『私とソラの城』
エンジン音は、一日の終わりの合図
「美咲さん、お疲れ様。例の件、クライアントさん、すごく喜んでたよ」 「本当ですか!良かった…!」
金曜日の午後6時。オフィスに響く優しい労いの言葉に、私はパソコンの電源を落としながら、ほっと胸をなでおろした。
今週も、走りきった。企画書の作成からプレゼンの準備まで、我ながらよく頑張ったと思う。
やりがいのある仕事。尊敬できる同僚。
決して悪くない、むしろ恵まれている会社員生活だ。今年で、35歳になった。
「美咲は本当に仕事ができるわよね。でも、そんなに頑張ってばっかりだと、婚期逃しちゃうわよ?」
背後から聞こえてきたのは、悪気ゼロの親切心という名の槍。
パートの鈴木さんだ。彼女の口癖のようなその言葉に、私は「あはは…」と曖昧に笑って返すしかない。
大丈夫。もう慣れた。心の中で呪文のように唱える。
会社の飲み会に行けば「いい人いないの?」、実家に帰れば「お母さん、孫の顔が見たいわぁ」。
SNSを開けば、友人たちの結婚報告や、生まれたばかりの赤ちゃんの写真がきらきらと流れてくる。
おめでとう。心からそう思う。
でも、その光が強ければ強いほど、私の足元に落ちる影は濃くなるような気がした。
「一人だと、何かと大変でしょう?」 「寂しくないの?」
そんな言葉たちが、ボディブローのようにじわじわと効いてくる。
大丈夫、大丈夫。私は、一人でもちゃんとやっている。寂しくなんかない。
そう言い聞かせても、時々、心の表面がささくれ立つのを感じていた。
重たい足取りでマンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗る。
静かな箱の中で、今日の出来事を反芻しては、小さくため息をついた。
でも、知っている。
この沈んだ気持ちを、一瞬で吹き飛ばしてくれる魔法を。
玄関のドアに鍵を差し込み、ゆっくりと開ける。
「ただいま」
その声に応えるように、リビングの奥から「にゃーん」という可愛らしい声と、タタタッという軽やかな足音が聞こえてくる。
「ソラ、ただいま。お利口さんにしてた?」
私の足元にすり寄ってくる、ふわふわの白い毛玉。名前はソラ。
三年前の雨の日、会社の近くで震えていたのを保護した、白地に茶色のぶち模様が入った元野良猫だ。
澄んだ空のような青い瞳をしていたから、ソラと名付けた。
「にゃあ!(おかえり!)」
そう言っているかのように、ソラは私の足に頭をこすりつけ、しっぽをピンと立ててご機嫌な様子だ。
バッグを床に置き、ジャケットを脱ぎながら、その小さな頭を撫でてやる。
ゴロゴロ…ゴロゴロ…。喉から聞こえてくる、世界で一番心地よいエンジン音。
ああ、これだ。
この音を聞くために、私は今日一日、頑張ってきたのかもしれない。
仕事の達成感も、もちろん嬉しい。でも、ソラのこの温もりと安心感には敵わない。
「お腹すいたよね。すぐにご飯にしようね」
キッチンに立つ私の足元を、ソラは金魚のフンのようについて回る。
カリカリを器に入れる音に、期待で瞳を輝かせ、短いしっぽをパタパタと振る。
その姿が愛おしくて、思わず笑みがこぼれた。
夕食は、デパ地下で買ってきた少し贅沢なお惣菜と、好きな小説。
そして、テーブルの下には、お腹がいっぱいになって満足げに毛づくろいをしているソラがいる。
誰に気兼ねすることもない。自分のペースで、好きなものに囲まれて過ごす時間。
「私には、この子がいる」
窓の外に広がる都会の夜景を眺めながら、私はそっと呟いた。
きらびやかなネオンの光も、この部屋の温かい明かりの前では、少し色褪せて見える。
ここは、私とソラだけの、静かで完璧な城なのだ。
冷たい雨と、温かい涙
「えー!美咲、まだ彼氏作らないの?もったいない!」
土曜日の昼下がり。お洒落なカフェのテラス席で、大学時代の友人、由香が大きな声を上げた。
今日の集まりは、由香の結婚祝い。
久しぶりに顔を合わせた友人たちは、皆、それぞれの家庭を築いていた。
「もう、由香ったら声が大きいわよ。でも、美咲ほどのキャリアウーマンなら、選び放題でしょう?」
「そうそう。今度、うちの旦那の同僚、紹介しようか?」
口々に飛び交う、善意の言葉たち。
みんな、私のことを心配してくれている。それは痛いほどわかる。
でも、その言葉は同時に、「あなたは一人で不完全だ」と言われているような気がして、胸の奥がチクリと痛んだ。
「ありがとう。でも、今は仕事が楽しくて。それに、うちには可愛い家族がいるから」
精一杯の笑顔でそう返すと、由香が不思議そうな顔で小首を傾げた。
「家族?…ああ、猫ちゃんのことね!そりゃあ可愛いけどさ、猫は猫だよ。やっぱり、辛い時とか、本当に頼りになるのは人間でしょ?」
その瞬間、私の心の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
違う。
ソラは「ただの猫」じゃない。
私が仕事で疲れ果てて帰った夜、何も言わずにそばに寄り添ってくれた。
私が風邪で寝込んだ時、心配そうに枕元から離れなかった。
嬉しい時も、悲しい時も、この三年間、いつも隣にいてくれたのはソラだ。
それは、誰が何と言おうと、私にとってかけがえのない「家族」の姿そのものだった。
でも、そんなことをここで熱弁したところで、きっと誰にも理解されないだろう。
「猫にのめり込んで、婚期を逃してる可哀想な人」。
そんなレッテルを貼られるのが目に見えていた。
「…そうだね。はは…」
私は、また曖昧に笑うことしかできなかった。
友人たちの会話は、マイホームのローンや、子どものお受験の話へと移っていく。
知らない単語が飛び交うその輪の中で、私はまるで、一人だけ違う星に来てしまったような、深い疎外感に包まれていた。
お祝いの会が終わり、一人、帰り道を歩く。
さっきまで晴れていた空は、いつの間にか厚い雲に覆われ、ぽつり、ぽつりと冷たい雨がアスファルトを濡らし始めた。
傘なんて、持っていない。
ああ、なんで。どうして、私は普通になれないんだろう。
どうして、みんなと同じ幸せを、素直に欲しいと思えないんだろう。
周りの声に傷ついて、勝手に孤独を感じて。
そんな自分が、情けなくて、惨めだった。
雨粒はどんどん勢いを増し、私の髪やコートを容赦なく濡らしていく。
まるで、心の靄が、そのまま空から降ってきているみたいだった。
ずぶ濡れになりながら、ようやくマンションにたどり着く。
震える手で鍵を開け、冷え切った体で玄関に滑り込んだ。
「…ただいま」
か細い声は、誰に届くでもなく、しんとした空間に消える。
そう思った、その時だった。
「にゃーん…」
リビングのドアの隙間から、心配そうな顔をしたソラがひょっこりと顔を出した。
そして、私のずぶ濡れの姿を見るなり、「みゃ、みゃおん…」と、いつもとは違う、不安げな声で鳴きながら駆け寄ってきたのだ。
私の足元で、濡れた裾の匂いをふんふんと嗅ぎ、見上げてくる青い瞳。
その瞳は、はっきりとこう語っていた。
「どうしたの?大丈夫?」
その瞬間、張り詰めていたものが、一気に決壊した。
「ソラぁ…っ」
玄関にへたり込み、ソラを抱きしめる。
冷たい私の頬に、ソラの温かい毛皮が触れた。
その温もりが、凍てついた心をじんわりと溶かしていく。
「寂しかった…っ。悲しかったよぉ…っ」
しゃくり上げながら、子どものように泣いた。
誰にも言えなかった本音。
心の奥底にしまい込んでいた、弱くて、みっともない感情。
それを、ソラはただ黙って受け止めてくれる。
ゴロゴロという優しい音が、まるで「大丈夫だよ、僕がここにいるよ」と慰めてくれているようだった。
冷たい雨に打たれて流れたのは、ただの雨粒だった。
でも、今、ソラの温もりに触れて流れるこの涙は、間違いなく、私の心を浄化してくれる、温かい涙だった。
私とソラの城、建築宣言!
あの雨の夜から数日。私は、ある大きな決意をしていた。
きっかけは、泣き疲れて眠ってしまった私の隣で、朝までぴったりと寄り添ってくれていたソラの姿だ。
この子のために、私にできることは何だろう。もっと、この子を幸せにしてあげたい。
そして、私自身も、もっとこの暮らしを慈しみ、誇りを持って生きていきたい。
「よし、決めた!」
日曜日の朝。私はパジャマのまま、ノートパソコンを開いた。
検索窓に打ち込んだのは、「キャットタワー DIY」。
そうだ。私とソラのための「城」を、もっと素敵で、もっと快適な場所にしよう。
誰かに作ってもらったものではない、私の手で、この子のための特別な居場所を作ってあげるのだ。
早速、ホームセンターで木材や工具を買い込んだ。
設計図なんて大したものはない。
ソラが好きそうな高さ、好きそうな隠れ家をイメージしながら、頭の中で組み立てていく。
今まで、DIYなんてほとんどやったことがない。
でも、不思議と不安はなかった。むしろ、これから始まる「創造」に、心がわくわくしていた。
リビングの真ん中にブルーシートを広げ、買ってきた木材を並べる。
その物々しい雰囲気に、ソラは興味津々だ。
「ソラ、これは君のためのお城だからね。ちょっと邪魔しないでよ?」
そう言いながら作業を始めると、案の定、小さな「現場監督」は黙っていなかった。
私がメジャーで長さを測ろうとすれば、そのメジャーの先にじゃれついてくる。
ネジを床に置けば、ころころと前足で転がして遊んでしまう。
しまいには、私が切り出したばかりの板の上に、どっかりと座り込んで毛づくろいを始めた。
「こら、ソラ!そこはまだ乗っちゃダメだってば!」
思わず声を荒らげてしまうが、ソラは「にゃ?」と、きょとんとした顔でこちらを見上げるだけ。
そのあまりにも無垢な表情に、ぷっと吹き出してしまった。
「もう…しょうがないなあ」
憎めない邪魔者のせいで、作業は々進まない。
慣れないノコギリに苦戦し、手のひらには豆ができた。
トンカチで自分の指を打ちそうになり、情けない悲鳴を上げたことも一度や二度ではない。
でも、そのすべてが、なぜだかとても楽しかった。
誰かに評価されるためじゃない。誰かと比べるためでもない。
ただ、愛しいこの子の喜ぶ顔が見たい。その一心で、木材と格闘する時間。
汗をかき、夢中になるこの感覚は、仕事の達成感とはまた違う、もっと根源的で、温かい充実感に満ちていた。
ふと、友人の言葉が頭をよぎる。 「辛い時、本当に頼りになるのは人間でしょ?」
本当にそうだろうか。
今、私の心をこんなにも豊かにしてくれているのは、間違いなく、目の前でネジを転がしているこの小さな命だ。
この子との暮らしを、「一人で可哀想」なんて、誰にも言わせない。
これは、私の選択だ。私が選び取った、幸せの形なんだ。
釘を打つ一打一打に、そんな決意がこもっていく。
それは、誰かに向けた反論じゃない。
私自身の心に、深く、確かなくさびを打ち込むような、静かで力強い作業だった。
日が傾き始めた頃、ついに、不格好ながらも愛情だけはたっぷりのキャットタワーが、その姿を現した。
「できた…!ソラ、できたよ!」
汗だくのまま、私は達成感に満ちた声で呼びかけた。
ソラは、完成したばかりの「新しいお城」を、少し警戒するように遠巻きに眺めている。
しかし、私が一番下の段にカシャカシャと音の鳴るおもちゃを置いてやると、そろり、と近づいてきた。
匂いを嗅ぎ、前足でそっと触れて、安全を確認する。
そして、一段、また一段と、慎重に、でもどこか誇らしげに登っていく。
そして、ついに。
一番高い、窓際のてっぺんの台にぴょんと飛び乗った。
そこから見える景色はどう?ソラ。 私の小さな王様。
ソラは、満足そうにひとつ「にゃっ」と鳴くと、くるりと丸くなって、気持ちよさそうに目を閉じた。
ゴロゴロ…ゴロゴロ…。完成を祝うかのような、盛大なエンジン音が、部屋いっぱいに響き渡った。
雨上がりの虹を、君と
完成したキャットタワーは、すっかりソラのお気に入りの場所になった。
てっぺんの展望台で日向ぼっこをしたり、途中の隠れ家ボックスにこもって昼寝をしたり。
その姿を眺めているだけで、私の心は温かいミルクティーのように、ふわりと甘く満たされていく。
あの日、友人たちに言われた言葉は、もう私を傷つけることはなかった。
むしろ、あの出来事があったからこそ、私は自分の幸せの輪郭を、はっきりと確かめることができたのだ。
そんなある日の夜、スマートフォンが軽快な音を立てた。
画面に表示されたのは、結婚祝いをした友人、由香からのメッセージだった。
『この間の飲み会、ごめんね。なんか、色々言っちゃって。美咲のこと、傷つけたんじゃないかなって、後からずっと気になってて…』
その文字を読んで、私はふっと微笑んだ。
以前の私なら、このメッセージにどう返信すべきか、あれこれ悩んだかもしれない。
でも、今は違った。
『ううん、全然大丈夫だよ!心配してくれてありがとう。それより、今度、うちに遊びに来ない?私の、世界一かわいい家族、紹介させてよ』
迷いのない、晴れやかな気持ちで、そう打ち返した。
送信ボタンを押すと、すぐに『行く行く!楽しみにしてる!』というスタンプ付きの返事が返ってきた。
そうだ。
分かってもらえない、と心を閉ざす必要なんてなかったんだ。
私が、私の幸せに胸を張っていれば、きっと伝わる。
もし伝わらなくても、それはそれでいい。
大切なのは、私がこの暮らしを愛しているという、ただそれだけのことなのだから。
窓の外を見ると、いつの間にか優しい雨が降っていた。
でも、あの日のような冷たい雨じゃない。
草木を潤し、新しい芽吹きを促すような、恵みの雨だ。
「ソラ」
キャットタワーのてっぺんでまどろんでいたソラを呼ぶと、青い瞳がゆっくりとこちらを向いた。
私はソラの隣にそっと腰を下ろし、その柔らかな背中を撫でる。
ゴロゴロという振動が、私の手のひらから、心へと伝わってくる。
私とソラ。一人と一匹。
でも、決して「独り」じゃない。
ここは、誰にも邪魔されない、私たちが築き上げた温かい「安心基地」。 私たちの、かけがえのない「家」。
漠然とした未来への不安に怯えるのは、もうおしまい。
私は、この子の温もりという、確かな「今」を抱きしめて生きていく。
しばらくして、雨が上がった。
西の空には、くっきりと、七色の大きな虹がかかっていた。
「ソラ、見て。虹だよ」
窓辺に並んで、私とソラは、その美しい光の架け橋を、ただ静かに見つめていた。
その景色は、まるで私たちの未来を祝福してくれているかのようで。
私は、そっと呟いた。
「これからも、よろしくね。私の、小さな王様」
返事の代わりに、ソラは私の腕に、こてん、と頭を預けてきた。
その重みが、何よりも雄弁な愛の言葉のように感じられた。