遠い、遠い、君との距離
神崎美咲(かんざきみさき)、34歳、独身。在宅でウェブデザインの仕事をしながら、東京の少し外れにある、日当たりの良いマンションで一人暮らし。いや、正確には一ヶ月前から「一匹」暮らしが加わった。
相棒の名は、レオ。 保護猫カフェで出会った、
すらりとした手足に、吸い込まれそうな翠色の瞳を持つキジトラの男の子だ。
カフェの隅っこで、他の猫たちが愛想を振りまく中、彼はまるで孤高の王様のように、ただ静かに座っていた。
そのクールな横顔に、なぜか強く惹かれてしまったのだ。
「この子は、ちょっと心を許すのに時間がかかるタイプなんです」
スタッフの言葉通り、我が家に来てからのレオは、徹底してクールだった。
美咲が愛情を込めて選んだふかふかのベッドには目もくれず、お気に入りは日当たりの悪い廊下の隅。
ちゅーるを差し出せば食べるけれど、食べ終わればさっさとどこかへ行ってしまう。撫でようと手を伸ばせば、するりとかわされる。
「レオ、ただいま」 仕事を終え、スーパーの袋を提げて帰宅した美咲が声をかける。返事はない。
リビングを覗くと、キャットタワーのてっぺんから、翡翠の瞳がこちらをじっと見下ろしていた。
「おかえり」でも「お腹すいた」でもない、ただの監視。
(…わかってる。わかってるけど、ちょっとくらい、ねぇ?)
心の中でため息をつく。
友人のSNSには、飼い主のお腹の上で「へそ天」で眠る猫や、キーボードの上に乗って仕事を邪魔する「可愛いテロリスト」たちの写真が溢れている。
それに比べて、我が家の王様はなんとご立派なことか。
「美咲は真面目だから、猫にも真正面から向き合いすぎなのよ。もっとこう、適当でいいんだって」 リモート会議の後、同僚の由香里に愚痴をこぼすと、カラカラと笑われた。
「猫は気まぐれな神様なんだから。こっちが跪いて、ご機嫌を伺うくらいがちょうどいいのよ」
神様、か。言い得て妙だわ、と美咲は苦笑する。 確かに、レオは美しい。滑らかな毛並み、しなやかな動き、全てが完璧な造形美。
でも、美咲が求めていたのは、美術館に飾る芸術品じゃない。
温もりを分かち合える、家族だったはずなのに。
廊下の隅で香箱座りをしているレオの小さな背中に、そっと話しかける。
「レオ、私ね、今日クライアントに褒められたんだよ。あなたが静かにしててくれるから、仕事が捗るって言っておこうかな」 レオはぴくりと耳を動かしただけで、こちらを振り向きもしない。
遠い、遠い、君との距離。
それはまるで、決して交わることのない平行線のように、美咲の心を少しずつ、でも確実に寂しさで満たしていった。
静かなる、神様の寄り添い
そんな日々が続いていたある金曜日のこと。
美咲は、キャリアを揺るがすような大きなミスをしでかした。
担当していた大手クライアントのウェブサイトで、公開直前にリンクの致命的な設定ミスが発覚したのだ。
幸いすぐに修正できたものの、クライアントからの電話口での叱責は、容赦なく美咲の心を抉った。
『プロとして失格だ』
その言葉が、頭の中で何度も木霊する。
ずぶ濡れの心を引きずって帰宅すると、リビングのドアの隙間から、レオがじっとこちらを見ていた。
いつもの監視の目。
けれど今日に限っては、その瞳が「何があった?」と問いかけているように見えたのは、きっと気のせいだろう。
ソファに沈み込むように座り、大きくため息をつく。涙がこぼれそうになるのを、ぐっと堪える。
こんな姿、孤高の王様に見せるわけにはいかない。 「…なんでもないよ、レオ。ちょっと疲れただけ」
いつものように、レオは自分のテリトリーであるキャットタワーに戻るか、廊下の隅に消えると思っていた。
しかし、その日のレオは違った。
美咲が座るソファから、2メートルほど離れたラグの上。
そこに、ちょこんと座り込んだのだ。
そして、静かに毛づくろいを始めた。美咲に近づくでもなく、かといって離れるでもない、絶妙な距離感。
(…近くに、いてくれるの?)
撫でようとすれば、きっと逃げる。わかっている。だから美咲は動かずに、ただレオの存在を感じていた。
聞こえてくるのは、ペロペロという毛づくろいの音と、壁の時計が時を刻む音だけ。
それなのに、不思議と心が凪いでいく。
さっきまで荒れ狂っていた嵐が、嘘のように静まっていく。
その夜、美咲はなかなか寝付けずに、リビングでブランケットをかぶり、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
すると、足元にふわりと軽い気配を感じた。
レオだった。美咲の足に、そっと自分の体を寄せている。
驚いて身じろぎすると、レオは少し離れてしまったけれど、それでもすぐそばで丸くなっている。
凍りついていた心が、じんわりと解けていくのがわかった。
神様は、気まぐれに、ほんの少しだけ、慰めを与えてくださったのかもしれない。
その数日後、今度は美咲の体に異変が起きた。
季節の変わり目のせいか、ひどい風邪をひいてしまったのだ。
38度を超える熱と、鉛のように重い体。食欲もなく、ゼリー飲料を飲むのがやっとだった。心細さが募る。一人暮らしの正念場だ。
朦朧としながらベッドに横たわっていると、不意にベッドが小さく軋んだ。
目を開けると、そこに信じられない光景が広がっていた。
レオが、美咲の枕元で丸くなっている。
今まで決して上がろうとしなかったベッドの上に。
驚きで声も出ない。
熱で潤んだ瞳でレオを見つめると、彼はただ静かに、ゴロゴロと喉を鳴らしていた。
その音は、まるで「大丈夫、そばにいるよ」と語りかけているかのようだった。
ああ、ダメだ。涙腺が、もう。 美咲は、枕に顔を押し付けて、声を殺して泣いた。
嬉しくて、温かくて、涙が止まらなかった。
レオはただそこにいるだけ。でも、その小さな存在が、世界で一番の特効薬のように思えた。
クールな神様は、ちゃんと見ていてくれたのだ。私の弱さも、寂しさも、全部。
38℃の奇跡、膝の上のぬくもり
美咲の風邪がすっかり治った頃には、街路樹の葉が赤や黄色に色づき、冬の気配がすぐそこまで近づいていた。
レオとの関係は、あの日を境に、確実に変化していた。
相変わらず抱っこはさせてくれないし、過剰なスキンシップは嫌がる。
けれど、美咲が部屋を移動すれば、さりげなくついてくるようになった。
仕事をしているデスクの足元で、丸くなって眠るようにもなった。
その小さな進歩が、美咲にとっては大きな喜びだった。
そして、運命の夜は、突然やってきた。
その日は特に冷え込みが厳しく、美咲はリビングのソファで、お気に入りの分厚いブランケットにくるまって、恋愛映画を観ていた。
ヒロインが愛を告白する、クライマックスのシーン。
そろ、そろり。 視界の端に、しなやかな影が入ってきた。レオだ。
ソファの端にぴょんと飛び乗ると、おずおずと美咲の方へ歩いてくる。
(どうしたんだろう?)
美咲が息をのんで見守っていると、レオは美咲の膝のあたりをくんくんと嗅ぎ、おもむろに、そのブランケットの上へと足を踏み入れた。
そして。 くるりと体を丸めると、ちょこん、と膝の上に乗ったのだ。
「え…」
声にならない声が漏れた。 時が、止まった。映画の音も、部屋の空気も、全てが遠のいていく。
美咲の意識は、膝の上にある、その確かな重みと温かさに集中していた。
ずっしりとした、命の重さ。
ブランケット越しに伝わってくる、38℃の体温。
心臓が、きゅーっと音を立てて縮こまるような、甘い痛み。
しばらく硬直していた美咲は、我に返ると、震える手でそっとレオの背中に触れた。
ビクッとするかと思ったが、レオは逃げなかった。
それどころか、美咲の手のひらに応えるように、ふすーっと満足げな息を吐き、喉を鳴らし始めた。 ゴロゴロゴロゴロ…
その振動が、膝から全身に伝わってくる。
それは、世界で一番優しいエンジン音。幸せを奏でる、奇跡のメロディ。
「レオ…」
美咲の瞳から、ぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちた。 膝の上に乗ってくれた。ただそれだけのこと。
でも、それは美咲にとって、どんな高価なプレゼントよりも、どんな愛の言葉よりも、価値のある出来事だった。
クールな王様が、孤高の神様が、ついに心を、その身を、委ねてくれたのだ。
それからのレオは、まるで「膝乗り」というスキルを覚えたゲームキャラクターのように、美咲がソファに座るたびに、当たり前のように膝に乗ってくるようになった。
時には、お腹を上にして無防備な寝姿を見せることさえある。
「もう、ツンデレなんだから」 美咲は、すっかり親バカになっていた。
いや、「ツン」が長すぎたから「クーデレ」とでも言うべきか。
そのたまに見せるデレの破壊力は、凄まじいものがあった。
仕事の合間に膝の上で眠るレオの頭を撫でる時間は、何よりの癒しであり、活力になった。
君が教えてくれた、未来への希望
レオとの生活は、美咲の世界を色鮮やかなものに変えてくれた。
人間関係も、同じなのかもしれない。
焦って距離を縮めようとしたり、見返りを求めたりするのではなく、ただ静かに相手を信じ、自分の時間を大切に過ごす。
そうすれば、いつか自然と心は通い合い、固く閉ざされた扉が開く瞬間が訪れるのかもしれない。
ある晴れた週末の午後。
美咲は、ベランダで気持ちよさそうに日向ぼっこをしているレオの写真を、スマートフォンで何枚も撮っていた。
ファインダー越しのレオは、世界一幸せそうな顔をしている。
「あなたと出会えて、本当によかった」
その言葉は、レオだけに向けたものではなかった。
臆病で、少しだけ不器用で、愛されることに自信が持てなかった、かつての自分。
そんな自分自身にも、語りかけているようだった。
膝の上のぬくもり。 ゴロゴロという優しい音。
クールな瞳の奥に隠された、深い愛情。
レオが教えてくれた、たくさんの小さな幸せ。
それが、美咲の未来を明るく照らす、道標になっていた。
私は一人じゃない。この温かい命と共に、明日を生きていくのだ。
美咲はスマートフォンのアルバムを開き、我が家に来たばかりの頃の、警戒心に満ちたレオの写真と、今日の写真を並べてみた。
その変化が愛おしくて、思わず笑みがこぼれる。
「これからも、よろしくね。私の、最高の相棒」
返事の代わりに、レオは「にゃーん」と短く鳴いた。
それはきっと、彼なりの最大限の「イエス」なのだろう。
柔らかな日差しの中で、美咲とレオの、穏やかで希望に満ちた時間は、これからもゆっくりと続いていく。