迷子の心とシャム猫の瞳

三十三歳。独身。中堅出版社の文芸編集者、私、水野千尋。
我ながら、なかなかに揺らぎやすいお年頃だと思う。
仕事は好きだ。自分が手がけた本が書店に並ぶ瞬間は、何度経験しても胸が熱くなる。
けれど、キャリアも十年を過ぎると、期待という名のプレッシャーがずっしりと肩にのしかかる。
後輩はどんどん優秀になっていくし、同期は次々と家庭を持つ。
私だけが、なんだか取り残されていくような、そんな焦燥感がいつも心の隅っこに巣食っていた。
「……はぁ」
週明けの企画会議を前に、私のデスクには没になった企画書の山がそびえ立っている。
面白いと思ったはずのアイデアが、いざ形にしようとすると途端に色褪せて見える。
自分の「好き」という感覚が、世間の「正解」とずれているんじゃないか。そんな不安が、パソコンのカーソルのように点滅して消えない。
だから、私はいつからか占いに頼るようになっていた。

藁にもすがる、という言葉があるけれど、私の場合は藁じゃなくてタロットカードだ。
ラッキーカラー、運気の上がる方角、決断に良い日。
スマホの占いアプリは有料会員だし、週末には評判の占い師を訪ね歩くのが習慣になっていた。
「すごい当たるらしいのよ、駅裏の路地にある『月の眼』ってとこ」 会社の給湯室で後輩が話していたのを、聞き逃さなかった。
藁、いや、タロットを掴む思いで、私はその日の仕事帰りに、古びたビルの二階へと続く階段を上っていた。
ドアを開けると、微かに白檀の香りがした。
薄暗い室内は、天鵞絨のカーテンやアンティークの家具で統一され、まるで異世界に迷い込んだかのよう。
そして、その部屋の主である占い師よりも先に、私の目に飛び込んできたのは、窓辺でしなやかに佇む一匹の猫だった。
艶やかなクリーム色の毛並みに、チョコレート色のポイント。
そして、吸い込まれそうに青い、サファイアの瞳。シャム猫だ。
気高く、ミステリアスなその姿に、私は一瞬で心を奪われた。
「ようこそ。お待ちしておりました」
穏やかな声に我に返ると、マダム・セレネと名乗る、年齢不詳の美しい女性が微笑んでいた。
促されるままに丸いテーブルにつくと、彼女は水晶玉に手をかざす。
「あなたの心には、霧がかかっていますね。進むべき道が見えずに、立ち止まっている」
核心を突かれて、どきりとする。
私は、震える声で企画会議のこと、将来への漠然とした不安を打ち明けた。
マダム・セレネは静かに頷きながら聞いていたが、ふと、視線を私から外し、あのシャム猫へと向けた。
「ルナ」
呼ばれた猫は、しなやかな動きで窓辺から飛び降りると、音もなくテーブルに近づいてきた。
そして、おもむろに、私が抱えていた企画書の束の上に、ちょこんと座り込んだのだ。
「えっ、ちょっ……!」
慌てる私を制するように、マダム・セレネは静かに言った。
「この猫が示すものが、あなたの道しるべになるでしょう」
「え……?猫が、ですか?」
「ええ。ルナは、ただの猫ではありません。真実を見抜く眼を持っていますから。信じるか信じないかは、あなた次第」
占いはそれだけだった。
料金を払い、呆気にとられたまま部屋を出る。
猫が道しるべ? そんな非科学的なこと、あるわけない。
でも、あのサファイアの瞳と、私の企画書の上で香箱座りをする姿が、なぜか脳裏に焼き付いて離れなかった。
気まぐれな神様のお告げ
週明けの月曜日。
重い足取りで出社した私は、デスクで再び頭を抱えていた。
どの企画書を会議に出すか、決められない。
没になった企画書を眺めていると、ふと、占い師の言葉とシャam猫のルナの姿が蘇る。
――この猫が示すものが、あなたの道しるべ。
「まさかね……」
独りごちて、苦笑する。
でも、その時、あることに気がついた。
ルナが座っていたのは、たくさんの企画書の中でも、一番上にあった一冊。
それは、私が「こんなの売れるわけない」と諦めかけ、一番最初に没にした、『路地裏の猫たちの、知られざる世界』というマニアックな企画だった。
猫好きの自分としては、個人的に一番情熱を注いだ企画だ。
でも、あまりにニッチすぎる。ビジネスとして成立するのか、自信がなかった。
「……猫が、これを?」
迷信だとわかっている。偶然だ。
でも、もう他に頼るものもなかった。何かに背中を押してほしかった。
「……よし」 私は腹を括った。どうせダメ元だ。
千尋、三十三歳。猫のお告げに乗ってみる。そう思うと、なんだか少しだけ、気持ちが軽くなった。
企画会議は、いつも通り重苦しい雰囲気で始まった。
編集長は腕を組み、難しい顔をしている。
私の番が来て、恐る恐る『路地裏の猫たち』の企画を説明し始めた。
どうせ通らないだろう。そう思うと、逆に開き直れた。個人的な偏愛を、熱っぽく語ってしまった。
「……以上です」
プレゼンを終えると、長い沈黙が流れた。
ああ、やっぱりダメだったか。俯きかけた、その時だった。
「面白いじゃないか」
編集長の声だった。
顔を上げると、彼は腕を組んだまま、かすかに口角を上げていた。
「今の時代、こういう一点突破の企画が当たる可能性がある。何より、君の熱意が伝わってきた。よし、これで進めてみろ」
「え……?」
信じられなかった。
あれほど悩んでいたのが嘘のように、企画はあっさりと承認されたのだ。
会議室を出ると、嬉しさで足が震えた。
これは、本当にルナのおかげ?
その日から、私の日常は少しずつ変わり始めた。
不思議なことに、仕事で行き詰まると、どこからか猫が現れるようになったのだ。
取材先のアポが取れずに困っていたある日の昼休み。
公園のベンチでため息をついていると、足元に茶トラの猫がすり寄ってきた。

撫でてやると、ゴロゴロと喉を鳴らす。
その首輪についていた小さなプレートに、ふと目が留まった。
そこに書かれていたのは、猫の名前と、飼い主の連絡先。
そして、その飼い主の苗字が、私がアポを取りたかった写真家の先生と同じだったのだ。
偶然? でも、私は迷わず、その電話番号に連絡を取った。
結果、先生は「うちの猫がお世話になりました」と快く取材を引き受けてくれた。
またある時は、新しい本の装丁デザインで悩んでいた。
いくつかの候補の中から決めきれずにいると、会社の窓の外の電線に、カラスを追いかける黒猫の姿が見えた。
その躍動感あふれる黒いシルエットの美しさに、はっと息をのむ。
「これだ!」
私はすぐにデザイナーに連絡し、黒猫のシルエットをモチーフにした、シンプルで大胆なデザインを提案した。
それが採用されたカバーは、発売後、SNSで「装丁が美しい」と話題になり、本の売り上げに大きく貢献した。
まるで、街中の猫たちがみんなで私を応援してくれているみたいだった。
もちろん、全てがただの偶然だということは頭ではわかっている。
でも、「猫のお告げ」だと思うことで、私は自分の直感に自信を持って、一歩を踏み出せるようになっていた。
以前は「失敗したらどうしよう」という不安ばかりが先に立っていた。
でも今は、「猫がそう言ってるんだから、きっと大丈夫」と、心を軽くすることができた。
それは、私にとって最高のお守りだった。
同僚の美咲に「最近、千尋さん、なんだか楽しそうだね。何かいいことあった?」と聞かれた。
「うん、ちょっとね。最高のコンサルタントを見つけたの」
「え、誰?すご腕の?」 「秘密。とっても気まぐれな神様なのよ」
そう言って笑うと、美咲はきょとんとしていたけれど、私の顔が以前よりずっと晴れやかなことに気づいているようだった。
お守りのない夜

『路地裏の猫たち』の企画は、順調に進んでいた。
最高の写真家の先生と、愛情あふれる文章を書いてくれる作家さん。これ以上ないチームが組めた。
あとは、この本の魅力を最大限に伝えるための、役員プレゼンという最後の関門を突破するだけだ。
会社の命運を左右するほどの、大きなプロジェクト。成功すれば、私のキャリアにとって大きなターニングポイントになる。
プレゼンを三日後に控えた夜、私は最終確認のため、分厚い資料を抱えてあの占いの館『月の眼』を再び訪れていた。
もう一度、ルナに会って、最後のお告げをもらいたかった。
大丈夫、きっと上手くいく。そう確信したかった。
「まあ、千尋さん。ずいぶん、霧が晴れましたね」 マダム・セレネは、私を見るなり優しく微笑んだ。
「お久しぶりです。あの、ルナは……」 「あの子なら、そこに」
マダムが指差す先、窓辺のクッションの上で、ルナは丸くなって眠っていた。
すやすやと穏やかな寝息を立てている。
私はほっとして、抱えていたプレゼン資料をそっとテーブルの上に置いた。
さあ、ルナ。この上に座って。私の未来を肯定して。
しかし、ルナは起きる気配すらなかった。
私が小さな声で名前を呼んでも、心地よさそうに寝返りを打つだけ。
ピクリとも動かない。
「ルナ……?」
焦り始めた私を見て、マダム・セレネはお茶を差し出しながら言った。
「あの子は、気まぐれですから。眠い時は、何があっても起きませんよ」
「そ、そんな……。困ります。私、このプレゼンに、会社の、私の未来がかかってるんです!」 思わず、声が大きくなる。
すがるような私の視線を受けても、マダムは穏やかな表情を崩さない。
「千尋さん。あなたに必要なのは、猫のお告げかしら?」
その言葉に、私はハッとした。
そうだ。私は、いつからこんなに猫に依存するようになってしまったんだろう。
確かに、猫たちがきっかけをくれた。で
も、最終的に決断し、行動してきたのは、他の誰でもない、私自身じゃなかったか。
写真家の先生に電話をかけたのも、装丁デザインのアイデアを出したのも、私だ。
猫は、ただそこにいただけ。
私が、猫の姿を借りて、自分の心の奥にある「こうしたい」という声を信じただけじゃなかったのか。
「……私」
言葉が詰まる。
自信のなさから、占いに頼り、猫の気まぐれな行動を「お告げ」という都合のいい言い訳にしてきた。
でも、もう違う。
たくさんの小さな成功体験が、私の心の中に、確かな自信の芽を育ててくれていたのだ。
窓の外では、三日月が静かに街を照らしている。
眠るルナの姿は、ただ愛らしい一匹の猫にしか見えなかった。ミステリアスな神様なんかじゃない。
「ありがとうございます、マダム。もう、大丈夫です」
私は、深く頭を下げた。マダム・セレネは、全てお見通しだというように、優しく微笑んで頷いた。
「あなたの道は、あなた自身の中にありますよ」
館を出た時の足取りは、来た時とは比べ物にならないほど軽やかだった。
もう、お守りはいらない。私は、私の足で、ちゃんと立てる。
私の未来は、私の手に

役員プレゼンの日。 私は、深呼吸をして会議室に入った。
いつもは心臓が口から飛び出しそうになるほど緊張するのに、その日は不思議と落ち着いていた。
私の手の中には、完璧に準備された資料がある。
そして、胸の中には、確かな自信がある。
プレゼンが始まると、私は自分の言葉で、自分の情熱を、真っ直ぐに役員たちにぶつけた。
『路地裏の猫たち』が、ただの猫の写真集ではないこと。
それは、都会の片隅で懸命に生きる小さな命の物語であり、私たちの日常に寄り添う、温かい光なのだと。
私の言葉に、役員たちは静かに耳を傾け、そして、大きく頷いた。
プレゼンは大成功だった。
帰り道、編集長から「見事だった。まるで人が変わったみたいだな」と声をかけられた。
私は、照れながらも、胸を張って「ありがとうございます」と答えた。
数ヶ月後、満を持して発売された『路地裏の猫たちの、知られざる世界』は、大きな反響を呼んだ。
新聞や雑誌で次々と取り上げられ、異例のベストセラーとなったのだ。
会社のロビーには、本の巨大なポスターが飾られ、私は一躍、時の人となった。
ある晴れた週末、私はお祝いのケーキを片手に、再び『月の眼』を訪れた。
「マダム、ありがとうございました。本、大成功しました」
「知っていますよ。素晴らしい本ね。おめでとう、千尋さん」
マダムにお礼を言うと、足元にルナがすり寄ってきた。
見上げてくるサファイアの瞳は、やっぱりただの猫の瞳で、でも、最高に愛おしかった。
「結局、ルナが選んでくれた企画書が、私の人生を変えました」 私がそう言ってルナの喉を撫でると、マダムは悪戯っぽく笑った。
「あら、本当にそうかしら?あの日、ルナが座ったのは、たまたま一番上にあったから、というだけかもしれませんよ。それに、一番暖かい場所だったから、とか」
「え?」
「猫が選んだのではありません。あなたが、無意識のうちに、一番情熱を注いだ企画書を一番上に置いていた。
ただ、それだけのこと。
ルナは、あなたの本当の気持ちを、そっと後押ししてくれただけ」
その言葉に、全てのピースがはまった気がした。
そうか。
最初から答えは、私の中にあったんだ。
ルナは、私が自分の心に気づくための、愛しいきっかけだったのだ。
占いの館からの帰り道。空はどこまでも青く澄み渡っていた。
もう、占いのアプリを開くことはないだろう。
ラッキーカラーも、運気の上がる方角も、もういらない。
私の未来は、この手の中にあるのだから。
デスクの上に、小さなシャム猫の置物を飾った。
それは、気まぐれで、愛しい、私だけのお守り。
そのサファイアの瞳に見守られながら、私は今日も、新しい物語を紡ぎ出していく。
不安になる日もあるけれど、もう迷わない。
だって、進むべき道は、いつだって私の心が知っているのだから。