完璧な私の城と、気ままな王様
平日の午後七時。すっかり藍色に染まった空には、一番星が瞬き始めている。
多くの人が一日の仕事を終え、家路につくこの時間、私、高橋美咲(たかはしみさき)、32歳、独身、都内のIT企業に勤める会社員は、足早に高級スーパーの扉をくぐっていた。
お目当ては、本日限定入荷の「天然真鯛のカルパッチョ」。もちろん、私が食べるためではない。
「ソラ様、ただいま戻りました」
オートロックのマンションの重厚なドアを開けると、足音を察知した我が家の王様、スコティッシュフォールドのソラが、「にゃーん」というよりは「うむ」とでも言いたげな、威厳のある声で出迎えてくれた。
クリーム色のふわふわな毛並み、折れた耳、そして全てを見透かすような大きな琥珀色の瞳。
その存在は、私の日常のすべてであり、絶対的な中心だった。
「あら、今日は玄関までお出迎え? 珍しいこともあるものね。いい子、いい子」
ソラの喉を優しく撫でると、ゴロゴロと満足げな音が響く。
この音を聞くためだけに、私は毎日満員電車に揺られ、理不尽な要求にも笑顔で耐えているのだ。
リビングのドアを開けると、そこは「高橋美咲」という人間のための空間というよりは、「ソラ様」のための城と呼ぶべき場所だった。
窓際には、イタリアから取り寄せたデザイナーズ・キャットタワー。
ソラが爪を研いでも傷ひとつ付かない特殊な素材でできている。
部屋の隅には、ソラの体重と排泄時間を記録し、スマホに通知を送ってくれる全自動トイレ。
そして、設定した時間にきっかりと、温度管理されたカリカリが出てくるスマート自動給餌器。
友人たちは呆れたように言う。「美咲って、自分のものには無頓着なのに、猫グッズにかける情熱は異常だよね」と。
確かに、私の洋服はファストファッションがほとんどだし、ランチはコンビニのおにぎりで済ませることも多い。
けれど、ソラに関わるものだけは、一切の妥協を許さない。
それは浪費なんかじゃない。
私にとっては、かけがえのないこの子との時間を、一日でも長く、一瞬でも豊かにするための「未来への投資」なのだ。
カルパッチョをソラ専用の有田焼の器に盛り付け、床に置く。
ソラはくんくんと匂いを嗅いだ後、小さな舌でぺろりと一口。
そして、満足げに食べ進める姿を眺めながら、私は一人、深く頷いた。
(よし、今日の投資も大成功)
経済的に自立し、誰に気兼ねすることなく、自分の価値観で生きる。
それは、30代独身の特権かもしれない。
結婚や出産といった、かつて思い描いていた未来とは少し違うけれど、ソラがいてくれるこの日常は、満ち足りていて、最高に幸せだ。
ソラが食べ終わるのを見計らって、隣に座り、お気に入りのブラシで毛並みを整えてあげる。
ゴロゴロという幸せのエンジン音が、部屋中に響き渡る。
この音こそが、私の投資に対する最高のリターンなのだった。
空回る愛情と、10万円のベッド
そんな完璧な「猫ファースト」の日常に、小さな影が差し始めたのは、季節が初夏へと移り変わる頃だった。
あんなに好きだった真鯛のカルパッチョにも口をつけず、お気に入りのキャットタワーの最上階で、ソラは一日中うずくまっていることが多くなったのだ。
「ソラ? どうしたの、元気ないね」
抱き上げようとしても、するりと腕から抜け出してしまう。
いつもなら、喉を鳴らして甘えてくるのに。
不安に駆られた私は、すぐに会社を半休し、ソラをキャリーケースに入れてかかりつけの動物病院へと向かった。
待合室で、膝の上のキャリーケースから聞こえるか細い鳴き声に、胸が締め付けられる。
「うーん、特に悪いところは見当たりませんね。血液検査の結果も正常です。もしかしたら、何か環境の変化とかで、ストレスを感じているのかもしれませんね」
獣医の言葉に、私は首を傾げるしかなかった。
環境の変化? 何も変わっていない。
むしろ、ソラが快適に過ごせるように、常に最新の注意を払ってきたはずだ。
家に帰り、改めて部屋を見渡す。清潔な部屋、最高のフード、快適な温度。
何が足りないというのだろう。途方に暮れた私は、いつものようにスマホに救いを求めた。
「猫 ストレス 解消」「猫 究極 癒やし」
指が勝手にキーワードを打ち込んでいく。
そして、数々の検索結果の中から、私の目に飛び込んできた一つの広告があった。
『猫様のための究極の癒やしを。王室御用達職人が手掛ける、オーダーメイド・カシミア・キャットベッド』
画面には、まるで雲の上にいるかのように、気持ちよさそうに眠る猫の写真。
商品説明には、最高級のカシミアを使い、猫の骨格を研究し尽くした設計で、至上の眠りを約束するとある。
そのお値段、じゅ、10万円。
さすがに一瞬、指が止まった。
けれど、広告の中の猫と、今の元気のないソラの姿が重なる。
(これでソラが元気になるなら…)
これは、ただのベッドじゃない。ソラの健康と幸せを取り戻すための、緊急かつ最重要の「未来への投資」なのだ。
そう自分に言い聞かせると、もう迷いはなかった。
清水の舞台から飛び降りる気持ちで、「購入」ボタンをタップした。
一週間後、厳重に梱包された巨大な段ボール箱が届いた。
逸る気持ちを抑えながら箱を開けると、中から現れたのは、写真で見た以上にエレガントで、見るからに寝心地の良さそうな、ふわふわのキャットベッドだった。
「ソラ、見て! あなたのために、すごいのを買ったのよ!」
私は期待に胸を膨らませ、キャットタワーの麓の、一番日当たりの良い特等席にベッドを設置した。
さあ、この上で至福の表情を浮かべておくれ。
私の目に狂いはなかったと、証明しておくれ。
しかし、ソラは新しいベッドをくんくんと一瞥しただけで、全く興味を示さない。
それどころか、私がベッドを運び出した後の、がらんどうの大きな段ボール箱の中にすっぽりと入り込み、丸くなってしまったのだ。
「え…?」
段ボール箱の中で、妙に落ち着いているソラ。
そして、その横で虚しく鎮座する10万円のカシミアベッド。
そのシュールな光景に、私はしばし言葉を失い、その場にへなへなと座り込んでしまった。
私の「投資」、大失敗…?
ヨレヨレのフリースが教えてくれたこと
高級ベッドにふられ、段ボール箱に完敗した事実は、ボディブローのように私の心に効いていた。
ソラは相変わらず元気がないまま、お気に入りの場所は段ボール箱の中。
私はというと、仕事中もため息ばかり。何のために稼いでいるんだろう、という虚しさが胸に広がっていた。
その週末、衣替えをしようとクローゼットの奥をごそごそやっていると、一枚の古びたフリースが出てきた。
学生時代に部屋着として愛用していた、安物のヨレヨレのフリース。
毛玉だらけで、袖口は伸びきっている。もう捨てようかと思った、その時だった。
ふと、記憶が蘇った。
ソラが我が家に来たばかりの頃。
まだ手のひらに乗るほど小さかった子猫のソラは、いつもこのフリースの上がお気に入りだった。
私がソファでうたた寝していると、必ずこのフリースの匂いを嗅ぎつけてやってきて、お腹の上で丸くなって眠っていたのだ。
その重みと温かさが、たまらなく愛おしかった。
懐かしさに駆られて、私はそのフリースを膝にかけた。
すると、どこで見ていたのか、段ボールハウスから出てきたソラが、とてとてと私の元へ歩み寄ってきた。
そして、くんくんとフリースの匂いを嗅ぐと、ゆっくりと膝の上に乗り、小さな頭を私の体にこすりつけ始めた。
ゴロゴロ…ゴロゴロ…
それは、ここ最近聞いていなかった、大きくて、安心しきった音だった。
ソラはそのまま膝の上で丸くなると、すーすーと穏やかな寝息を立て始めた。
その小さな寝顔を見つめているうちに、私の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
何をやっていたんだろう、私は。
最新のグッズ、最高のフード、高価なベッド…。
ソラが快適に過ごせるようにと、良かれと思って与えてきたたくさんのモノたち。
それは、本当にソラが望んでいたものだったのだろうか。
私が「未来への投資」と信じてきたものは、ソラのためと言いながら、実は「これだけやってあげている」という私の自己満足を満たすためのものだったのかもしれない。
寂しさを埋めるための、一方的な愛情の押し付けだったのかもしれない。
ソラが本当に求めていたのは、10万円のカシミアベッドなんかじゃなかった。
私の匂いが染み付いた、ただの古いフリース。
そして、私がそばにいて、優しく撫でてくれる、この温かい時間。
ただ、それだけだったのだ。
膝の上の小さな温もりと、規則正しい寝息を感じながら、私は自分の愚かさに気づかされた。
ごめんね、ソラ。一番大切なことを見失っていたのは、私のほうだった。
本当の未来投資計画
その日から、私の「未来への投資計画」は、大きく方針転換された。
スマホで猫グッズを検索する代わりに、ソラが喜ぶ遊び方を検索した。
仕事帰りに高級食材を買う代わりに、少しでも早く家に帰って、ソラとの時間を過ごすようにした。
週末には、窓辺に椅子を並べて、一緒に移り変わる雲を眺めながら日向ぼっこをした。
使い古した猫じゃらしで、部屋中を走り回って遊んだ。
膝の上に乗せて、時間をかけて丁寧にブラッシングをしてあげると、ソラはうっとりとした表情で喉を鳴らした。
あの10万円のベッドは、思い切って動物保護団体に寄付した。
きっと、もっと有効活用してくれるはずだ。
そして、ソラがこよなく愛するあの段ボール箱は、私が腕によりをかけてリフォームした。
可愛い布を貼り、小さな窓を開け、中にはあのヨレヨレのフリースを敷いてあげた。
ソラは、その手作りの「段ボール・キャッスル」がいたく気に入ったようだった。
不思議なことに、私がそうしてソラとの「時間」を大切にするようになってから、ソラはすっかり元気を取り戻した。
食欲も旺盛になり、以前にも増して私に甘えてくるようになった。
私がソファに座れば、当たり前のように膝に乗ってくる。
私がベッドに入れば、そっと隣に潜り込んでくる。
部屋には、相変わらずスタイリッシュな猫グッズがいくつか残っている。
でも、今の私にとって、それらはもう「投資」の対象ではない。
ただ、愛する家族との暮らしを彩る、ささやかなアイテムの一つに過ぎない。
本当の「未来への投資」とは、高価なモノを買い与えることではない。
共に笑い、共に眠り、共に穏やかな時間を過ごす。その、何にも代えがたい「愛情」そのものなのだ。
ある晴れた日の午後。
窓から差し込む柔らかな光の中で、膝の上のソラの温もりを感じながら、私は確かな幸福感に包まれていた。
結婚はしていないし、子供もいない。
でも、私にはこの腕の中に、守るべき愛しい家族がいる。
この温もりがある限り、私の未来はきっと、明るく、希望に満ちている。
「これからもよろしくね、ソラ」
私の言葉に答えるように、ソラは「にゃっ」と短く鳴いた。
その声は、これまで聞いたどの鳴き声よりも、愛おしく響いたのだった。