相続したのは、気まぐれな猫大家さん? アラフォー研究職の私が古民家で見つけた本当の幸せ

青天の霹靂

「では、次の議題に移ります。第三四半期における被験薬C-23の臨床データですが…」

蛍光灯が白々と照らす会議室。

スクリーンに映し出された無機質なグラフと数値を、私は冷静に分析し、淀みなく説明していく。

小田切沙耶、39歳、独身。製薬会社の研究職。

私の世界は、再現可能なデータと、AならばBという明確な論理で構築されている。

そこに曖昧な感情や非合理的な感傷が入り込む余地はない。

それが、この世界を生き抜くための私の鎧であり、処世術だった。

仕事は順調だ。大きなプロジェクトも任され、後輩の指導にも当たる。

周囲からは「デキる女」と見られていることも知っている。けれど、その鎧の下で、心が少しずつすり減っていることにも、気づかないふりをしていた。

同僚たちの週末の家族サービスや恋人とのデートの話題を、興味のないふりで聞き流しながら、コンビニで買ったパスタを一人ですする深夜。

ふと、40歳という年齢が、すぐそこまで迫っている現実に、胸の奥が微かに軋むのだ。

そんなある日の午後、スマホが静かに震えた。

ディスプレイに表示されたのは、見慣れない市外局番。

怪訝に思いながらも電話に出ると、遠い親戚を名乗る男性から、衝撃的な事実が告げられた。

「お祖母様の、小田切ハナさんが、昨夜お亡くなりになりまして…」

祖母。その言葉に、私の思考は一瞬停止した。 両親を早くに亡くした私にとって、唯一の肉親だった祖母。

だが、私が大学進学で上京して以来、もう20年近く会っていなかった。

最初のうちは手紙のやり取りもあったが、仕事が忙しくなるにつれてそれも途絶え、今では年に一度、時候の挨拶を印刷したハガキを送り合うだけの関係。

どこか、心の片隅で気まずさを感じながらも、日々の忙しさを言い訳に、その感情に蓋をしてきた。

葬儀は、近所の方々だけでささやかに執り行われたと聞かされ、私は言いようのない罪悪感に襲われた。

そして、追い打ちをかけるように、親戚の男性は言った。

「ハナさん、遺言書を残されておりまして。あの家と土地は、すべて沙耶さんにと…」

相続。その言葉は、まるで他人事のように私の耳を通り過ぎていった。

祖母が暮らしていたのは、都心から電車を乗り継いで二時間ほどの、海に近い小さな町。

そこにポツンと建つ、古い一軒家。

私にとっては、幼い頃の夏休みの記憶が微かに残っているだけの場所だ。

「どうするんだ、あの家…」

仕事の合間に、機械的に弁護士や不動産業者と連絡を取る。

私の論理的な頭脳は、即座に「売却」という最も効率的な選択肢を導き出した。

古くて不便な家に住む気など毛頭ないし、維持管理する手間を考えれば、現金化するのが合理的だ。

「週末に一度、現地を見て、必要なものを整理したら、すぐに手続きを進めよう」

そう、すべては計画通りに進むはずだった。

カレンダーに「祖母の家」と無機質な文字を書き込みながら、私はまだ知らなかった。

その古い一軒家で、私の論理的で完璧な世界を、根底からひっくり返すような「彼」との出会いが待っていることを。

気まぐれな大家さんとの攻防

週末、私は最低限の荷物だけをボストンバッグに詰め込み、電車を乗り継いで祖母の家へと向かった。

都心の喧騒が嘘のように、車窓の風景は次第に緑を増していく。

潮の香りが混じった風が、開けた窓から吹き込んできて、忘れていた幼い日の記憶をくすぐる。

最寄り駅からタクシーで10分。

たどり着いたその家は、記憶の中よりもずっと小さく、そして古びて見えた。

けれど、丁寧に手入れされた庭の草花が、まるで「おかえり」とでも言うように、色とりどりの花を咲かせている。

錆び付いた門扉を押し開け、玄関の引き戸に鍵を差し込む。

ぎしり、と軋む音を立てて開いたその先は、ひんやりとした静寂と、陽だまりの匂いがした。

「…お邪魔します」

誰もいない家に声をかける自分がおかしくて、小さく笑う。

家の中は、祖母が亡くなる直前まで暮らしていたとは思えないほど、きちんと片付いていた。

まるで、いつ私が帰ってきてもいいように、準備して待っていたかのようだ。その事実に、また胸がちくりと痛んだ。

一通り家の中を見て回り、さて、荷物を解こうかと居間の襖を開けた、その時だった。

「……にゃあ」

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低く、威厳のある声。

縁側に面したガラス戸の向こう、陽だまりを独り占めするように、一匹の猫がでっぷりと鎮座していた。

陽の光を浴びて艶やかに光る、見事なキジトラ柄。

片耳の先が少しだけ欠けている。そのふてぶてしいまでの態度は、まるで「我こそがこの家の主である」と宣言しているかのようだった。

「猫…?」

私が驚いて立ち尽くしていると、猫はゆっくりと片目を開け、値踏みするように私を一瞥した。

そして、興味を失ったかのように、またふいと顔を背けてしまう。なんだか、無性に腹が立った。

「あなた、誰なの。人の家に勝手に入り込んで」

もちろん、返事はない。猫はただ、尻尾をぱたり、ぱたりと揺らすだけだ。

どうやら、祖母が可愛がっていた野良猫らしい。近所の人に聞けば、飼い主が見つかるかもしれない。

私はそう結論付け、ひとまず猫のことは無視して、家の片付けを始めることにした。

しかし、その考えが甘かったことを、私はすぐに思い知らされることになる。

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私が遺品整理のために押し入れを開ければ、いつの間にか背後にいて、中を覗き込む。

私が売却の相談のために不動産屋のパンフレットを広げれば、その上にどっかりと乗っかり、動こうとしない。

私が少し疲れ、縁側で一息つこうものなら、当然のように隣に座り、私の持っているお茶をくんくんと嗅ぐ。

「ちょっと、邪魔なんだけど!」

まるで、私がこの家をどうこうしようとするのを、全力で阻止しているかのようだ。

私はその大きな猫を「大将」と勝手に名付け、半ば呆れ、半ば感心しながら、奇妙な同居生活を始めることになった。

そんな攻防が二日ほど続いた夜。一向に進まない片付けに疲れ果て、私はため息をついた。

その時、ふと、本棚の隅に、布張りの古いノートが一冊あるのに気がついた。

手に取ると、表紙にはインクで『ハナの日記』と書かれている。

祖母の日記。

人のプライベートを覗き見るようで、一瞬ためらった。だが、ページをめくる指を止めることはできなかった。

そこには、私の知らない祖母の、穏やかで優しい日々が綴られていた。

日記が語る真実

『四月十日 晴れ。 庭の桜草が満開になった。沙耶が小さい頃、この花で首飾りを作ってやったのを思い出す。あの子は今、都会で元気にしているだろうか。仕事が大変だと、手紙に書いてあった。無理をしていないといいけれど。』

日記は、そんな書き出しで始まっていた。

ページをめくるたびに、私の胸は締め付けられるようだった。

私がとっくに忘れてしまっていた些細な出来事を、祖母はずっと大切に覚えていてくれたのだ。

『五月三日 雨。 今日も例の彼が、縁側にご飯をねだりに来た。随分と態度が大きいので、「大将」と名付けた。最初は警戒していたけれど、最近は撫でさせてくれるようにもなった。この家を守ってくれているのかもしれない、なんて思うと可笑しい。』

大将。やはり、あの猫のことだ。

日記の中の祖母は、大将との出会いを、まるで旧友ができたかのように喜んでいた。

雨の日は一緒に縁側で雨音を聞き、晴れた日は庭仕事をする祖母の足元で日向ぼっこをする。

二人は、静かで満ち足りた時間を共有していたのだ。

私は、はっとした。

大将が私に懐かないのも、私が家を売ろうとするのを邪魔するのも、すべて、この家と祖母との思い出を守ろうとしていたからなのかもしれない。

私という「侵入者」から。

その夜、私は眠れなかった。ノートパソコンを開き、いつものように仕事のメールをチェックしようとしたが、文字が全く頭に入ってこない。

代わりに、日記の言葉が何度も頭の中を駆け巡る。

『九月十五日 曇り。 沙耶から、珍しく電話があった。声が少し疲れているようだった。

本当は、「いつでも帰っておいで」と言ってあげたかったけれど、あの子の頑張りを邪魔してはいけないと思って、言えなかった。

ここの暮らしは、何もないけれど、時間だけはゆっくり流れている。

いつか、あの子が疲れた時、羽を休める場所でありたい。』

涙が、ぽろりとキーボードの上に落ちた。 私は、なんて馬鹿だったんだろう。

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論理だ、効率だと、そんなものばかりを振りかざして、一番大切なものを見ていなかった。

祖母は、ずっと私を想ってくれていた。

この家は、ただの古い建物じゃない。祖母の愛情が、想いが、たくさん詰まった、私のための「帰る場所」だったのだ。

翌朝、私は少し寝坊をした。居間へ行くと、大将が私の座布団の上で、香箱座りをしている。

いつもなら「どきなさいよ」と追い払うところだが、その日は違った。

「おはよう、大将」

そう声をかけると、大将はゆっくりと顔を上げ、私の目をじっと見つめた。

そして、まるで「ようやくわかったか」とでも言うように、小さく「にゃん」と鳴いた。初めて聞く、優しい声だった。

私は、そっと大将の隣に座り、その柔らかな背中を撫でた。

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大将は、ゴロゴロと喉を鳴らし、私の手に頭をすり寄せてきた。

まるで、気まぐれな大家さんが、ついに私を住人として認めてくれた瞬間だった。

窓から差し込む朝の光が、部屋の埃をキラキラと照らし出す。

その光景は、今まで見てきたどんな完璧なデータよりも、美しく、私の心を温かく満たしていった。

私の新しい暮らし

その週末、私は東京に帰る前に、不動産業者に電話を入れた。

「すみません、先日お願いしていた家の売却の件ですが…、すべてキャンセルでお願いします」

受話器の向こうで驚く担当者に、私はきっぱりと告げた。もう、迷いはなかった。

会社に戻った私は、すぐに上司に相談し、リモートワークを主体とした働き方に切り替えてもらえるよう交渉した。

幸い、私の仕事はパソコンとデータさえあれば、どこでもできる部分が多い。

前例のない申し出に、上司は渋い顔をしたが、これまでの実績と、私が提出した詳細な業務計画書に目を通し、最終的には「期間限定で試してみよう」と許可してくれた。

それからの私は、まるで生まれ変わったようだった。平日の半分と週末は、祖母の家で過ごす。

最初は、静けさと不便さに戸惑うこともあった。

けれど、大将とのんびり縁側で日向ぼっこをしたり、祖母が遺したレシピで庭の野菜を料理したり、近所のおばあちゃんとお茶飲み話をしたりするうちに、私の心は少しずつ解きほぐされていった。

論理と効率だけを追い求めていた日々では、決して得られなかった心の平穏。QOL(クオリティ・オブ・ライフ)という言葉の意味を、私は初めて肌で感じていた。

ある日、祖母の日記にハーブに関する記述がたくさんあることに気づいた。

祖母は、庭で育てたハーブで、ハーブティーやポプリ、手作りの虫除けスプレーなどを作って楽しんでいたらしい。

製薬会社で培った私の知識が、ここで活かせるかもしれない。

「週末起業…なんて、大げさかな」

私は、試しに祖母のレシピを参考に、庭のラベンダーとカモミールでリラックス効果のあるハーブバスソルトを作ってみた。

それを可愛らしい小瓶に詰め、手書きのラベルを貼る。

完成したそれを見た時、研究室で新薬のデータが出た時とは違う、温かい達成感が胸に広がった。

「これ、いい香りね。一つ分けてくださる?」

おすそ分けしたご近所さんの口コミで、私の作るハーブ製品は少しずつ評判になっていく。

私は、家の軒先に小さな木の看板を掲げた。

『週末ハーブ工房 Stray Cat’s Garden』

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看板の横では、すっかりこの家の主(ぬし)となった大将が、気持ちよさそうに日向ぼっこをしている。

彼はもう、気まぐれな大家さんなんかじゃない。かけがえのない、私の家族だ。

40歳の誕生日は、この家で迎えた。

手作りのささやかなケーキを前に、私は一人、静かに手を合わせる。

「お祖母ちゃん、私、今、すごく幸せだよ」

窓の外では、潮風が優しく木の葉を揺らしている。

足元では、大将がゴロゴロと喉を鳴らす音がする。

私の世界はもう、無機質なデータだけじゃない。

温かい繋がりと、優しい時間と、そして、未来への確かな希望で満ち溢れている。

この家を相続したのは、きっと偶然じゃない。

不器用な私に、本当の幸せのありかを教えてくれるための、祖母からの最後の贈り物だったのだ。

そして、その贈り物を届けてくれたのは、一匹の気高き「大家さん」なのだった。

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