汐見崎の黒猫と、陽だまりの三毛猫
コンクリートの森と、待ち受けの君
「はぁ……」
思わず漏れたため息は、渋谷のスクランブル交差点の喧騒に吸い込まれて消えていく。
ウェブデザイナーとして独立して三年。
ありがたいことに仕事は順調で、都心に構えた小さなマンションのローンも、少し背伸びして買ったお気に入りの北欧家具も、すべて自分の力で手に入れた。
だけど。
私の名前は、相川美咲(あいかわみさき)、34歳。
周りからは順風満帆に見えるらしいけれど、最近、心のガソリンが切れかかっているのを感じていた。
クライアントからの度重なる修正依頼、迫り来る納期、そして、ひとりきりの夕食。
満員電車に揺られながら、ふと窓に映る自分の顔を見ると、そこにいるのは私が憧れた「自立した素敵な女性」ではなく、ただ疲れた顔をした女だった。
「癒やされたい……」
無意識に呟き、手にしたスマートフォンのロックを解除する。
待ち受け画面に現れたのは、陽だまりの中で香箱座りをしている、
一匹の三毛猫。私の愛しい、家族。名前は「ミケ」。
私が高校生の頃、雨の日にダンボールに入れられて震えていたのを、母に泣きついて家族に迎えた子だ。
あれから十六年。
人間でいえば、もう立派なおばあちゃん。
私が大学進学で実家を離れてからも、ずっと両親と共に私の帰りを待っていてくれる、かけがえのない存在。
『元気にしてるかな、ミケ』
画面の中のミケは、泰然自若とした表情でこちらを見つめている。
その穏やかな瞳に、ささくれだった心が少しだけ和らいでいく。
最後に会ったのは、お正月だから……もう半年も前になる。
「……帰ろうかな」
誰に言うでもなく、そう呟いていた。そうだ、次の週末、仕事を無理やり調整して実家に帰ろう。
あの温かい陽だまりと、世界で一番愛しい君に会いに。急
に心が軽くなり、足取りも少しだけ弾む。コンクリートジャングルで戦う私にとって、ミケのいる実家は、唯一のオアシスなのだ。
おかえり、変わらない温もり
新幹線の窓から流れる景色が、ビル群から田園風景へと変わっていく。
イヤホンから流れるお気に入りのプレイリストも、今の心には少しだけ騒がしい。私はそっと音楽を止め、窓の外をただ眺めていた。
「ただいまー」
懐かしい木の匂いがする玄関のドアを開けると、パタパタというスリッパの音と共に、母が「おかえりなさい」と顔を綻ばせた。
その向こう、リビングのソファの上で、もぞりと動く小さな毛玉。
「ミケ!」
私が駆け寄ると、ミケはゆっくりと顔を上げ、「にゃあん」と細く、掠れた声で鳴いた。
その声が、私の心のいちばん柔らかい場所をぎゅっと掴む。
「会いたかったよ、ミケ」
抱き上げると、ずしりとした重み。
でも、半年前より少しだけ軽くなった気がした。毛並みは艶やかだけど、ところどころに白い毛が混じっている。
ゆっくりと瞬きをするその瞳は、少し白く濁っているようにも見えた。十六年という月日の流れを、まざまざと見せつけられる。
「最近、寝てることが多くなったのよ。おばあちゃんだからねぇ」
お茶を淹れながら、母が少し寂しそうに笑う。
私の膝の上で、ミケは満足そうに喉をゴロゴロと鳴らし始めた。
その振動が、じんわりと私の身体に伝わってくる。
ああ、これだ。私が求めていたのは、この温もりだ。
東京のどんな高級なマッサージチェアも、このゴロ音には敵わない。
「美咲、あんた最近疲れてるんじゃない? 目の下にクマができてるわよ」 「まあね、ちょっとだけ。でも、ミケに会えたからもう大丈夫」
強がって見せると、母は「そう」とだけ言って、私の好きだった卵焼きを焼いてくれた。変わらない優しさが、胸に沁みる。
夜、布団に入ると、ミケがそろりそろりとやってきて、私の足元で丸くなった。
昔から、私の布団にもぐり込んでくるのが彼女の癖だった。重くて少し寝返りがしづらいけれど、この重みが心地いい。
「ねえ、お母さん。クロのこと、覚えてる?」
夕食の後、アルバムをめくりながら、ふと口をついて出た。
クロは、私が小学校低学年の頃に飼っていた黒猫だ。
真っ黒な毛並みに、金色の瞳が印象的な、賢くて甘えん坊な猫だった。
「もちろんよ。あの子、本当に賢かったものね。美咲にべったりで」 「うん……。でも、ある日突然いなくなっちゃったんだよね」
嵐の夜だった。少しだけ開いていた窓の隙間から、外に出てしまったらしい。
どれだけ探しても、クロは見つからなかった。私は何日も泣き続けた。
子供心に、自分のせいでクロがいなくなってしまったのだと、ずっと自分を責めていた。
「今でも時々思うんだ。クロはどこかで幸せに暮らしたのかなって。それとも……」
「きっと、大丈夫よ。あの子は賢いから。それに、美咲との楽しかった思い出を、ずっと忘れてないはずよ」
母の言葉は温かいけれど、心の奥底に沈殿した小さな罪悪感は、完全には消えてはくれなかった。
汐見崎の黒猫
実家での三日間は、あっという間に過ぎた。
東京へ戻る日、私は少しだけ寄り道をすることにした。
新幹線の駅へ向かう途中にある、古い港町「汐見崎(しおみざき)」。
そこは、映画のロケ地にもなった美しい坂の町で、猫がたくさんいることでも有名だった。
『せっかくだから、もう少しだけ猫分を補給していこう』
そんな軽い気持ちで、私は汐見崎の駅に降り立った。
潮の香りが鼻をくすぐる。石畳の細い路地、迷路のように入り組んだ坂道。
あちこちで、猫たちが思い思いの格好でくつろいでいた。
人懐っこい猫、警戒心の強い猫、個性豊かな猫たちにカメラを向けながら、私の心はすっかり童心に返っていた。
夢中でシャッターを切っていると、ふと、視線を感じた。路地の向こう、古い石垣の上で、一匹の黒猫がじっとこちらを見ていた。
(黒猫……)
その猫は、他の猫たちとは少し違う、不思議な雰囲気をまとっていた。
全身を濡羽色(ぬればいろ)の毛で覆われ、まるで夜空からこぼれ落ちた星のかけらをはめ込んだような、澄んだ金色の瞳。
その佇まいは、凛としていて、どこか賢しげに見えた。
(クロみたい……)
そんなはずはない。
クロがいなくなってから、もう二十五年以上経つのだから。
でも、その金色の瞳に見つめられていると、胸の奥がきゅんとなる。
私が一歩近づくと、黒猫はひらりと石垣から飛び降り、まるで「おいで」とでも言うように、少し先で振り返った。
私は何かに引き寄せられるように、その後をついて歩き始めた。
黒猫は、観光客があまり立ち入らないような、細く、急な階段を登っていく。
時々、私がついてきているかを確認するように、優雅に振り返る。まるで、私をどこかへ案内してくれているようだった。
息を切らしながら階段を登りきると、そこは町と海を一望できる、小さな丘の上だった。
眼下には、きらきらと光る海と、オレンジ色の瓦屋根が連なるノスタルジックな町並みが広がっている。
心地よい風が、汗ばんだ額を撫でていった。
「きれい……」
思わず声が漏れる。
黒猫は、私の足元にすり寄ると、一声「にゃあ」と鳴いた。その声は、低く、優しく、私の心にまっすぐ届いた。
私はその場にしゃがみ込み、そっと黒猫の背中を撫でた。
黒猫は、逃げるでもなく、気持ちよさそうに目を細める。
その滑らかな毛の感触、ゴロゴロと喉を鳴らす微かな振動。
(ああ、そっか)
その瞬間、すとんと何かが腑に落ちた。
私はずっと、クロがいなくなったことを自分のせいだと思い、心のどこかで引きずっていた。
もしあの時、窓をちゃんと閉めていれば。もし私がもっと気をつけていれば。
その「もしも」が、小さな棘のように、ずっと心の隅に刺さっていたのだ。
でも、この黒猫は、まるでクロの魂が会いに来てくれたかのように、私にこの美しい景色を見せてくれた。
そして、こう言っている気がした。
『もう、自分を責めなくていいんだよ。僕は大丈夫。君も、前を向いて』
根拠なんて何もない。ただの、私の感傷的な思い込みかもしれない。
でも、それで良かった。この温かい偶然が、私の心を長年の呪縛から解き放ってくれた。
「ありがとう」
自然と涙が溢れ、頬を伝っていく。
それは、悲しい涙ではなく、心が浄化されていくような、温かい涙だった。
しばらくそうしていると、黒猫はすっと私から離れ、来た道とは違う、草むらの奥へと消えていった。
まるで、役目を終えたかのように。私はその姿が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
明日への滑走路
東京へ戻る新幹線の中、私の心は驚くほど晴れやかだった。
窓の外はもうすっかり暗くなり、家々の灯りが星のように流れていく。
汐見崎での出来事は、まるで夢のようだった。
あの黒猫は、本当にクロの生まれ変わりだったのだろうか。
それとも、ただの気まぐれな猫が、偶然私を導いてくれただけなのだろうか。
真実は分からない。でも、どちらでも良かった。
確かなのは、あの出会いが、私に大切なことを教えてくれたということ。
過去の痛みや後悔に囚われるのではなく、今ここにある幸せを大切にすること。
ミケとの時間、家族との時間、そして、自分自身の心を大切にすること。
マンションのドアを開けると、そこはいつもの、静かな「私の城」だった。
でも、以前と感じ方が違う。
ここは、孤独な場所ではなく、私が明日へ向けて羽を休めるための、大切な滑走路なのだと思えた。
スマートフォンの待ち受け画面を、新しいものに変える。
実家で撮った、日向ぼっこするミケのとびきり可愛い一枚。
そして、その隣には、汐見崎の丘の上で撮った、あの黒猫の後ろ姿。
『また近いうちに帰るね、ミケ。今度は、もっとたくさん遊ぼうね』
心の中で呟きながら、私はお気に入りのマグカップにハーブティーを淹れる。
ベランダに出ると、東京の夜景が眼下に広がっていた。
以前は息苦しく感じたこの景色も、今は未来へのきらめきに見える。
私の日常が、劇的に変わるわけじゃない。
明日になればまた、クライアントからの無理難題に頭を悩ませるかもしれない。
でも、もう大丈夫。私には、陽だまりのような温かい思い出と、いつでも帰れる場所がある。
そして、心の中には、金色の瞳を持つ、賢い黒猫の道しるべがあるのだから。
「さあ、もうひと頑張り、しますか」
夜景に向かって小さく微笑み、私は温かいハーブティーを一口飲んだ。
爽やかな香りが、胸いっぱいに広がっていく。明日からの日々が、少しだけ楽しみに思えた。
ピンバック: 2025年6月4日の本町BBCバスケットボール練習