「いいね」の数だけ、寂しかった夜 ~週末シンデレラの猫がくれた、ありのままの温もり~
完璧な私と、空っぽの城
神崎真紀、34歳。大手広告代理店のトップ営業ウーマン。それが、世間に向けた私の肩書き。
湾岸エリアに聳え立つタワーマンションの25階。
磨き上げられたガラス窓の向こうには、宝石をちりばめたような東京の夜景が広がる。
SNSに投稿すれば、誰もが羨む「#タワマン女子」「#丁寧な暮らし」の世界。
けれど、その完璧な静寂の中で、私はいつも独りだった。
「すごいね、真紀は」「完璧だよね」。
友人たちの賞賛は、いつしか鎧のように私を固めていた。
本当は、仕事で理不尽な要求に歯を食いしばる日も、コンビニ弁当で夕食を済ませる夜もある。
けれど、SNSの中の「神崎真紀」は、常にエレガントで、手料理と美しいインテリアに囲まれていなければならなかった。
最近の流行りは「#猫のいる暮らし」。
後輩のSNSに登場する、ふわふわのスコティッシュフォールド。
その投稿につく「いいね」の数は、私の手料理の写真のそれを、あっという間に追い越していった。ちり、と胸の奥で小さな棘が刺さる。
(猫…か)
ペット不可のこのマンションで、それは叶わぬ夢。それに、こんなに多忙な毎日で、命を預かる責任なんて持てるはずがない。
わかっている。けれど、週末の予定を聞かれるたびに、「最近迎えた子猫が可愛くて」なんて、一度でいいから言ってみたい。そんな虚栄心が、黒い染みのように心を蝕んでいく。
そんな時だった。ネットの海を漂っていて、偶然見つけたのだ。
『ウィークエンド・ファミリー』という、週末限定のペットレンタルサービスの存在を。
画面には、「寂しい週末に、温かい家族を」というキャッチコピーが踊る。
罪悪感がなかったわけじゃない。
命を「レンタル」するなんて。
けれど、「お試しで動物との暮らしを体験」「専門家が徹底サポート」という言葉が、私の罪悪感を巧みに和らげてくれた。
(週末だけ…週末だけなら)
これは、完璧な「神崎真紀」を維持するための、必要経費。
そう自分に言い聞かせ、私は申し込みボタンを、震える指でクリックした。
数日後、コンサルタントとのオンライン面談を経て、私の「週末家族」が決まった。
おっとりとした性格の、ラグドールの男の子。名前は「シフォン」。
まるで、私の虚栄心を満たすためだけに生まれてきたような、完璧な美しさを持った猫だった。
偽りの週末と、予期せぬ温もり
金曜の夜。
インターホンが鳴り、専門スタッフに抱かれたシフォンが、私の城にやってきた。
淡いクリーム色の毛並み、空を溶かしたようなブルーの瞳。まるで最高級のぬいぐるみだ。
「こちらがシフォンくんです。とても人懐っこいですが、最初は少し緊張するかもしれません」
スタッフから一通りの説明を受け、ケージやトイレ、フードの入ったバッグを受け取る。
ドアが閉まり、再び訪れた静寂。
違うのは、部屋の隅に置かれたケージの中で、美しい猫が私を見ていることだけ。
「よろしくね、シフォン。最高の写真を撮らせてちょうだい」
私は、この週末の「小道具」に声をかけた。
最初のミッションは、SNS用の写真撮影だ。
アンティークのカップにハーブティーを注ぎ、傍らには洋書を置く。
完璧な構図。あとは、このソファの上で、シフォンが優雅にくつろいでくれれば完成だ。
「シフォン、おいで。こっちよ」
しかし、シフォンはケージから一歩も出ようとしない。
それどころか、大きな瞳でじっと私を見つめるだけ。
ちゅ〜るで誘っても、おもちゃをちらつかせても、まるで石像のように動かない。
「なんなのよ…」
焦りと苛立ちが募る。レンタル料だって安くはないのだ。
時間は刻一刻と過ぎていく。結局、その夜は一枚も写真を撮れずに終わった。
翌朝。
リビングに出ると、シフォンがケージから出て、窓辺で香箱座りをしていた。
朝日に照らされた毛並みがキラキラと輝き、思わず息をのむ。美しい。
けれど、私がカメラを向けると、ぷいっと顔を背けてしまう。
(…一筋縄ではいかないわね)
諦めて朝食の準備を始めた。
焼きたてのクロワッサンと、淹れたてのコーヒー。いつもの完璧な朝食。
テーブルにつくと、足元にふわり、と柔らかな感触があった。
見下ろすと、シフォンが私の足に、そっと体を擦り付けている。
「…な、なに?」
驚いて固まっていると、シフォンは満足したように喉を鳴らし始めた。
「ゴロゴロゴロ…」低く、そして心地よく響く振動が、スラックス越しに伝わってくる。
それは、どんな高級なマッサージチェアよりも、私の心を深く、じんわりとほぐしていく不思議な音だった。
その日を境に、私たちの距離は少しずつ縮まっていった。
私がPC作業に没頭していると、キーボードの上にどっかりと座り込み、仕事を妨害する。
呆れてため息をつくと、まるで「構って」とでも言うように、私の指に頭をこすりつけてくる。
私がソファでうたた寝をしてしまうと、いつの間にかお腹の上に乗って、一緒に丸くなっている。
その重みと温かさが、言いようのない安心感をくれた。
偽りの「丁寧な暮らし」を演じるための週末だったはずなのに、気づけば私は、シフォンのペースにすっかり巻き込まれていた。
SNS用の写真を撮ることも忘れてはいなかった。
けれど、カメラを構える理由は、いつしか「いいね」のためではなくなっていた。
無防備な寝顔。おもちゃに夢中になる真剣な眼差し。日向ぼっこをしながら、うっとりと目を細める表情。
そのすべてが愛おしくて、記録せずにはいられなかった。
投稿する写真には、少しずつ変化が表れた。完
璧にセッティングされた写真ではなく、シフォンに振り回されて少しだけ散らかった部屋の隅や、毛づくろいをするシフォンの自然な姿。
『猫ちゃん、リラックスしてますね』 『真紀さんの、違う一面が見れた気がします』
コメント欄に並ぶ言葉は、以前のような羨望の声とは少し違っていた。
けれど、その温かい言葉の一つ一つが、乾いた心にじんわりと染み渡るようだった。
週末が終わる。
日曜の夜、私はシフォンをキャリーバッグに入れながら、胸が締め付けられるのを感じていた。
「またね、シフォン」
スタッフにシフォンを託し、ドアが閉まる。
途端に、部屋は元の完璧な静寂を取り戻した。
けれど、その静寂は、以前よりもずっと冷たく、空虚に感じられた。
部屋のどこを見ても、シフォンの面影がちらつく。ソファの上の温もりも、足元に絡みついた感触も、もうどこにもない。
胸に、ぽっかりと大きな穴が空いてしまった。それは、「いいね」の数では到底埋められない、寂しくて、温かい穴だった。
返却日の涙と、本当の心
二度目、三度目と週末を重ねるうち、シフォンはすっかり私の城の主になった。
金曜の夜に彼を迎える高揚感と、日曜の夜に彼を見送る喪失感。
その振り幅は、回を追うごとに大きくなっていく。
平日の私は、相変わらず完璧な営業ウーマンを演じている。
けれど、心はいつも週末にあった。シフォンは何をしているだろう。
ちゃんとお昼寝しているだろうか。寂しがってはいないだろうか。
気づけば、四六時中、あの柔らかな毛玉のことばかり考えている自分がいた。
レンタル期間の最終月。
最後から二番目の週末を終えた月曜の朝、私は虚脱感の中で目を覚ました。
あと一回。来週の日曜にシフォンを返したら、もう二度と会えなくなる。
その事実が、ずしり、と重い鉛のように心にのしかかった。
SNSを開くと、相変わらずキラキラした世界が広がっている。
友人たちの結婚報告、ベビーシャワーの写真。以前は焦りと嫉妬で見ていたはずなのに、今は何も感じなかった。
どんなに着飾った幸せの写真も、シフォンが私の膝の上で眠る、あの温かな時間の前では色褪せて見えた。
(私は、何が欲しかったんだろう)
タワマンからの夜景? ブランド物のバッグ? 誰かからの羨望?
違う。
私が本当に欲しかったのは、ただ、ありのままの私を受け入れてくれる存在。
私が完璧じゃなくても、そばにいてくれる温もり。ゴロゴロという、命の音。
それはすべて、シフォンが教えてくれたことだった。
最後の週末。私はSNS用の写真を一枚も撮らなかった。
ただひたすら、シフォンとの時間を慈しんだ。
床に寝転がって、彼の肉球の匂いを嗅いだ。飽きるまでおもちゃで遊び、疲れたら一緒に昼寝をした。
日曜の午後。返却用のキャリーバッグをリビングに置いた途端、シフォンは何かを察したように、ソファの下に隠れてしまった。
「シフォン、おいで。時間だよ」
声をかけても、出てこない。
ちゅ〜るで誘っても、頑として動かない。
その姿が、まるで「行きたくない」と全身で訴えているようで、私の胸は張り裂けそうになった。
ソファの下に手を伸ばし、やっとの思いでシフォンを抱きかかえる。
腕の中で、小さな体が小刻みに震えていた。
その震えが伝わってきた瞬間、私の涙腺は、あっけなく決壊した。
「ごめんね…ごめんね、シフォン…っ」
見栄のために、寂しさを埋めるためだけに、あなたを利用した。
偽りの週末。偽りの優しさ。
それなのに、あなたは私に、こんなにもたくさんの、本物の温もりをくれた。
「行かないで…」
嗚咽と共に漏れたのは、ずっと心の奥に閉じ込めていた本心だった。
キャリーバッグの前で、シフォンを抱きしめたまま、私は子供のように泣きじゃくった。
完璧なメイクも、上品なワンピースも、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。でも、もうどうでもよかった。
この温もりを手放したくない。この子を、本当の家族にしたい。
涙の向こうで、覚悟が決まった。完璧な「神崎真紀」の鎧を、脱ぎ捨てよう。
私はスマートフォンを手に取ると、『ウィークエンド・ファミリー』の緊急連絡先に電話をかけた。
震える声で、ただ一言、こう告げた。
「シフォンくんを…この子を、私の家族にさせてください」
「いいね」より愛しい、君のいる日常
電話の向こうのスタッフは、私の必死の訴えを、驚くほど優しく受け止めてくれた。
シフォンのようなレンタル期間を終えた子のために、「正式譲渡プログラム」があるのだという。
ただし、それには審査がある。今のペット不可のマンションでは、もちろん無理だ。
「引っ越します。この子のために、必ず環境を整えますから」
私の迷いのない言葉に、スタッフは「お待ちしています」と温かく応えてくれた。
その日から、私の毎日は一変した。
仕事の合間を縫って、ペット可の物件を探し回った。
湾岸エリアのタワマンに比べれば、少し都心から離れるし、部屋も手狭になる。
けれど、私の心は希望で満たされていた。
日当たりの良い、バルコニーのある部屋。
そこでシフォンと一緒に日向ぼっこをする光景を思い浮かべるだけで、自然と笑みがこぼれた。
上司に頭を下げ、残業を減らしてもらえるよう働き方も見直した。
同僚たちは驚いていたが、「猫を飼うんです」と正直に打ち明けると、意外にもみんな協力的だった。
「神崎さんにもそんな一面があったんですね」
そう言って笑う後輩の顔は、とても優しかった。
私が必死に守ってきた「完璧な私」という鎧は、案外、周りにとっては息苦しいものだったのかもしれない。
そして、一ヶ月後。私は桜並木が見える、小さな川沿いのマンションに引っ越した。
審査も無事に通り、正式に私の家族となったシフォンと一緒に。
新しい部屋は、まだ段ボールが隅に積まれている。
けれど、窓から差し込む柔らかな光の中で、キャットタワーのてっぺんから私を見下ろすシフォンの姿は、まるで王様のようだ。
私は、久しぶりにSNSを開いた。そして、一枚の写真を投稿した。
それは、加工もしていない、ありのままの日常の写真。
日当たりの良いリビングの床で、だらしなくお腹を出して寝ているシフォンと、その横で微笑む、すっぴんの私の足。
添えた言葉は、短く。
『新しい家族ができました。ここが、私の本当のお城です。 #本物の家族 #猫のいる暮らし』
投稿ボタンを押す指に、もう迷いはなかった。
「いいね」の数は、以前の半分にも満たないかもしれない。でも、それでいい。
スマートフォンの画面に映る数字よりも、ずっと確かな温もりが、今、私の足元で「ゴロゴロゴロ…」と幸せな音を立てているのだから。
窓の外では、春の風に吹かれて、桜の花びらが祝福するように舞っていた。
この小さな城で、シフォンと紡いでいく未来は、きっと、どんなタワマンからの夜景よりも、眩しく輝いている。