ガラスの城と三毛猫の視線
私の城は、地上28階にある。 正確には、湾岸エリアに聳え立つタワーマンションの、西向きの角部屋。
それが、IT企業でプロジェクトマネージャーを務める私、桜井玲奈(さくらい れな)、36歳の現在地だ。
朝は、全自動で開く遮光カーテンの音で目覚める。
眼下に広がるのは、ミニチュアのような街並みと、銀色に光る東京湾。
夜になれば、それは宝石箱をひっくり返したような絶景に変わる。
誰もが羨むこの景色を手に入れるために、私は20代の頃から脇目もふらずに働いてきた。
いくつものプロジェクトを成功させ、男社会の中で悔し涙を流した夜もあったけれど、すべてはこの城を手に入れるためだった。
なのに、どうだろう。
この広すぎるリビングで、たった一人、オーガニックのグラノーラを口に運びながら思うのだ。
「私、本当に満たされているんだろうか」 成功の象徴であるはずのこの部屋は、時々、私を閉じ込めるガラスの檻のように感じられることがあった。
異変に気づいたのは、季節が夏から秋へと移り変わる頃だった。
いつものように、仕事の合間に窓の外を眺めていた時のこと。
マンションの足元に広がる公開緑地の片隅に、小さな塊がうずくまっているのが見えた。
最初は枯れ葉か何かのゴミだと思った。
でも、それは不規則に、わずかに動いていた。
双眼鏡を引っ張り出してきて、そっと覗いてみる。
焦げ茶と白、そしてオレンジが混じった、痩せっぽちの三毛猫だった。
警戒心が強いのか、周囲を絶えず気にしながら、それでも同じ場所から動こうとしない。
その日から、窓の外の三毛猫は私の日常の一部になった。
朝、カーテンを開けると、もうそこにいる。仕事中、ふと視線を上げると、やっぱりそこにいる。
そして、夜、残業を終えて帰宅し、窓の外を見やると、月の光の下で小さく丸まっている。
不思議だったのは、その猫が、時折、じっとこちらを見上げているように感じられることだった。
もちろん、28階から猫の視線など正確にわかるはずがない。
私の思い込みだ。
でも、確かに、無数にあるタワマンの窓の中から、ピンポイントで私の部屋を見つめているような、そんな錯覚に陥るのだ。
その視線は、まるで問いかけてくるようだった。 「あなたの世界は、そこから見ていて幸せ?」
私は答えられなかった。
ただ、ガラス一枚を隔てた向こう側で、たった一匹で世界と対峙しているその小さな命から、目が離せなくなっていた。
見えないルールと小さな攻防
「ねえ、玲奈。最近、ちょっと疲れてない?」 会社のカフェスペースで、後輩の美咲が心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「隈、すごいよ。また無理な案件、抱えさせられてるんじゃないですか?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど…」 口ごもる私に、美咲は「まさか、恋とか?」とおどけてみせる。
その無邪気さに、私は曖昧に笑うしかなかった。
恋なんかじゃない。私の心を占めているのは、名前も知らない、あの三毛猫のことだった。
日を追うごとに痩せていくように見える。
急に冷え込んできた夜は、無事に越せているだろうか。いてもたってもいられなくなる。
「タワーマンション、ペット禁止」 「敷地内での野良猫への餌やりは固く禁じます」
入居時にサインした契約書の条項と、エントランスに貼られた管理組合からの警告文が、私の頭の中でぐるぐると回っていた。
ここはルールで守られた城。秩序を乱す行為は、許されない。
でも。 でも、あの命が、今まさに消えようとしているのかもしれないのに?
ある金曜の夜、私は決心した。誰にも見つからなければいい。深夜なら、人通りもないはずだ。
こっそりと買ってきた猫用のウェットフードをタッパーに詰め、一番目立たない通用口から外に出た。
心臓が早鐘のように鳴っている。悪いことをしているわけじゃない。でも、背徳感でいっぱいだった。
公開緑地の植え込みの影。三毛猫は、いつもと同じ場所にいた。
私が近づくと、全身の毛を逆立てて「シャーッ」と低い声を出す。怯えさせてしまった。
私は慌てて数メートル後ずさり、「大丈夫、何もしないから」と囁きながら、そっとタッパーを地面に置いた。そして、また数歩下がる。
猫は、疑い深そうに私とタッパーを交互に見ている。
やがて、恐る恐る近づき、くんくんと匂いを嗅ぐと、夢中になってフードを食べ始めた。
その無心な姿に、胸が締め付けられる。ああ、お腹が空いていたんだ。
ほっとしたのも束の間だった。
「そこで何をしているんですか!」 背後から投げつけられた、鋭い声。
振り返ると、同じマンションの上層階に住んでいる、確か弁護士の奥様が仁王立ちになっていた。
犬の散歩中だったらしい、小さなトイプードルが彼女の足元でキャンキャンと吠えている。
「餌やりは禁止されているはずですわよ。ルールも守れない方がいらっしゃると、資産価値が下がるんですの」 冷たく、突き放すような物言い。
私は何も言い返せなかった。
タッパーをひったくるように回収し、「すみません」とだけ言って、逃げるようにマンションへ戻った。
エレベーターの中で、涙がこぼれた。悔しいのか、情けないのか、自分でもわからない。
部屋に戻り、窓から下を見下ろすと、三毛猫がさっき私がいた場所をじっと見つめていた。
その姿が、まるでルールに縛られて何もできない、ちっぽけな自分自身と重なって見えた。
翌日から、状況はさらに悪化した。
マンションの住民専用オンライン掲示板に、「餌やりをする非常識な住人がいる」という書き込みがされたのだ。
それに呼応するように、「猫のせいで鳴き声がうるさい」「フンをされた」といった苦情が次々と投稿される。
私の一度の行動が、猫をさらに窮地に追い込んでしまったのだ。
無力感に打ちひしがれながら、私はただ、窓の外で小さくなっている三毛猫を見つめることしかできなかった。
ガラスの城は、ますます高く、冷たい檻に思えた。
檻の向こうへ、小さな一歩
このままじゃダメだ。
掲示板が荒れるほど、猫への風当たりは強くなる。
このままでは、行政に通報され、殺処分されてしまうかもしれない。
その考えに至った時、私の心は決まった。ルールに怯えて何もしないまま後悔するくらいなら、動こう。
たとえ、この城から追い出されることになったとしても。
私は震える手でスマートフォンを操作し、「〇〇区 猫 ボランティア」と検索した。
いくつかヒットした中で、一番活動内容が詳しく書かれている「みなと猫の会」というNPOのサイトに目が留まった。
そこに書かれていた「TNR活動」という言葉。
Trap(捕獲し)、Neuter(不妊・去勢手術を行い)、Return(元の場所に戻す)。
これなら、猫をこれ以上増やさず、一代限りの命を地域で見守っていくことができる。
これこそが、猫と住民が共存するための、現実的な解決策じゃないか。
私は、問い合わせフォームに今の状況を必死で書き込み、送信ボタンを押した。
翌日、返信をくれたのは、「みなと猫の会」の代表を務める、佐藤さんという女性だった。
週末に、近くの公園で活動の説明会を兼ねた集まりがあるから、来てみませんか、と。
土曜日、私はおそるおそる指定された公園に向かった。
そこにいたのは、想像していたような、悲壮感を漂わせた人たちではなかった。
主婦や学生、リタイアした男性など、年齢も職業もバラバラな人たちが、和気藹々とした雰囲気で猫の世話をしたり、捕獲器の手入れをしたりしていた。
「桜井さんね、よく来てくれたわ」 代表の佐藤さんは、私より十歳ほど年上だろうか。
日に焼けた顔に、快活な笑顔を浮かべた女性だった。
私がタワマンでの一件を話すと、彼女は「ああ、よくある話よ」と頷いた。
「みんな、最初はそうよ。たった一匹の猫が気になって、どうにかしたいって。でもね、その一匹を救うことは、その猫がいる地域全体の問題と向き合うことなの。大変よ、すごく。でもね、やりがいはあるわ」
佐藤さんと話すうちに、ボランティアの皆さんと話すうちに、私の凝り固まっていた心が少しずつ解けていくのを感じた。
彼らは、ただ感情的に「猫が可哀想」と言っているのではなかった。
どうすれば猫と人がうまくやっていけるか、そのために必要な知識を学び、行政や地域住民と粘り強く対話を続けていた。
私の悩みがいかに個人的で、視野の狭いものだったかを思い知らされた。
「あの三毛猫、TNRしませんか」 私は、決意を口にしていた。
「私も、手伝います。マンションの住民の説明も、私がやります」 佐藤さんは、私の目をじっと見つめ、そして力強く頷いた。「やりましょう」と。
そこからの日々は、目まぐるしかった。
仕事の合間を縫って、私はTNRについて猛勉強した。
佐藤さんたちに教わりながら、捕獲器の仕組みや、猫との接し方を学ぶ。
そして、最大の難関である住民への説明に備えた。
管理組合の理事会に、正式に議題として取り上げてもらうよう申請した。
掲示板での一方的な非難ではなく、顔と顔を突き合わせて対話する機会が欲しかったのだ。
理事会当日、私は佐藤さんと共に、理事たちの前に立った。
あの弁護士の奥様の、冷ややかな視線が突き刺さる。
私は、自分の言葉で語りかけた。
「私は、28階からずっと、あの猫を見てきました。最初は、ただの風景の一部でした。でも、いつからか、あの子の視線が、私の心の寂しさを見透かしているように感じたんです」 ざわめきが起こる。
「ルールを破って餌をあげたことは、本当に申し訳なく思っています。ですが、あの命を見殺しにすることも、私にはできませんでした。TNRは、このマンションから猫を排除するための活動ではありません。これ以上不幸な猫を増やさず、今いる命を、地域全体で静かに見守っていくための、共存の道を探る活動です」
私は、TNRの具体的な方法、メリット、そして費用はすべてボランティア団体と私で負担することを説明した。
佐藤さんも、専門的な立場から丁寧に補足してくれた。
もちろん、すぐに全員が賛成してくれたわけではない。
「前例がない」「責任は誰が取るのか」。反対意見も多く出た。
それでも、私は諦めなかった。
理事会が終わった後も、反対していた住民一人ひとりの元へ足を運び、頭を下げ、資料を渡して説明を続けた。
プロジェクトを成功に導くための、クライアントへのプレゼンと同じだ。いや、それ以上に、私の心を突き動かす何かがあった。
そんな私の姿を、誰かが見てくれていたのかもしれない。
少しずつ、マンション内の空気が変わり始めていた。
28階の窓から見える、新しい景色
三毛猫の捕獲作戦は、満月の夜に行われた。
ボランティアの仲間たちと息を潜め、植え込みの影から捕獲器を見守る。
中には、匂いの強いフードが仕掛けてある。
私の心臓は、あの夜、こっそり餌をあげた時よりもずっと激しく高鳴っていた。
どうか、入って。
祈るような気持ちで待っていると、三毛猫が警戒しながらも、ゆっくりと捕獲器に近づいてきた。
そして、一瞬の躊躇の後、中へと足を踏み入れる。 ガシャン! 捕獲器の扉が閉まる音。
作戦は成功した。中で暴れる三毛猫に、佐藤さんが優しく布をかけ、「大丈夫、怖くないよ」と声をかける。
その光景を見ながら、私はなぜか涙が止まらなかった。
翌日、動物病院で無事に不妊手術を終えた三毛猫は、TNRの証である「さくら耳(耳先をV字にカットすること)」を施されて、私たちの元へ戻ってきた。
麻酔から覚醒するまでの一晩、ボランティアのシェルターで預かり、翌日、元の公開緑地へとリリースした。
「元気でね」 そう声をかけると、猫は一目散に植え込みの奥へと消えていった。
それから数日後。
理事会から、一つの結論が下された。 「TNR活動を、試験的に黙認する」 完全な賛成ではなかった。
でも、それは大きな、大きな一歩だった。
反対の急先鋒だった弁護士の奥様も、理事会での私の必死の訴えと、その後の行動を見て、何かを感じてくれたのかもしれない。
直接言葉を交わしたわけではないけれど、エレベーターで会った時、以前のような冷たい視線は感じなかった。
私の日常は、元に戻った。
いや、戻ったように見えて、まったく違うものになっていた。
朝、カーテンを開けると、いつもの場所に、耳にさくら色のカットが入った三毛猫がいる。
私たちは、あの子に「ミケ」という名前をつけた。
ミケは、以前よりも少しだけ穏やかな表情で日向ぼっこをしている。
私は今、週末になると「みなと猫の会」の活動に参加している。
会社の同僚だった美咲も、「玲奈さん、キラキラしてますよ!」と言って、時々手伝いに来てくれるようになった。
新しい仲間との出会いは、私の世界を何倍にも広げてくれた。
ガラスの城だと思っていたタワマンの28階。
この窓から見える景色は、今も同じだ。
でも、私の心に映るそれは、もう孤独の色をしていない。
窓の外には、ささやかだけれど懸命に生きる命がいて、それを支えようとする温かい人々の繋がりがある。
そして、その繋がりの中に、私の居場所もちゃんとある。
ある晴れた午後、私はマグカップを片手に窓辺に立ち、公園でくつろぐミケを眺めていた。
すると、ミケがふと顔を上げ、まっすぐにこちらを見つめた。
以前と同じ、猫の視線。
でも、もう私にはわかる。 あれは、問いかけじゃない。
ガラスの向こう側とこちら側、それぞれの場所で、しっかりと前を向いて生きていこうね、という、静かで力強いエールだ。
「うん、私も頑張るよ」
私は、ミケにそう囁きかけ、晴れやかな空を見上げた。
成功も、ステータスも、もちろん大切だ。
でも、本当に心を豊かにしてくれるのは、誰かを想い、誰かと繋がり、守るべきものを見つけた時に灯る、温かい光なのだと。
私の城の窓は、今、世界と私を繋ぐ、希望の窓辺になった。