琥珀色のまどろみ
私の人生の半分以上を共に過ごしてきた愛猫、レオ。
拾った時は手のひらに収まるほど小さかったのに、今では15歳。立派なシニア猫だ。
「美咲(みさき)、まだ起きないの?」
休日の朝、ベッドで微睡んでいると、胸の上に乗ったレオが、ふすふすと私の顔に鼻を近づけてくる。
その重みが、私の目覚まし代わり。
「はいはい、起きますよ、レオ様」
くすぐったくて笑いながら目を開けると、琥珀色の瞳がじっと私を見つめていた。
昔はもっとエメラルドグリーンに近かったその瞳も、歳を重ねて深みのある色に変わった。
38歳、独身。アパレルの企画職として、それなりに忙しい毎日を送る私にとって、レオとの時間は何よりの癒やしだ。
若い頃は、部屋中を弾丸のように駆け回り、カーテンをよじ登っては私に叱られていたレオも、今ではすっかり落ち着いて、一日の大半を窓辺のお気に入りのクッションの上で過ごしている。
「レオ、日向ぼっこ気持ちいいねぇ」
コーヒーを片手に隣に座ると、レオは「ふにゃん」と短く鳴いて、私の膝に頭をこすりつけてくる。
その仕草ひとつひとつが愛おしくて、胸がきゅっとなる。
ただ、最近少し気になることがあった。
大好きだったカリカリの食べ残しが増えたこと。ソファに飛び乗るのを、一瞬ためらうような素振りを見せること。
そして、眠っている時間が明らかに長くなったこと。
わかっている。
レオが、ゆっくりと歳を重ねていること。
それは自然の摂理で、悲しむことではない。
頭ではそう理解していても、ふとした瞬間に、胸の奥がちくりと痛む。
「……ねぇレオ。ずっと、ずっと一緒にいようね」
眠っているレオの、白髪の混じった柔らかな毛を撫でながら、私は祈るように呟いた。
レオは小さく寝息を立てるだけで、その琥珀色の瞳は、穏やかな夢の中に沈んでいるようだった。
静かな戦いの始まり
その日は、突然やってきた。
朝、いつものようにレオにご飯をあげても、匂いを嗅ぐだけで口をつけようとしない。
それどころか、お水を飲んだ直後、苦しそうに胃液を吐いてしまった。
「レオっ!?」
ぐったりと床に伏せるレオの小さな体を抱き上げると、いつもよりずっと軽く感じて、心臓が凍りついた。
急いでかかりつけの動物病院に電話をかけ、仕事を半休させてもらってタクシーに飛び乗る。
キャリーバッグの中で、レオはか細い声で鳴き続けていた。
「大丈夫、大丈夫だからね……!」
自分に言い聞かせるように何度も繰り返すけれど、声は震えていた。
診察の結果は、思った以上に深刻だった。
「慢性腎臓病ですね。血液検査の数値を見ると、かなり進行しています」
獣医の先生から告げられた言葉は、まるで他人事のように聞こえた。
腎臓病。シニア猫に多い病気だとは知っていた。
でも、まさかうちのレオが。
「これからは、ご自宅での皮下点滴と、食事療法が必要になります。毎日になりますが、美咲さん、できますか?」
先生の問いに、私はこくりと頷くことしかできなかった。
その日から、私たちの「静かな戦い」が始まった。
仕事から帰ると、まずレオの状態をチェックし、処方された療法食をシリンジで少しずつ口に運ぶ。
そして、一日の終わりには皮下点飛だ。
最初のうちは、針を刺すのが怖くて、私の手は震えるばかり。
レオも嫌がって暴れるものだから、お互いに疲れ果ててしまう。
「ごめんね、レオ……痛いよね、ごめんね……」
涙をこらえながら点滴を終えると、レオはよろよろと私から離れ、ソファの下の暗がりに隠れてしまった。
その背中が、私を拒絶しているように見えて、胸が張り裂けそうだった。
仕事中も、レオのことが気になって集中できない。
会社の同僚に「最近、顔色悪いよ?何かあった?」と心配されても、うまく説明できずに曖昧に笑うだけ。
SNSを開けば、元気いっぱいな若い猫たちの写真や動画が溢れていて、若い頃のやんちゃなレオの姿と重なり、無性に寂しくなってそっとアプリを閉じた。
「どうして、うちの子だけ……」
レオが眠る部屋で、私はひとり膝を抱えた。
先の見えない介護への不安と、失われていくレオの生命力に対する無力感で、心が押しつぶされそうだった。
君が教えてくれた、新しい愛の形
悪戦苦闘の日々が二週間ほど続いた頃、小さな変化が訪れた。
きっかけは、会社の先輩、由香さんの一言だった。
「美咲ちゃん、もしかして猫ちゃんの介護してる?」
ランチの時、思い切ってレオのことを打ち明けると、由香さんは「私もそうだったのよ」と優しく微笑んだ。
由香さんも数年前に、20歳になる愛猫を看取った経験があるという。
「最初は辛いよね。でもね、だんだんわかるようになるのよ。あの子たちの『言葉』が」
由香さんは、点滴を上手にこなすコツや、シニア猫が好むマッサージの仕方を教えてくれた。
そして、「一人で抱え込んじゃダメよ。猫ちゃんは、飼い主の不安を敏感に感じ取るんだから」と、私の肩をぽんと叩いてくれた。
その日から、私は少しだけ気持ちを切り替えることにした。
点滴の前には、「レオ、お利口さんになれる魔法のお注射だよ。
これが終わったら、ちゅ〜る(腎臓に配慮されたもの)を少しだけ食べようね」と、明るい声で話しかけるようにした。
震える手で針を刺すのではなく、覚悟を決めて、一瞬で終わらせる。
すると不思議なことに、あれほど嫌がっていたレオが、少しずつ抵抗しなくなってきたのだ。
そして、私はレオの「言葉」に耳を澄ませるようになった。
「きゅん」という短い鳴き声は、お水が欲しいのサイン。
「ごろごろ」という喉の音にも、満足度によって微妙な違いがあること。
私が悲しい顔をしていると、おぼつかない足取りでそばに寄り添い、じっと私の顔を見上げてくること。
若い頃のような派手な愛情表現はない。でも、そこには確かに、レオと私だけの、深く静かな対話があった。
ある晴れた午後、いつものように膝の上でレオにマッサージをしていると、レオはうっとりと目を細め、私の手の甲をぺろりと舐めた。
ザラリとした舌の感触。それは、レオが私を母猫のように信頼してくれている証だった。
「……そっか。私は、レオのお母さんなんだ」
涙が、ぽろりとレオの背中に落ちた。
それは、悲しみの涙ではなかった。
お世話している、なんておこがましい。
私は、レオに「お世話させてもらっている」のだ。
この小さな命が、最期まで穏やかでいられるように。そのお手伝いをさせてもらっている。
そう思うと、介護の毎日が、かけがえのない宝物のように感じられた。
それから私は、レオとの「終活ノート」をつけ始めた。
初めて出会った日のこと。初めて「レオ」と呼んだ時のこと。
避妊手術でエリザベスカラーをつけた姿が面白くて、家族で大笑いしたこと。
私が失恋して泣いていた夜、ずっとそばにいてくれたこと。
ページをめくるたびに、レオがくれたたくさんの思い出が、キラキラと蘇る。
ノートは、感謝の言葉で埋め尽くされていった。
「ありがとう、レオ。私のところに来てくれて、本当にありがとう」
私たちはもう、静かな戦いをやめていた。
そこにあったのは、ただ穏やかで、満ち足りた愛の時間だけだった。
虹の橋のふもとで、また会おうね
桜の花が満開になった、四月の朝だった。
その日、レオはもう、自分でお水を飲むこともできなくなっていた。
私の腕の中で、浅く、速い呼吸を繰り返している。
「レオ、頑張ったね。もう、頑張らなくていいんだよ」
私は覚悟を決めて、優しく声をかけた。
窓から差し込む柔らかな春の光が、レオの体を優しく包んでいる。
私はレオを抱きしめ、子守唄を歌うように、思い出話を語り続けた。
「レオはね、本当に賢くて、かっこいい猫だったよ。カーテン登りは得意だったけど、爪とぎはちゃんと決まった場所でしかしない、お利口さんだった。……美咲が仕事で失敗して落ち込んでる時は、いっつも隣で寝てくれたよね。レオのゴロゴロって音、世界一の魔法だったよ」
私の声を聞きながら、レオは一度だけ、ゆっくりと琥珀色の瞳を開けた。
その瞳は、昔のように澄み切っていて、穏やかな光を湛えていた。
「……にゃ」 まるで、「ありがとう」とでも言うように。 それが、レオの最後の言葉だった。
ふっと、腕の中の重みが消えた気がした。レオの小さな体は、まだ温かい。でも、もうその胸は動いていなかった。
涙が止まらなかった。声を上げて泣いた。
でも、不思議と心は穏やかだった。
悲しみよりも、感謝の気持ちでいっぱいだった。
私たちは、最期まで一緒にいられた。
たくさんの「ありがとう」と「大好き」を伝えられた。
レオは、世界一幸せな猫だったはずだ。私も、世界一幸せな飼い主だった。
数日後、私は窓辺の一番日当たりの良い場所に、レオの小さな遺骨と写真を飾った。
その隣には、春の野で摘んできた小さな花を。
レオがいなくなった部屋は、がらんとしていて寂しい。
けれど、ふとした瞬間に、レオの気配を感じる。
ソファの上で丸くなる温もりを。 私の足にすり寄る、柔らかな感触を。
レオは、命の尊さを、そして「今」この瞬間を愛おしむことの大切さを、その生涯をかけて教えてくれた。
彼が残してくれた温かい光は、私の心の中で、これからもずっと輝き続けるだろう。
「さて、と」
私は大きく伸びをして、キッチンに向かった。
美味しいコーヒーを淹れて、新しい一日を始めよう。レオがくれたたくさんの宝物を胸に、私はこれからも、しっかりと前を向いて歩いていく。
窓の外では、春の光がキラキラと輝いていた。
その光の粒子の一つが、まるでレオがウインクしているかのように、私の頬を優しく撫でていった。