても追い払ってもめげずに乗ってくるそのふてぶてしさに、いつしか私は呆れながらも癒されていた。

夜、ベッドで静かに泣いていると、そっと隣にやってきて、ゴロゴロと喉を鳴らしてくれる。

まるで、「僕がいるよ」と慰めてくれているかのようだった。

フラワーショップの仕事にも、以前より身が入るようになった。

常連の奥様から「葉月さん、なんだか最近、表情が柔らかくなったわね。何かいいことあった?」なんて言われる始末だ。

私は「ええ、まあ」と曖昧に笑って誤魔化しながら、心の中でルナの顔を思い浮かべていた。

ルナは、元カレが残した「置き土産」なんかじゃない。

傷ついた私を癒すために、神様が遣わしてくれた、小さな天使なのかもしれない。

過去との再会、そして決別

季節は巡り、木々の葉が色づき始めた秋の午後。

店の仕入れのために市場へ向かう途中、見慣れた横断歩道で信号待ちをしていた。

ふと隣に並んだカップルに目をやり、息を呑む。

彼だった。

私の隣で七年間笑っていたはずの男が、知らない女性と腕を組んで、幸せそうに微笑んでいた。

女性は、私よりもずっと若くて、太陽みたいに明るい笑顔が印象的な人だった。

時間が止まったようだった。

心臓が嫌な音を立てて脈打つ。

彼も私に気づき、一瞬、気まずそうに目を見開いた。

「…葉月」 「……」

何か言わなければ。

でも、どんな言葉も喉の奥に詰まって出てこない。

隣の女性が「知り合い?」と不思議そうに彼を見上げる。

彼は慌てたように「ああ、昔の…」と口ごもった。

その瞬間、私の中で何かがぷつりと切れた。

昔の人?七年という月日は、あなたにとって「昔」の一言で片付けられる程度のものだったの?

悔しさと惨めさで、目の前が真っ赤になる。

今にも泣き出しそうな私を、彼は困ったような、それでいて同情するような目で見ている。

ああ、もうダメだ。そう思った時、ふと、今朝の出来事が頭をよぎった。

家を出る前、ルナが玄関までついてきて、「行かないで」とでも言うように私の足にじゃれついてきたのだ。

「もう、ルナ。すぐ帰ってくるから、お利口にしててね」。

そう言って頭を撫でると、ルナは名残惜しそうに「にゃあ」と鳴いた。

あの温かい毛の感触。私だけを見つめる、真っ直ぐな緑色の瞳。

そうだ。私には、私の帰りを待ってくれている存在がいる。

この人じゃない。私を過去の女として見るこの男ではなく、ただひたすらに私を必要としてくれる、愛おしい家族が。

「お幸せに」

気づけば、私の口からそんな言葉が滑り出ていた。

自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。

彼は虚を突かれたように目を見開いている。

私はそんな彼にも、その隣で不安そうにしている彼女にも、ふわりと微笑んでみせた。

そして、くるりと踵を返し、青になった横断歩道を渡り始めた。

背中に突き刺さる視線を感じながらも、一度も振り返らなかった。

涙は出なかった。代わりに、胸の中に温かい光が灯るような、不思議な感覚が広がっていく。

早く帰ろう。ルナの待つ、あの部屋へ。

今日のお土産は、奮発して高級なカツオの缶詰にしよう。

私のための花束を

家に帰り着くと、ルナがドアの前でちょこんと座って待っていた。

私が顔を見るなり、「にゃー!」と嬉しそうに駆け寄ってくる。

「ただいま、ルナ。いい子で待ってたんだね」

ルナを抱き上げると、ゴロゴロというエンジン音が胸に響く。

この音を聞いていると、ささくれだった心がみるみるうちに治っていくのが分かった。

彼との再会で感じた痛みは、もうすっかり消え去っていた。

私は、自分のために花を活けることにした。

これまでは、誰かに贈るため、店に飾るために花を選んできたけれど、今日だけは違う。

今の私のための、私だけの花束を。

選んだのは、淡いピンクのガーベラ。

花言葉は「希望」「前進」。そして、

小さな白いカスミソウ。

「感謝」と「幸福」の気持ちを込めて。

鮮やかなブルーのデルフィニウムも添えよう。

これは「あなたは幸福をふりまく」という意味。

出来上がった小さなブーケを、窓辺の一輪挿しに飾る。

西日が差し込み、花びらがキラキラと輝いて見えた。その隣で、ルナが気持ちよさそうに丸くなっている。

「綺麗だね、ルナ」

私が呟くと、ルナは眠そうに「ふにゃ」と返事をした。

彼と別れてから一年。

私はもう、40歳になろうとしている。

でも、不思議と焦りはない。

一人は寂しいことだと思っていた。

誰かと一緒にいなければ、幸せにはなれないのだと、心のどこかで思い込んでいた。

でも、違った。

一人の時間も、悪くない。

自分のためだけに時間を使える自由。

誰にも気を遣わずに、好きな音楽を聴き、好きな本を読み、そして、愛しい猫と心ゆくまで戯れる。

そんな何気ない日常が、こんなにも愛おしくて、満たされたものだなんて。

もちろん、これから先、また誰かを好きになるかもしれない。

でも、もう二度と、誰かに寄りかかって生きるような恋はしないだろう。

私は私の足でしっかりと立って、自分の人生を歩いていく。

そして、もし隣に誰かがいてくれるなら、それは同じ方向を向いて歩いていける人がいい。

窓の外に広がる夕焼け空を眺めながら、私はそっとルナの頭を撫でた。

「ルナ、うちに来てくれて、ありがとう」

返事の代わりに、ルナは私の手にそっと自分の前足を重ねた。

その小さな肉球の感触が、確かな幸せの証のように感じられた。

彼が残した置き手紙は、もうとっくに捨ててしまった。

でも、彼が置いていったこの温かい命は、これからの私の人生を照らし続ける、かけがえのない宝物だ。

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