完璧主義OLの盲点【書類と猫の毛と恋の予感】30代女子の幸せは意外な場所に

【プロフェッショナルの盲点】書類より猫の毛?見えない敵との戦い

完璧な朝の、不完全な戦い

完璧主義OLの盲点【書類と猫の毛と恋の予感】30代女子の幸せは意外な場所に

私の名前は、相沢弥生、34歳。都内のコンサルティングファームで、プロジェクトマネージャーをしている。

人からは「冷静沈着」「ミスのない仕事ぶり」と評価されることが多い。

我ながら、仕事に関しては完璧主義者だと思う。

クライアントに提出する資料の誤字脱字チェックは最低五回。

フォントのサイズや行間に至るまで、美しくなければ気が済まない。

私の手にかかれば、どんな複雑なプロジェクトも、美しいロードマップに沿ってゴールへと導かれる。そう、仕事の上では。

「にゃーん……ごろごろごろ」

ベッドの上で、私の完璧な朝を揺るがす存在が、喉を鳴らしている。

クリームパンのような前足をふみふみさせながら、私のお腹を極上のベッドと勘違いしているこの子は、愛猫の「きなこ」。

三年前の雨の日、会社の近くの路地で震えていたのを保護した、ふわふわの茶トラだ。

きなこは、私の人生における、唯一にして最大の「盲点」だった。

「きなこさん、おはよう。でも、そろそろ起きないと、私、遅刻しちゃうんだけどな」

優しくお腹を撫でると、きなこは「もっと撫でよ」とばかりに体をくねらせる。

その仕草の愛らしさに、私の完璧主義は毎朝いとも簡単に崩壊する。

あと五分、いや十分だけ……。

その攻防戦が、私の一日の始まりの儀式だ。

ようやくベッドから抜け出し、クローゼットを開ける。

今日の午後は、新規クライアントへの重要なプレゼンテーションがある。

気合を入れるために選んだのは、上質な黒のセットアップスーツ。知性と信頼感を演出するには、最高の選択だ。

……のはずだった。

鏡の前でスーツに袖を通した瞬間、私は自分の目を疑った。

黒い布地の上に、点々と、しかし確実に存在を主張する、明るい茶色の毛。そう、きなこの毛だ。

「うそでしょ……」

クローゼットはきなこ立ち入り禁止のはずなのに。

どこから侵入したのか、あるいは他の服から移ってきたのか。犯人捜しをしている暇はない。

私は慌てて、リビング、玄関、寝室、洗面所の四か所に常備している「粘着カーペットクリーナー」、通称コロコロを手に取った。

シュッシュッ、コロコロコロ。

腕、背中、スカート。まるで敵陣に乗り込む兵士のように、私は全身の毛を駆逐していく。

黒い服は、猫飼いのプロフェッショナルにとっては、いわば最高難易度のステージなのだ。

これで完璧、と思っても、光の加減を変えて見ると、必ずどこかにキラリと光る毛が残っている。

「お願いだから、今日だけはついてこないで……!」

心の中で叫びながら、最後の仕上げに玄関で全身をチェックする。よし、完璧だ。

私はハイヒールを履き、きなこに「行ってきます」と声をかけた。

返事の代わりに聞こえたのは、「にゃっ」という可愛いくしゃみ。

その瞬間、ふわっと宙を舞った一筋の毛が、スローモーションのように私のジャケットの肩に舞い降りたのを、私は見逃さなかった。

ああ、神様。

今日の戦いも、私の負けで始まるらしい。私は苦笑いを浮かべながら、そっとその一本を指でつまみ、ゴミ箱に捨てた。

これが、完璧主義者・相沢弥生の、誰も知らない日常。プ

ロフェッショナルとしての私の、ささやかで、そして終わりのない戦いの幕開けだった。

 

忍び寄る、ふわふわのテロリスト

 

オフィスに足を踏み入れると、私は「完璧な相沢弥生」のスイッチを入れる。

背筋を伸ばし、凛とした表情でデスクに向かう。

「相沢さん、おはようございます。今日のプレゼン資料、最終版を拝見しました。完璧ですね。数字の裏付けもロジックも、非の打ち所がないです」

後輩の美咲さんが、尊敬の眼差しで話しかけてくる。

「ありがとう。でも、最後まで気は抜けないわ。クライアントは手強い相手だから」 そう答えながら、私は心の中で別の戦いに勝利したことを喜んでいた。

今朝、オフィスに着いてすぐにトイレの個室に駆け込み、携帯用のミニコロコロで最終チェックを済ませたのだ。

今の私に、死角はない。

今回のプロジェクトは、老舗のアパレルメーカーのデジタル戦略を立て直すという、大規模なものだった。

競合の分析、市場調査、そして革新的な提案。

私はこの数週間、睡眠時間を削って資料作成に没頭してきた。そして、今日、その集大成をクライアントにぶつけるのだ。

チームメンバーは四人。私と、明るく優秀な後輩の美咲さん。そして、ベテランの営業部長と、もう一人。

「……相沢さん」

低い声に呼ばれて顔を上げると、そこに立っていたのは、エンジニアの黒田さんだった。

黒田さんは、社内でも有名な堅物で、無口。仕事は正確無比だが、必要最低限のことしか話さない。

その整った顔立ちは、いつも感情の色が見えなくて、少しだけ苦手だった。

「はい、黒田さん。何か?」 「最終資料の24ページ、グラフの引用元データのリンクが一つ、古いバージョンのままだ。差し替えておいた」 彼はそれだけ言うと、自分の席に戻っていく。

私は慌てて資料を確認した。

確かに、彼の言う通りだった。昨夜、最終チェックをしたはずなのに。

「……ありがとうございます。助かりました」 背中に向かって言うと、黒田さんは小さく頷いただけだった。

(完璧じゃなかった……)

自分のミスに、頬がカッと熱くなる。と同時に、黒田さんの指摘の鋭さに、改めて気圧される思いがした。

彼には、どんな小さな綻びも見抜かれてしまう。

プレゼン開始は、午後三時。

最終打ち合わせを終え、製本された美しい資料がテーブルに並べられた。

純白の表紙に、くっきりと印字されたプロジェクトタイトル。ページをめくると、洗練されたグラフや図が、私たちの提案の正しさを物語っている。

これなら、勝てる。

私は自分の仕事に、再び自信を取り戻した。

「じゃあ、そろそろ会議室へ移動しようか」 営業部長の声に、私たちは頷き合う。私は一番上にあった資料を手に取り、立ち上がった。

その時だった。

資料の表紙の、プロジェクトタイトルのすぐ下に、それ、は、あった。

一本の、細く、しなやかで、光を浴びてキラリと輝く、明るい茶色の毛。

(きなこ……!)

心臓が、どくん、と大きく跳ねた。

いつの間に?どこから?朝の攻防戦をくぐり抜け、カバンの中に潜んでいたのか。

それとも、オフィスで誰かとすれ違った瞬間に?

まるで、ふわふわのテロリストが仕掛けた時限爆弾だ。

しかも、タイマーは今、まさに作動しようとしている。

他のメンバーは、誰も気づいていない。

私はどうする?ここでこの一本を、どう処理する?指でつまもうとすれば、逆に目立ってしまうかもしれない。

息で吹き飛ばす?下手に飛んで、クライアントのコーヒーカップにでも入ったら最悪だ。

私の思考がぐるぐると渦を巻いている、その瞬間。

「相沢さん」

またしても、黒田さんの声だった。

見ると、彼は私の手元を、いや、正確にはその一本の毛を、じっと見つめていた。

その表情は、やはり読めない。軽蔑しているのか、呆れているのか。

(終わった……。堅物の黒田さんに、プロ失格の烙印を押される……)

私が固まっていると、黒田さんはすっと手を伸ばしてきた。

彼の指が、私の持っている資料に触れる。

そして、驚くほど自然な動きで、その毛をつまみ上げ、自分のスーツのポケットにしまったのだ。

一連の動作は、ほんの一秒ほど。

彼は私にだけ聞こえるような小さな声で、こう言った。

「うちのも、よくやる」

え?

私が聞き返す間もなく、彼は何事もなかったかのように会議室へ向かって歩き始めた。

後に残された私は、彼の言葉の意味を反芻していた。

「うちのも、よくやる」

……うちの、も?

それはつまり、彼にも「ふわふわのテロリスト」がいるということ?

あの、堅物で完璧主義者の黒田さんの家に?

にわかには信じられない事実に、私の頭は混乱していた。しかし、今はそれを考えている場合じゃない。

プレゼンが始まる。私は気持ちを切り替え、彼の広い背中を追いかけた。

胸の中に、さっきまでとは違う、不思議な温かいものがじんわりと広がっていくのを感じながら。

 

幸運を呼ぶ、魔法の一本

 

プレゼンテーションは、緊迫した空気の中で始まった。

クライアントであるアパレルメーカーの社長は、腕を組んだまま、厳しい表情で私たちの話を聞いている。

こちらの提案の一つひとつに、鋭い質問が飛んでくる。

私の出番は、全体の戦略を説明するパート。

深呼吸をして、私はスクリーンに向き合った。

練習通り、よどみなく言葉が出てくる。

データを示し、市場の未来を語り、私たちの提案がいかに彼らのビジネスを飛躍させるかを力説する。

手応えは、悪くない。

社長の厳しい表情が、少しずつ興味を帯びたものに変わっていくのがわかった。

よし、このまま押し切れる。

そして、提案の核心部分に差し掛かった時だった。

私は、スクリーンに映し出された、あるイメージ写真を指し示した。

それは、私たちの提案する新しいブランドコンセプトを象徴する一枚だった。

洗練された都会の女性が、颯爽と街を歩く姿。

「このイメージこそが、貴社の新しいターゲット層です。自立し、知性にあふれ、しかし、その内面には……」

言葉を続けようとした、その瞬間。

社長が、ふと身を乗り出した。そして、スクリーンの一点を、じっと見つめている。

なんだろう?私は一瞬、言葉に詰まった。

他の役員たちも、社長の視線の先を追って、ざわつき始めている。

「……拡大してもらえますか」

社長の低い声が響く。 私は戸惑いながらも、PCを操作している美咲さんに目配せした。

美咲さんが写真を拡大する。

ぐん、ぐん、とモデルの女性のジャケットがアップになっていく。

そして、そこに映し出されたものに、私は息をのんだ。

ジャケットの肩に、ちょこんと乗っている、一本の、細くて茶色い毛。

(うそ……!)

血の気が引いていくのがわかった。

なんで?この写真は、プロのカメラマンが撮った、完璧な一枚のはず。

フォトグラファーも、アートディレクターも、そして私自身も、何度もチェックしたはずなのに。誰も、この一本の毛に気づかなかったなんて。

(私の、盲点……!)

最悪のミスだ。完璧なプレゼンで、完璧なイメージを見せるはずが、こんな綻びを晒してしまうなんて。

社長の厳しい視線が、私に突き刺さる。

「……これは、猫の毛、かね」

社長が、ぽつりと言った。

その声には、怒りよりも、むしろ何か別の感情が混じっているように聞こえた。

私は、もう何も言えなかった。

ただ、「申し訳ありません」と頭を下げることしかできない。

私のキャリアは、今日、ここで終わるのかもしれない。

すると、沈黙を破ったのは、意外な人物だった。

「はい、社長。おそらく、猫の毛です」

黒田さんだった。彼はすっと立ち上がると、社長に向かって、静かに、しかしはっきりとした声で言った。

「そのモデルは、おそらく猫を飼っているんでしょう。どんなに完璧に着飾っていても、仕事でプロフェッショナルな顔をしていても、家には愛する存在がいて、その存在の証が、時としてこうしてくっついてきてしまう。我々は、そういう『完璧じゃない、人間らしい温かみ』こそが、これからの時代、消費者の心を掴むのではないかと考えました」

え……? 黒田さんの言葉に、私は顔を上げた。

チームメンバーも、クライアントも、皆が彼に注目している。

「この一本の毛は、ミスではありません。むしろ、私たちの提案の核心を象徴する、意図的な演出です」

黒田さんは、言い切った。

真っ直ぐに、社長の目を見て。

その横顔は、いつもの無表情ではなく、確固たる自信に満ちていた。

会場が、静まり返っている。

社長は、腕を組んだまま、じっと黒田さんを見つめている。

やがて、その厳しい口元が、ふっと緩んだ。

「……面白い」

社長が、笑ったのだ。

「なるほどな。完璧なだけじゃ、心は動かない、か。うちのブランドも、少し堅苦しくなりすぎていたのかもしれん。……気に入った。君たちの提案、前向きに検討させてもらう」

その言葉を合図に、会場の空気が一気に和んだ。

役員たちからも、安堵のため息や、感心したような声が漏れる。

私は、まだ呆然としていた。

地獄の底から、一気に天国に引き上げられたような気分だ。

私を救ってくれたのは、あの堅物の黒田さんの、大胆不敵なアドリブだった。

プレゼンが終わり、私たちはクライアントのオフィスを後にした。

興奮冷めやらぬチームの中で、私は黒田さんの隣に追いついた。

「黒田さん……あの、ありがとうございました。助かりました」 「いや」彼は短く答える。

「俺も、そう思っただけだ」 「でも、なんであんな……。『意図的な演出』だなんて」 「相沢さんが、完璧な資料の中にあった、たった一本の毛を、すごく気にしていたから」 黒田さんは、初めて私を見て、少しだけ笑ったように見えた。

「プロフェッショナルにも、盲点はある。でも、その盲点こそが、案外、一番大事なものだったりするんじゃないか」

その言葉は、私の心の奥に、すとんと落ちてきた。

私は、今までずっと、完璧であることに縛られていた。

仕事も、自分自身も。でも、きなことの生活が教えてくれた、ままならないこと、思い通りにいかないこと。

その中にこそ、本当の豊かさがあったのかもしれない。

そして、私のその「盲点」を、この人も理解してくれた。

「黒田さんも……猫、飼ってるんですか?」 勇気を出して聞くと、彼は少し照れたように視線をそらし、そして頷いた。

「ああ。黒いのと、白いのと、二匹」 「そう、なんですね……」 「今度、写真、見るか?」

彼のその申し出は、まるで春の柔らかな日差しのように、私の心を温かく照らした。

私の人生のロードマップに、今までなかった、新しい道が拓けた瞬間だった。

 

ふわふわのチャーム

 

あの日から、一週間が経った。

クライアントからは、正式にプロジェクト採用の連絡があった。

チームは、祝賀会ムードに沸いている。

そして、私と黒田さんの間には、以前とは明らかに違う、穏やかな空気が流れるようになっていた。

私たちは、お昼休みや仕事の合間に、互いの「うちの子」の写真を見せ合うのが習慣になった。

黒田さんのスマートフォンのフォルダには、クールな彼のイメージからは想像もつかないような、

二匹の猫にでれでれになっている写真がたくさん保存されていた。

黒猫の「ヨル」と、白猫の「アサ」。

彼の無表情は、単に感情を表に出すのが苦手なだけで、その内側には、私と同じかそれ以上の、深い愛情が隠れていたのだ。

「相沢さんのところの、きなこちゃん。このクリームパンみたいな手が、たまらないな」

「黒田さんのところのヨルくんとアサちゃんも、仲良しで可愛いですね。この、シンクロして寝てるところとか」

そんな会話を交わす時間は、どんな高級なスイーツよりも、私の心を甘く満たしてくれた。

週末、私は久しぶりに、心からゆったりとした気持ちで休日を過ごしていた。

ソファの上で、私の膝を枕に、きなこが幸せそうに寝息を立てている。

そのふわふわの毛を撫でながら、私はこの一週間の出来事を思い出していた。

完璧じゃなくてもいい。 むしろ、完璧じゃないからこそ、見える世界がある。

私にとって最大の「盲点」だと思っていたきなこの毛は、私に新しい視点と、素敵な出会いを運んできてくれた、幸運のチャームだったのかもしれない。

ピンポーン、と軽やかなインターホンの音が鳴る。 ドアを開けると、そこに立っていたのは、私服姿の黒田さんだった。

いつもより、ずっと柔らかい表情をしている。

「こんにちは。近くまで来たから、差し入れを」 彼が差し出した紙袋の中には、有名なパティスリーのケーキの箱と、もう一つ、猫の形をした可愛いおもちゃが入っていた。

「きなこちゃんに、って。うちのがいつも遊んでるやつなんだ」 「……ありがとうございます。どうぞ、入ってください。コーヒー、淹れますね」

リビングに通すと、きなこが目を覚まし、初めて見るお客さんに少し警戒しながらも、くんくんと匂いを嗅いでいる。

黒田さんは、緊張した面持ちで、ゆっくりとしゃがみこんだ。

「はじめまして、きなこちゃん。いつも、弥生さんがお世話になってます」

弥生さん、と彼は言った。

会社では「相沢さん」としか呼ばれたことがなかったから、その響きがなんだか新鮮で、胸が少しだけ、きゅん、となる。

きなこは、まるで彼の優しい人柄がわかったかのように、すり、と足に体を寄せた。

そして、彼の差し出した指の匂いを嗅いだ後、ぺろりと舐めたのだ。

「……よかった」

心から安堵したように微笑む黒田さんの顔を見て、私も自然と笑顔になった。

窓から差し込む午後の光が、部屋の中をキラキラと照らしている。空気中には、きっとたくさんの、きなこの毛が舞っているはずだ。

でも、もうそれは、私にとって悩みの種ではない。

それは、愛しい存在と共に生きている証。

そして、この温かくて幸せな時間を作ってくれた、小さな魔法の粉。

完璧なキャリアウーマンの私と、猫の毛にまみれる私。

どちらも、紛れもない本当の私。

そのギャップを、まるごと愛おしいと思ってくれる人が、ここにいる。

私の人生という名の壮大なプロジェクトは、どうやら、新しいフェーズに移行したらしい。

そのロードマップはまだ白紙だけど、きっと、きなこの毛みたいに、キラキラしたサプライズに満ちているに違いない。

私はそんな未来を想像し、隣で微笑む黒田さんと、その足元で喉を鳴らすきなこを、心からの愛しさを込めて見つめた。

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