都会の片隅で、猫と私とゴロゴロセラピー 〜30代女子の心を溶かす名もなきセラピスト〜

都会の片隅、ゴロニャンセラピー

都会の片隅で、猫と私とゴロゴロセラピー 〜30代女子の心を溶かす名もなきセラピスト〜

灰色の金曜日

アスファルトを叩きつける雨音が、まるで世界から私だけを切り離すための分厚いカーテンのようだった。

金曜日の午後8時。企画部のエースなんて呼ばれることもあったけれど、今の私は、降りしきる雨に打たれてインクが滲んでしまった企画書みたいに、ぐしゃぐしゃで、価値のないものに思えた。

「だから、この方向性ではクライアントは納得しないと申し上げたはずです」

今日の会議で、上司が放った言葉が冷たい棘のように胸に突き刺さっている。

クライアントの無理難題と、それを丸投げする上司との板挟み。

ここ数週間、すり減る一方だった心が、今日、とうとう限界の音を立てた。

「ただいま…」

重たいドアを開けると、しんと冷えた空気が私、相川美咲(あいかわみさき)、32歳の心をさらに凍らせる。

玄関のセンサーライトが点灯し、廊下の奥から「ニャッ」と短い声がした。

声の主は、私の唯一の同居人、キジトラ猫のソラだ。

「ソラ、ただいま」

返事はない。

ただ、しなやかな尻尾をぴんと立て、まるで「お帰り。で、ご飯は?」とでも言いたげな、王様のような風格で私を見上げている。

その変わらないマイペースな姿に、ほんの少しだけ口元が緩んだ。

ソラと暮らし始めて、もうすぐ三年。ペットショップの片隅で、誰にも媚びず、達観したような目で外を眺めていた小さな命。

その瞳に吸い寄せられた日のことを、今でも鮮明に覚えている。

空のように気まぐれで、自由で、そして見ているだけで心が晴れるように。

そんな願いを込めて、「ソラ」と名付けた。

ずぶ濡れのトレンチコートを脱ぎ捨て、コンビニで買ったお弁当を電子レンジで温める。

その無機質な音を聞きながら、ぼんやりと窓の外の夜景を眺めた。

きらびやかな摩天楼の灯りが、雨粒に滲んで、まるで泣いているようだ。違う、泣いているのは、私の方か。

温め終わったお弁当をテーブルに置いても、食欲は湧いてこない。

ソファに深く沈み込むと、さっきまで堪えていた涙が、堰を切ったように頬を伝った。

悔しい。悲しい。なんで私ばっかり。

言葉にならない感情が、熱い塊となって喉の奥にこみ上げてくる。

誰かに聞いてほしい?ううん、違う。

ただ、このどうしようもない気持ちを、どこかに吐き出してしまいたかった。

名もなきセラピストの施術

膝を抱え、声を殺して泣いていると、ふわり、と足元に柔らかな感触があった。

見ると、ソラが私の足にそっと体を寄せている。

いつもは私が泣いていても知らんぷりで、気まぐれに爪をといでいたりするのに。

「ソラ…?」

ソラは何も言わず、ただ、私の足元にちょこんと座り込み、くりくりとした緑色の瞳でじっと私を見つめていた。

その瞳は、まるで心の奥まで見透かしているかのようだ。

同情でも、憐れみでもない。ただ、静かに、そこにいる。

しばらくそうしていたかと思うと、ソラはゆっくりと立ち上がり、私の太ももの上によじ登ってきた。

そして、お気に入りの場所を見つけたかのようにくるりと丸くなり、ふぅ、と小さなため息をついた。

「重いよ、ソラさん」

かすれた声で文句を言ってみるけれど、ソラは意に介さない。

それどころか、喉の奥から、あの魔法の音を奏で始めた。

ゴロゴロ…ゴロゴロ…

低く、けれど心地よく響く振動が、じんわりと体を伝わってくる。

まるで、心の凝りを優しくマッサージされているみたいだ。

涙でこわばっていた顔の筋肉が、少しずつ緩んでいく。

パソコンの画面と睨めっこしてガチガチになった肩の力が、ふっと抜けていく。

『猫のゴロゴロ音は、人の心を落ち着かせる効果がある』

いつか読んだ雑誌の記事を思い出した。

自律神経を整え、ストレスを軽減させる、科学的にも証明されたセラピーなのだと。

まさに、これだ。ソラは、私が一番必要としていた治療を、何も言わずに施してくれている。

そっとソラの柔らかな背中を撫でると、ゴロゴロ音が一層大きくなった。

温かい毛皮の感触が、冷え切った指先に伝わる。

私はゆっくりとソラのお腹に顔をうずめた。お日様みたいな、安心する匂い。

その匂いを胸いっぱいに吸い込むと、張り詰めていた気持ちの糸が、ぷつりと音を立てて切れた。

「う…っ、うわあああああん!」

もう、我慢できなかった。

私は子供のように、声を上げて泣いた。

上司への不満も、クライアントへの怒りも、将来への不安も、全部。

涙が次から次へと溢れ出て、ソラの毛皮を濡らしていく。

普通なら嫌がってどこかへ行ってしまうだろうに、ソラは逃げなかった。

ただ、ゴロゴロと喉を鳴らし続け、私の感情の嵐が過ぎ去るのを、静かに待ってくれていた。

涙がソラの毛を伝って、私のパジャマに染みを作ったその時。

ソラがむくりと顔を上げた。

そして、私の頬に残っていた涙の筋を、ざらりとした舌でぺろりと舐めた。

「…!」

その感触と、あまりの塩辛さに驚いたのか、ソラは「ニャんだこれ!?」と言わんばかりに、きゅっと眉間(?)にしわを寄せ、面白い顔をした。

その何とも言えない表情に、嗚咽で震えていた私の口から、思わず「ぷっ」と小さな笑いが漏れた。

「ふふっ…あはは!しょっぱかった?」

笑うと、また新しい涙が出てきた。

でも、さっきまでの冷たい涙とは違う。温かくて、優しい涙だった。

ソラは「もう知らにゃい」とでも言うように、再び私の膝の上で丸くなると、すぐに寝息を立て始めた。

その重みと温かさが、今は何よりも愛おしい。

ありがとう、ソラ。私だけの、名もなきセラピスト。

言葉のない週末

週末の二日間は、ソラとの時間を満喫することに決めた。

スマホの電源はオフ。

仕事のメールも、SNSのきらびやかな投稿も見ない。

私とソラだけの、静かで穏やかな世界。

土曜日の朝は、ソラと一緒に窓辺で日向ぼっこをした。

カーテンの隙間から差し込む柔らかな光が、ソラの茶色い毛を金色に輝かせる。

私のお腹の上で、ヘソ天になって無防備に眠るソラを見ていると、昨日までの悩みが嘘のようにちっぽけに思えてきた。

この子は、明日のプレゼンのことなんて考えない。

来週の会議の資料のことも、もちろん知らない。

ただ、「今」を生きている。

お腹が空いたら鳴き、眠たくなったら眠る。

日差しが気持ちよければ、一番暖かい場所を知っている。

そのシンプルで、潔い生き方が、なんだかとても眩しく見えた。

誰かに相談すれば、「そんなの上司が悪いよ」「転職しちゃえば?」なんて、色々なアドバイスをくれるだろう。

それはそれで、ありがたい。

でも、私が本当に求めていたのは、正論や解決策じゃなかったのかもしれない。

ただ、このぐちゃぐちゃな感情を、誰にも否定されずに、ありのまま受け止めてほしかっただけなんだ。

ソラは、それを叶えてくれる。

評価も、判断も、アドバイスもしない。

ただ、ゴロゴロと喉を鳴らし、「君は君のままでいい」と、その存在全てで肯定してくれる。

言葉なんて、いらない。この温もりと振動が、何よりの雄弁なのだ。

午後は、新しい猫じゃらしで遊んでやった。

獲物を狙う野生のハンターのような鋭い目つきで飛びかかってきたかと思えば、すぐに飽きてそっぽを向く。

その気まぐれさに振り回される時間さえ、今の私には最高のデトックスだった。

追いかけるのに疲れて、二人してフローリングにごろりと寝転がる。

見上げた天井は、いつもと同じはずなのに、なんだか少しだけ広く、青く見えた。

「ソラはさ、私が会社でどんなに怒られても、知らないもんね」

「ニャァ」

「私が作った企画書がボツになっても、関係ないもんね」

「フニャ…」

まるで相槌を打つかのようなタイミングのいい返事に、また笑ってしまった。

そうだ、世界は会社の会議室だけで回っているわけじゃない。

私がどんなに落ち込んでも、この部屋では穏やかな時間が流れている。

帰る場所がある。待っていてくれる存在がいる。その事実が、乾いた心にじわじわと染み渡っていく。

私だけの光

月曜日の朝。

カーテンの隙間から差し込む光で、自然と目が覚めた。

不思議と、体も心も軽い。

隣で丸くなっていたソラが、私の寝返りで目を覚まし、「ニャ…」と朝の挨拶をしてくれる。

その柔らかな頭を撫でながら、私はそっと呟いた。

「いってくるね。私だけの、セラピストさん」

クローゼットから選んだのは、少しだけ明るい色のブラウス。

鏡に映る自分の顔は、金曜日の夜とは別人のように、少しだけ血色が戻っていた。

もちろん、問題が全て解決したわけじゃない。会社に行けば、また理不尽な要求や、気の重い会議が待っているだろう。

でも、もう大丈夫。

玄関で靴を履いていると、ソラが足元にすり寄ってきた。

「いってらっしゃい」の儀式だ。その小さな頭をもう一度撫でて、ドアを開ける。

「いってきます」

ひんやりとした朝の空気が、頬を撫でる。見上げた空は、雲ひとつない快晴。

私には、最強の味方がいる。

言葉はなくても、誰よりも私の心を理解してくれる、名もなきセラピストが。

家に帰れば、あの温かい毛皮と、魔法のゴロゴロ音が待っている。そう思うだけで、一歩踏み出す勇気が湧いてきた。

都会の片隅、小さなこの部屋に灯る光。

それは、私の明日を照らす、何よりも確かな希望なのだ。

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