午前三時の訪問者
アスファルトを叩く硬質なヒールの音だけが、非常識なほど静まり返った西新宿のオフィス街に響いていた。
高層ビル群が吐き出す無機質な光が、真夜中だというのに空を白っぽく染めている。
「本日の終電は、とっくの昔に発車いたしました」 スマートフォンの無情な表示に、私、水野美咲(みずの みさき)、三十五歳は、一つ大きなため息をついた。
外資系コンポーネントメーカー「グローバル・リンクス」のマーケティング部。
入社十三年目にして、ようやく掴んだ大きなプロジェクトの最終プレゼンが、今日だった。結果は、大成功。
クライアントの満足げな顔、上司の賞賛、後輩たちの羨望の眼差し。
その全てを手に入れるために、この一ヶ月、私は平均睡眠時間三時間という無謀な日々を走り抜けてきた。
手配したタクシーに滑り込み、自宅マンションの住所を告げる。
窓の外を流れていく景色は、まるで自分とは関係のない世界のようだ。
成功の代償は、いつもこうだ。高揚感と、それを上回る虚脱感。そして、深い孤独。
誰かとこの喜びを分かち合いたいなんて、思わない。
そんなセンチメンタルな感情は、十年前にとうに捨ててきたはずだった。
「お客様、到着しました」
運転手の声で我に返る。カードで支払いを済ませ、重い身体を引きずるように車を降りた。
私の城であるタワーマンションのエントランスは、住人のプライバシーを守るかのように、静かで、それでいてどこか冷たい。
その、冷たさの中に、ぽつんと小さな黒い塊があるのに気づいたのは、オートロックのキーをかざそうとした、その時だった。
「……猫?」
植え込みの陰で、それは蹲っていた。艶やかな黒い毛並みはところどころ汚れ、片方の後ろ脚を痛々しくかばっている。警戒心に満ちた金色の瞳が、じっと私を見つめていた。
その瞳は、まるで「お前も、どうせ私を見捨てるのだろう?」と問いかけているようで、思わず足が縫い付けられた。
深夜三時。疲れはピーク。
一刻も早く、肌触りの良いリネンのシーツに身を沈めたい。関わっている暇などない。
そう頭では分かっているのに、身体が動かない。
その猫の姿が、どうしようもなく、今の自分と重なって見えたからだ。
強がって、誰にも頼らず、たった一人で戦って、満身創痍になっている。そんな、もう一人の自分。
「……一晩だけだからね」
誰に言うともなく呟き、私はそっと手を伸ばした。
猫は一瞬身を固くしたが、逃げなかった。驚くほど軽い身体を抱き上げると、ゴツゴツとした骨の感触が伝わってくる。
震える小さな命の温もりが、凍てついた私の心に、じんわりと染み込んでいくのを感じた。
部屋に入れると、猫は警戒しながらも、リビングの隅にある観葉植物の陰に隠れた。
私はひとまず水の入った皿と、常備していたサラダチキンを少しだけちぎって置いてやる。
猫はしばらく様子をうかがっていたが、やがておずおずと姿を現し、夢中で水を飲み、チキンを啄んだ。
その姿を見ながら、私はようやくソファに身体を沈めることができた。
プレゼンの成功も、上司の評価も、今はどうでもいい。ただ、この小さな命が、今ここで水を飲んでいる。
その事実だけが、やけにリアルに感じられた。
黒猫だから、「クロ」。安直すぎる名前を心の中でつけてみる。
クロは食事を終えると、再び部屋の隅に戻り、香箱座りのような体勢でじっと私を見ていた。その金色の瞳に見つめられていると、不思議と心が凪いでいく。
鎧のように身につけていたハイブランドのジャケットを脱ぎ、窮屈なヒールを脱ぎ捨てる。
完璧なキャリアウーマン「水野美咲」から、ただの「私」に戻る瞬間。
いつもなら、ここからさらに仕事のメールをチェックしたり、明日のスケジュールを確認したりするのだが、今夜はそんな気になれなかった。
ただ、クロと私。二人だけの静かな時間。
「……おやすみ、クロ」
呟いた言葉は、広すぎるリビングに吸い込まれて消えた。クロは相変わらず私を見ていたが、やがてゆっくりと目を閉じた。
その寝顔を見届けた私は、まるで長年の呪縛が解けたかのように、深い眠りに落ちていった。
しっぽの長い同居人との日々
翌朝、小鳥のさえずり……ではなく、カリカリ、カリカリ、という微かな音で目が覚めた。ソファで眠ってしまったらしい。
身体はバキバキだったが、頭は妙にすっきりしている。
音のする方へ目をやると、クロが私のブランド物のバッグのストラップを前脚で引っ掻いていた。
「こらっ! それ、限定品なんだから!」
思わず叫ぶと、クロは「何か文句でも?」とでも言いたげな顔で私を見上げ、一声「にゃあ」と鳴いた。
そのあまりにも堂々とした態度に、思わず力が抜けて笑ってしまった。
「……あなた、本当に怪我人?」 脚を引きずってはいるものの、そのふてぶてしさは相当なものだ。
「一夜だけ」の約束は、あっさりと反故にされた。
クロは、この部屋をすっかり自分の縄張りだと認識したらしい。
私が出かけようとすると玄関で座り込み、帰ってくれば「おかえり」とでも言うように足元にまとわりつく。
仕事から帰ると誰かが待っている。その事実に、私の心が少しずつ温められていくのを感じていた。
週末、私はクロをキャリーバッグに入れ、近所で見つけた動物病院へと向かった。
ガラス張りで明るい待合室には、犬や猫を連れた人たちが穏やかな顔で順番を待っている。
ビジネスの世界の、一分一秒を争うような空気とは全く違う、ゆったりとした時間が流れていた。
「水野さーん、どうぞ」
診察室から現れたのは、白衣を着た優しそうな男性だった。
年の頃は、私と同じくらいだろうか。
柔らかい栗色の髪と、穏やかな目元が印象的だ。
「初めまして、獣医師の高橋です。この子がクロちゃんですね」
高橋先生は、怯えるクロを驚くほど巧みに扱い、優しく話しかけながら診察を進めていく。
「うん、後ろ脚を少し捻挫してるみたいだけど、骨に異常はなさそうだ。幸い、軽い栄養失調と脱水症状だけ。すぐに良くなりますよ」 診断結果を聞いて、心の底から安堵している自分に驚いた。
いつのまに、こんなにこの猫のことを気にかけていたのだろう。
「保護されたんですか?」 高橋先生の問いに、私は頷いた。
「見ず知らずの猫を保護するなんて、水野さん、優しいんですね」 「いえ、そんな……。ただ、放っておけなくて」 「その『放っておけない』が、優しさですよ」 高橋先生はそう言って、ふわりと笑った。
その笑顔は、私がいつもプレゼンで多用する計算されたビジネススマイルとは全く違う、
心からの笑顔だった。なんだか少し、気恥ずかしい。
その日を境に、私の日常に新しい習慣が加わった。
それは「何もしない時間」。仕事中は相変わらず分刻みのスケジュールをこなすが、家に帰ると、クロを膝に乗せて、ただただその柔らかな毛を撫でる。
ゴロゴロと喉を鳴らすクロの振動が、手のひらから伝わってきて、一日の疲れや緊張がすーっと溶けていく。
完璧でなければ、と常に張り詰めていた心が、クロの「これでいいのだ」と言わんばかりの自由気ままな姿に、少しずつ解きほぐされていった。
会社でも、変化があった。
ランチタイム、同僚たちが恋人や週末の予定について話している間、私はいつもイヤホンをして自分の世界に閉じこもっていた。
しかし、ある日、ふと口からクロの話がこぼれた。 「うちの猫、最近リモコンを隠すのが趣味みたいで……」
すると、意外な人物が反応した。
いつも私をライバル視し、会議では火花を散らしている同期の沙織だ。
「え、水野さん、猫飼ってるの!? どんな猫? 写真見せて!」 沙織は目を輝かせて私のデスクに駆け寄ってきた。
聞けば、彼女も実家で二匹の猫を飼っている、大の猫好きなのだという。スマホの待ち受け画面は、もふもふの猫の写真だった。
「うわ、可愛い……! この子はクロ。一ヶ月くらい前に保護して」 「保護猫! あんた、見かけによらず良いとこあるじゃん!」
それから、私たちは仕事の話以上に、猫の話で盛り上がるようになった。
「うちの子はこんなイタズラをする」「この猫砂が最高」など、他愛もない会話。
今まで鉄壁のバリアで隔てていた沙織との間に、猫という共通言語が生まれたことで、不思議な連帯感が芽生え始めていた。
「完璧じゃなくてもいいのかもしれない」
クロの寝息を聞きながら、そんなことを思う夜が増えた。
スケジュール通りに進まないこと、予定外の出来事が起こること。それら全てを「無駄」だと切り捨ててきたけれど、その「無駄」の中にこそ、人生を豊かにする何かがあるのかもしれない。
しっぽの長い同居人は、言葉を発することなく、そのことを私に教えてくれていた。
涙の夜と、差し伸べられた手
順風満帆に見えた日々に、突如として暗雲が立ち込めた。
私がリーダーを務めていたプロジェクトで、海外の製造ラインにトラブルが発生したのだ。納期の遅延は避けられない状況。
クライアントからは連日厳しい催促の電話が鳴り、私のスマートフォンは鳴り止むことがなかった。
昔の私なら、きっとこう思っただろう。
「私がなんとかしなければ」。部下にも弱音を吐かず、一人で全ての責任を背負い込み、徹夜を続けてでも問題を解決しようとしたはずだ。
しかし、今の私にはクロがいた。家に帰れない日々が続くことが、何よりも辛かった。
「ごめん、クロ。今日も帰れそうにない」
深夜、誰もいなくなったオフィスから、ペットカメラの映像を見る。
がらんとしたリビングの真ん中で、クロがぽつんと座ってドアの方をじっと見ている。
その姿に、胸が締め付けられた。私が寂しいんじゃない。クロを、寂しい思いにさせている。
数日間、ほとんど眠らずに解決策を探し続けたが、事態は好転しない。
心身ともに、私は限界に近づいていた。
疲労とプレッシャーで、思考はまとまらず、普段ならしないようなケアレスミスも増えていく。
そして、運命の日。
クライアントとの最終交渉が決裂した。
私の提案は、ことごとく退けられ、最後には「君では話にならない」という屈辱的な言葉を浴びせられた。
電話を切った後、私はしばらく呆然と受話器を握りしめていた。
どうやって家に帰ったのか、覚えていない。
気づけば、私は自宅のソファに座り込んでいた。鍵も閉め忘れたドアから、冷たい夜気が流れ込んでくる。
完璧なキャリアを築いてきたはずだった。
努力すれば、何でも手に入ると思っていた。でも、違った。
崩れ落ちたプライド、失った自信。もう、どうすればいいのか分からない。
「……っ、う……」
堪えていたものが、堰を切ったように溢れ出した。
声を殺して泣いていたはずが、いつしか嗚咽に変わっていた。
大人になってから、こんな風に泣いたのは初めてだった。
まるで迷子になった子供のように、私はただ泣き続けた。
その時、膝にふわりと、温かい重みを感じた。
見ると、クロが私の膝に乗り、心配そうに金色の瞳で私を見上げている。
そして、ざらりとした小さな舌で、私の頬を伝う涙をぺろりと舐めた。
「……クロ」
ゴロゴロゴロ……。
クロは、まるで「大丈夫だよ」と言うかのように、喉を鳴らし続けた。
その温かさと、優しい振動が、私の固く凍りついた心を、ゆっくりと、しかし確実に溶かしていく。
一人じゃない。
そう思った瞬間、涙が止まらなくなった。
でも、それはさっきまでの絶望の涙ではなかった。
温かくて、優しい涙だった。
私はクロを抱きしめ、その小さな背中に顔をうずめた。
ありがとう、クロ。私のそばにいてくれて、ありがとう。
どれくらいそうしていただろうか。
ふと、玄関のドアが開く音がした。
驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは、心配そうな顔をした沙織だった。
「水野さん……? ペットカメラで、ずっと泣いてるのが見えて……鍵も開いてたから、思わず……」 沙織の手には、コンビニの袋が握られていた。
中には、温かいお茶と、甘いプリンが見える。
「沙織……」
「あんた、バカだよ。一人で全部抱え込んで。私、いるじゃん。他の皆もいるじゃん。なんで頼らないのよ」
沙織はそう言うと、私の隣にどかりと座り、私の背中をさすってくれた。
ライバルだと思っていた彼女の手は、驚くほど温かかった。
「……ごめん。助けてほしい」
絞り出すように言った私に、沙織はニカッと笑った。
「当たり前でしょ。そのためのチームなんだから」
その夜、私たちは沙織が買ってきてくれたプリンを食べながら、朝まで語り明かした。
それは、戦略でも、交渉でもない、ただの「作戦会議」。
二人の知恵を合わせれば、まだ打つ手は残っているはずだった。
クロは、そんな私たちの足元で、安心したように丸くなって眠っていた。
翌日、会社に行った私は、別人になっていた。
部下たちに頭を下げ、現状を正直に話した。
そして、沙織と共に考えた起死回生のプランを提示し、「力を貸してほしい」と頼んだ。
驚くことに、誰も私を責めなかった。
それどころか、「水野さん、やっと言ってくれましたね」「一人で抱え込まないでください」と、皆が快く協力を申し出てくれたのだ。
鉄壁の鎧を脱ぎ捨て、弱さを見せた私を、みんなは温かく受け入れてくれた。
一人で戦うよりも、ずっとずっと強い力が、そこにはあった。
新しい日々のノクターン
私たちのチームの反撃は、そこから始まった。
沙織の的確なデータ分析、後輩たちの斬新なアイデア、そして、私の経験。
それぞれの力が一つになった時、プロジェクトは奇跡的な回復を見せ、最終的には以前よりも良い条件でクライアントとの契約を結び直すことに成功した。
打ち上げの席で、私は久しぶりに心から笑っていた。
「今回のMVPは、間違いなく水野さんの家のクロくんだね!」
沙織の言葉に、皆がどっと笑う。私は少し照れながら、でも、誇らしい気持ちで頷いた。
穏やかな休日の午後。
私はリビングの窓辺でお気に入りのコーヒーを飲みながら、読みかけの本を開いている。
部屋には、クラシック音楽が静かに流れていた。
膝の上には、すっかりこの家の主となったクロが、幸せそうな寝息をたてている。
あの日、クロが舐めてくれた涙のしょっぱさを、私はきっと忘れないだろう。
そして、沙織が差し出してくれたプリンの甘さも。
ピンポーン、と軽やかなチャイムが鳴る。
ドアを開けると、そこには私服姿の高橋先生が、少し照れたような顔で立っていた。
「こんにちは、水野さん。近くまで来たので、クロちゃんのその後の様子が気になって」
私たちは、クロの定期健診をきっかけに、時々こうして会うようになっていた。
仕事の話は一切しない。ただ、好きな本の話や、美味しいコーヒーのお店の話、そして、もちろん猫の話をする。
そんな、穏やかで優しい時間が、今の私には何よりも心地よかった。
「どうぞ、上がってください。ちょうど美味しいコーヒーを淹れたところなんです」
高橋先生を招き入れながら、私は思う。
完璧なキャリアも、ブランド物のバッグも、私を幸せにしてはくれなかった。
私の心を本当に豊かにしてくれたのは、予測不能で、気まぐれで、でも、どうしようもなく愛おしい、このしっぽの長い同居人だった。
午前三時に始まった、ささやかな奇跡。
クロが奏でてくれた優しい夜想曲(ノクターン)は、私の人生に、新しい光と温もりを運んできてくれた。
完璧じゃなくてもいい。スケジュール通りに進まなくてもいい。
迷ったり、泣いたりしたっていい。
窓の外では、東京の空がどこまでも青く澄み渡っている。
その空を見上げながら、私はそっと微笑んだ。うん、悪くない。
こんな毎日も、悪くない。