『いいね!』が消えた日、しっぽのストーカーがやってきた
完璧な私と、謎の視線
「莉子さん、さすが!この投稿、すごい反響ですよ!」
後輩の華やかな声が、アパレルブランド『L’éclat(レクラ)』のプレスルームに響く。
差し出されたスマートフォンの画面には、私が投稿したばかりの新作ワンピースの写真と、勢いよく増え続ける「いいね!」の赤いハートが踊っていた。
『週末は、お気に入りのワンピースで少し遠出して。#レクラ #新作ワンピ #週末野心 #キラキラOLの休日』
添えられたキャプションは、もちろん嘘。
本当は週末のほとんどを、洗濯と作り置きと、Netflixの一気見で溶かしてしまった。
写真は、平日の昼休みに会社の屋上で、同期に頼み込んで撮ってもらった奇跡の一枚だ。
「ありがとう。でも、もっと上手くやれたはずよ」
私は完璧な笑顔を顔に貼り付け、内心の罪悪感を悟られないように答える。
今年で32歳。入社10年目にして、ようやく掴んだプレスのポジション。
SNS戦略を任され、「フォロワー10万人超えの敏腕プレス・莉子」として、会社の期待を一身に背負っている。
私のSNSアカウントは、会社の広告塔であり、私自身の価値を証明する場所。
そこでは、常に完璧で、お洒落で、充実した毎日を送る「私」が存在しなければならない。
会食、展示会、ハイブランドの小物、ホテルのアフタヌーンティー…。
キラキラした日常を切り取って投稿するたび、フォロワーは熱狂し、会社の売上も伸びていく。
でも、本当の私は? ユニクロの部屋着で、コンビニのスイーツを食べながら、「ああ、今日も疲れた…」と呟いている、ただの30代独身女性。
そのギャップが、ボディブローのようにじわじわと私を蝕んでいた。
異変に気づいたのは、一週間ほど前のこと。
会社からの帰り道、決まって視線を感じるようになった。
気のせいかと思っていたけれど、それは日に日に確信に変わっていった。
視線の主は、一匹の猫だった。
鉄錆(てつさび)のような、焦げ茶色と黒が複雑に混じり合った、いわゆる「サビ猫」。痩せても太ってもいない、ごく普通の野良猫。
その猫が、私が会社を出ると、どこからともなく現れ、一定の距離を保ちながら、私のマンションまでついてくるのだ。
「…なんなのよ、あなた」
最初のうちは気味が悪くて、早足で歩いたり、角で急に隠れてみたりもした。
でも、猫はまるで私の行動を先読みしているかのように、悠々と後をついてくる。
その金色の瞳は、まるで私の心の中を見透かしているようで、居心地が悪かった。
SNSのフォロワーたちとは違う、値踏みするでもなく、ただじっと見つめてくるその視線が、私を妙にざわつかせた。
完璧の崩壊と、予期せぬ温もり
事件は、金曜日の午後に起きた。
来週から始まる一大キャンペーンの最終確認中、私は致命的なミスを犯していることに気づいたのだ。
メインビジュアルとして使うタレントの写真データ、その最も重要な一枚の入稿を、すっかり失念していたのだ。
「…嘘でしょ」
血の気が引いていくのがわかった。
背中に冷たい汗が流れ、指先が震える。
デザイナー、印刷会社、そして何より、多額の契約金を払っているタレントの事務所。
関係各所の顔が次々と浮かび、胃がキリキリと痛み出す。
「莉子さん?どうしました?」
「…なんでもないわ。ちょっと、確認したいことがあるだけ」
平静を装う声が、自分でも驚くほど上ずっていた。
すぐに各所に頭を下げ、調整に奔走したけれど、失われた時間は戻らない。
キャンペーンの開始は遅れ、会社に多大な損害を与えてしまった。
上司からの厳しい叱責、同僚たちの同情と好奇の目が入り混じった視線。
SNSには、「敏腕プレス莉子さん、大失敗!」なんて書かれない。
けれど、画面の向こう側のキラキラした世界と、現実の私の惨めさとのコントラストが、ナイフのように胸を抉った。
『莉子、大丈夫?元気出してね!』
『ドンマイ!次頑張ればいいよ!』
同期からの励ましのメッセージも、今は空虚に響くだけ。
本当に欲しいのは、そんな上辺だけの言葉じゃない。
その夜、私は吸い寄せられるように、いつもの帰り道とは違う、寂れた公園に足を踏み入れていた。
雨が降り始めていたけれど、傘を差す気力もなかった。
ブランコに腰掛け、雨に打たれながら、ぽろぽろと涙が溢れ出した。
SNSのフォロワー数も、「いいね!」の数も、私を助けてはくれない。
完璧な「私」が崩れ去った今、ここには空っぽの自分しかいなかった。
「……にゃあ」
か細い声がして、足元に柔らかな感触があった。
見下ろすと、そこにいたのは、あのサビ猫だった。
いつものように距離を置くのではなく、雨で濡れた体を私の足にすり寄せ、じっと私を見上げている。
「…あなた、なんで…」
驚いて声も出ない私を気にするでもなく、猫は私の足元にちょこんと座り込んだ。
そして、まるで「ここにいるよ」とでも言うように、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
その小さな振動が、冷え切った私の心に、じんわりと温もりを広げていく。
評価も、期待も、失望も、何もない。ただ、静かに、そこにいてくれる存在。
私は堰を切ったように、声を上げて泣いた。
キラキラした私じゃない、失敗して、弱くて、情けない、ありのままの私を、この小さな生き物はただ、受け入れてくれている。
そんな気がした。雨音と私の嗚咽の合間に、猫の優しいゴロゴロという音が、いつまでも響いていた。
さよなら『映え』、こんにちは本当の私
あの日から、私の日常に小さな変化が訪れた。
私はそのサビ猫に「サビ」と名付け、部屋に招き入れた。
最初は警戒していたサビも、すぐに我が物顔で部屋の中心を陣取るようになった。
私はまず、動物病院へサビを連れて行った。
幸い健康だったけれど、避妊手術はされていないメス猫だとわかった。
先生は「保護猫として、新しい家族を見つけますか?」と尋ねてくれたけれど、私は首を横に振っていた。
「ううん、この子は、私の家族だから」
その言葉は、自分でも驚くほど自然に口からこぼれ落ちた。
サビとの生活は、驚きと発見の連続だった。
気まぐれで、自由奔放。
私が仕事で疲れて帰ると、玄関で「おかえり」とばかりに伸びをして出迎え、かと思えば、私が構ってほしいときにはプイとそっぽを向く。
でも、私が本当に落ち込んでいる夜には、必ずそっと膝の上に乗ってきて、小さな体温を分けてくれた。
サビの行動に、「いいね!」はつかない。
SNS映えするようなポーズも取ってくれない。
でも、その存在そのものが、私の心をじんわりと満たしていくのがわかった。
「サビ、あなたって本当に正直よね」
ソファでくつろぐサビのお腹を撫でながら、私は呟いた。
誰かに良く見られようとしない。
ただ、ありのままで、そこにいる。その潔さが、羨ましく、そして眩しかった。
私は、SNSの投稿を少しずつ変えていった。
最初は、ホテルのアフタヌーンティーの写真の代わりに、サビが日向ぼっこしている写真を投稿した。
キャプションはつけずに。
フォロワーは戸惑ったようだった。
『莉子さん、どうしたんですか?』
『猫、飼い始めたんですね!可愛い!』というコメントが入り混じる。
次に、ハイブランドの新作バッグの代わりに、サビのために手作りした、着古したセーターのリメイクベッドの写真を載せた。
『もう着ない服も、少し手を加えれば、大切な誰かの宝物になるかもしれない。#サステナブル #猫のいる暮らし #手作り』
反響は、これまでの比ではなかった。
爆発的に「いいね!」が増えるわけではない。
でも、寄せられるコメントの質が明らかに違った。
『素敵です!私もやってみます!』
『そういう考え方、尊敬します』
『莉子さんの投稿、最近すごく好きです。なんだか、温かい気持ちになります』
他人の評価を気にし、キラキラした自分を演じることに必死だった私。
でも、ありのままの気持ちを綴った投稿に、こんなにも温かい共感が集まるなんて。
画面の向こうにいるのは、数字じゃない。
私と同じように、何かを探し、何かに悩み、温もりを求めている人たちなんだ。
その気づきは、私の仕事に対する考え方も大きく変えた。
私がいるアパレル業界は、華やかさの裏で、常に大量生産・大量廃棄という問題を抱えている。
流行を追いかけ、ワンシーズンで捨てられていく服たち。
それはまるで、SNSのトレンドに追われ、消費されていく「キラキラした私」のようだと思った。
本当に私がやりたいことは、なんだろう?
誰かの評価のためじゃない。自分の心に正直に、胸を張って「これが好き」だと言えるような仕事。
答えは、すぐそばにあった。
私の足元で、満足げに喉を鳴らすサビが教えてくれた。
私のしっぽのパートナー
半年後、私は株式会社L’éclatに辞表を提出した。
上司や同僚は驚き、引き留めてくれたけれど、私の決意は固かった。
SNSでの影響力を失うことを惜しむ声もあった。
でも、今の私には、フォロワーの数よりも大切なものができていた。
退職金と貯金を元手に、私は小さなオフィス兼アトリエを借りた。
そして、一人でブランドを立ち上げた。その名も、『SABI.T(サビ・ドット)』。
コンセプトは、「ペットと人が、共に心地よく過ごせるサステナブルなライフスタイル」。
廃棄されるはずだったオーガニックコットンの残布を使った猫用ベッド。
規格外で市場に出回らない野菜を加工したペット用おやつ。
私が心から「良い」と思えるものだけを、一つひとつ丁寧に企画し、信頼できる工場や農家さんと直接やり取りして形にしていく。
もちろん、簡単な道のりではなかった。
資金繰りに頭を悩ませ、慣れない経理作業に夜を徹することもあった。
でも、不思議と辛くはなかった。むしろ、充実感で満たされていた。
私のSNSアカウントは、今や『SABI.T』の公式アカウントも兼ねている。
そこにはもう、キラキラしたOLの私はいない。
いるのは、作業着でミシンを踏む私、素材の買い付けで泥だらけになっている私、そして、新商品のサンプルを前に、真剣な顔で頭を抱える私だ。
投稿する写真は、決して「映え」るものばかりではない。
でも、そこには嘘偽りのない、私の「今」が詰まっていた。
そして、そんな私の発信に、多くの人が共感し、応援のメッセージを送ってくれるようになった。
『莉子さんの作るものは、想いが伝わってきます』
『うちの子も、SABI.Tのベッドがお気に入りです!』
ある晴れた午後、アトリエに柔らかな光が差し込む中、私は完成したばかりの首輪を手に取っていた。
草木染めの優しい色合いの布に、小さな真鍮のチャームがついている。
「サビ、店長。新作のチェックをお願いします」
声をかけると、窓辺でうたた寝をしていたサビが、大きなあくびをしてからゆっくりとこちらへ歩いてきた。
私はその首に、優しく首輪をつけてあげる。
『店長』
真鍮のプレートに刻まれた文字が、太陽の光を反射してキラリと光った。
「うん、すごく似合ってるよ」
私はサビを抱き上げ、頬ずりをした。
ゴロゴロという心地よい振動が、私の胸に直接響く。
この音が、私の羅針盤。私が私でいることを、肯定してくれる、世界で一番優しい音。
かつて、私はSNSという虚構の世界で、「いいね!」という名の承認を渇望していた。
でも、今は違う。私の足元で私を見上げる、この金色の瞳。
その中に映る、見栄も飾りもない、ありのままの私。それが、何よりも愛おしく、誇らしい。
「ありがとう、私のしっぽのストーカーさん」
私の言葉に答えるように、サビは「にゃあ」と一声鳴き、私の腕にぐりぐりと頭を押し付けた。
窓の外では、都会の喧騒が遠くに聞こえる。
でも、この小さなアトリエの中だけは、確かな幸せと、希望に満ちた時間が、ゆっくりと流れていくのだった。